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鞠の上のオフェリア。

左の作品のタイトルが
「鞠の上のオフェリア」です。

シェイクスピアの「ハムレット」と言う悲劇作品の中に出てくる主要人物、要の女性ですね。

カメラマンさんが名付けてくれました。

彼が鞠の上の、あの私を見て
そう、思ったんでしょう。

ただ、私にそんなオフェリア性があるなら
私には到底分かりません。

ファインダー越しに
映し出された写真を見て
「私の中のオフェリア」を見たのでしょうか。

愛、狂気、儚さ、憂い、自死、破滅…。
等など、オフェリアは「女性」として、色んな要素、魅力、果ては死生観と言う哲学的題材になってますよね。

ちなみに私はこの「鞠の上のオフェリア」の
名前を聞いてからシェイクスピアのハムレットという作品、オフェリアと言う人物を映画で見て知りました。

モノクロのオフェリアでした。

ただ、美しかった。
単なる外見的美しさとは違って
前述の通り「破壊」が見えたからです。

破壊無くして創造は無し。
私は常々そう思います。

安定力は確かに強い。

だけれど、それは「壊す勇気が無い」とも取れます。
そうして、自己を保っていたいという、チープな欲求だなぁと。
はい。私が最も嫌う「保守」と言うやつです。

チープでナンセンス。
無表情で過ごす人生と同義です。

私「そんな単調な日常の何が楽しいの?」と
平気で人に聞くような性の持ち主です。

「愚直」良くも悪くも。

「幼稚」良くも悪くも。

「幼さ故の残酷、残虐性」
蝶の羽をちぎり続け、鱗粉が舞う光景を
何だかふんわり見ていた頃の様に。

ペットボトルの中に蟻を何匹かおびき寄せて
ザクロの花の破片を入れて
水でペットボトルを満タンにして蓋を締める。

そして、思いっきり振る。

ペットボトルの中で、クルクルっと蟻たちと、ザクロが回る。

少しだけ綺麗だなと思った。と思う。

好奇心旺盛な私ですので
その好奇心が酷な方に向くこともしばしば。

数字的に大人になってからは
やってませんが。苦笑

話を戻してっと。

オフェリアの存在は、シェイクスピアの
「ハムレット」において、愛と狂気、
そして死の複雑な交錯を象徴している。

「死生観と女性と言う生き物」

以下は、そんな「オフェリア」を
「私」と言う女の目線から
哲学的な考察を元に
綴った私目線のエッセイである。


「オフェリアの沈黙」

オフェリアは、愛の喪失と狂気の淵に立つ女性として、人々の心に深く刻まれる存在です。
それ程惹かれる「何か」をオフェリアは秘めている。確かに。

オフェリアの悲劇は
愛する者による裏切り、そして、父の死。
この、二重の打撃・喪失によって
引き起こされる。
然しオフェリアの物語は、単なる悲劇以上の様々な事象や問題を人々に示している。

必ずオフェリアは女性でなければ
ならなかったのだ。

オフェリアの沈黙は、言葉すら超越した、表現の力を持っています。
それは、とても強く、とても脆い。
目が離せない程の「女性」の力。
それを、魅力と言うのだろう。

オフェリアが最終的に選んだ「沈黙」は、オフェリアの内なるの世界と外界との断絶を象徴している。

彼女の狂気は、言葉では表現できない、出来る筈もない、深くて暗い、真実を如実に炙り出している。
さながら、炎の様に。強く。
人々を焼き尽くす勢いではないだろうか。

その深い沈黙(炎)の中には
周囲(社会)の期待と個人の願望と
揺れ動き続ける
人間の矛盾を忍ばせている。
と、しか思えないのです。

オフェリアの死は、水面に浮かぶ花々とともに描かれることが多いみたいですが…。

これはオフェリアの純粋さと、生命の儚さ。
決して救う事の出来ない、美しさ。
と、言う人々のイメージからなのでしょう。

水は生と死、流動性、恒常性の間の境界と言う抽象的な表現であろう。
先程は炎とも例えたが相反している。
矛盾。だ。
ただ、炎が「灯」になるとゆらゆら揺れる。
水と、灯が担う、その行為は上記と同じく事実でもあるのではなかろうか?

そう、オフェリアと言う、一人の女性は、この世界とあの世界との間の移行点にゆらゆらと位置している。
曖昧で掴めそうで、掴めない。
そんな、存在を
また、哲学的に考える。

オフェリアと言う女性の物語は
私たち自身の存在の意味、無意味
価値、無価値…等と言う様な
相反する矛盾と言う事実。を示唆しているのでは?

私たちを取り巻く、世界との関係について、深く、光とも闇とも言えない問いを賽子の様に投げつけられているのだ。

それは最も正しく、最も間違っている気がしてならないのだ。

彼女の狂気と沈黙は
私たちが日常で直面する矛盾や葛藤。
大層滑稽で可笑な事実を、反映・投影している。

その穏やかな沈黙と言う静けさ。
何よりも美しい終焉は
人間の感情の深淵を探る思考へと
「オフェリアが意図的に」
私たちを手繰り寄せていると
堪らなく感じるのです。

正しく蜘蛛の巣と形容出来る程。
思考を絡め取られる。

オフェリアと言う女性の悲劇は
愛と狂気
死(死生観)
女性と言う生き物の内面、外面、秘めたるもの…。

それは、きっと、男性からすると
理解の範疇を悠に超えるだろう。

決して交わる事など出来ないのだ。
分かり合える事は有り得ない。
そう、永遠に。静かに。

この様に様々な面からの
哲学的な探求、アプローチ
そのものであり、私たち人々にとって永遠のテーマである。

オフェリアの存在。
それそのものが
私たち自分自身と世界とを
どのように理解し、どのように関わっていくか?
と、いう問いに対する、一つの答えを、賽子を、事実を投げかけている。

もう一度、私たちは
「ハムレット」
と、言う悲劇を手に取り、目に焼き写すだろう。

オフェリアが投げつけている
それらの答えを各々見つけたい。と、言う欲求から。

オフェリアは、私たち、人間の、各々各自の、内面の世界と外界との関係にスポットライトを当て続けている。

人間の、そして、女性と言う生き物の
感情の深淵に光を当てる為に。



オフェリアは何時だって
私にスポットライトを当てていたのかしら。

何にしても
あの作品が無かったら
名付けられなかったら
私はきっと、私では無かったのだろう。
とは、自覚している。

「オフェリアの沈黙は、私の沈黙」
なのだ。

「オフェリア再び」
~self portrait~
model.塵芥 詩歌
「鞠の上のオフェリア」
model.塵芥 詩歌

さてさて、ここまで見て下さり
有難う御座いました。

まだまだ、私のオフェリア論は
何個か続きます。

それでは。



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