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まずは自己紹介


 どうも、皆さま私のような中年おじさんの自己紹介ページへお越しいただきありがとうございます。
私は東京都は練馬区、2020年8月31日に惜しまれながら無くなった遊園地「としまえん」の目の前で、日本蕎麦屋を営む両親のもとに生まれました。
弟二人の男三兄弟の長男として、決して裕福ではなかった我が家でしたが、そんな家庭に生まれた私がなぜ、勉強が嫌いだった私がなぜ、英語教育というジャンルで学校を開校するに至ったのかを、少しづつお話しが出来ればと思っています。


気が付けば野球一色

物心ついたころから既にグローブをはめて親父とキャッチボールをしていました。もちろん両親は共働きで小さい頃はオカンが背中に渡しをおぶりながら蕎麦屋の店をまわしていたそうです。
4歳5歳くらいになると、蕎麦屋の休憩時間には毎日親父とキャッチボール。小学生に入る前には既に大人となんの問題もなくキャッチボールが出来ていました。

そろばんと赤ペン先生

商売人の息子という事もあり、習い事はそろばんと自宅学習の赤ペン先生だけ。もちろん学習塾に行く余裕など我が家にはなく、私自身も行きたいとは思っておりませんでした。
そろばんは今でも根強い人気の習い事だと思いますが、確かに今後の人生において私にとっては非常に合った習い事だったと思います。
また自宅で手軽に出来る学習として当時から人気があったのが進研ゼミの赤ペン先生。これは勉強が好きではない幼少期の私にとっても苦手意識がつかずスムーズに出来ていた印象です。

受験とは無縁の学生生活、23歳で独立

野球ばかりしていた私でしたが、小学校・中学校と学校の勉強の出来は中の上くらいだったのかなと思います。また野球でもキャプテンでエースであった為、高校にも推薦で行くことが出来たため受験勉強も一切したことがありませんでした。都内の公立高校を卒業後は、自動車系の中堅商社へ就職。
学生時代に漠然と社長になりたいと思っていた私は、飲食店と不動産でお金を稼ぎたいという気持ちがあり、2年で商社から飲食業界へ転職。
飲食業界で数多くのノウハウを学んだ私は貯めた自己資金と公庫からの借り入れで23歳で独立開業することになるのです。


開店当時のお店

集客・マーケティングという見えていなかった壁

若干23歳で晴れて自分のお店を持つこととなった私ですが、オープンから半年は毎日満席になるほど忙しいお店でした。スタッフが10代から20代と若く、内装もカフェのようなスタイルだったので女性の割合が7割と、地域では一時話題となるほど。
しかしやはり商売は甘くありませんでした。飽きられていくのです。
ここで気づき始めます。今まで私がいた飲食業界は東京中心部。しかし都内と言え住宅街に近い店舗で考えなければいけないことは、長くやるために考えることが必要でした。この時私の両親は既にお蕎麦屋を25年もやっていて、どれだけ両親が大変な思いで男3人を育てたのか気づきます。
飲食店という吐いて捨てるほどある業種の中で、私は集客やマーケティングの基礎から間違えを犯していたので。
また大手とは違い、少ない予算の中でどうやって効率よくやっていくべきか。気づいた時には既に資金は枯渇して私の気力も失われ、結婚も考えていたこともあり、このままではいけないと、2011年の東日本大震災を機にお店を閉める決断をして、次の道へいくことを決めたのでした。

不動産業界での激動の時代を経験

 23歳で独立をして始めた飲食店ですが、約4年半という期間でお店をたたむこととなり、20歳から飛び込んだ飲食業界には7年ほど携わりました。
後に、この飲食業での経験が非常に私個人にとっては大きいものとなることとなります。
お金を稼ぐということ、売り上げを作るということ、お客様を呼ぶということ、それには全て見えるもの見えないものコストがかかるということです。
私は既に未経験ではあるものの不動産業界へ興味を持っており、少しの予備知識を持って転職先を探していました。
・地元密着の小規模の不動産屋さん
・都心部でどんどん出店をしているベンチャー
・CMでも見るような大手不動産会社
久しぶりの転職活動ではありますが、店を閉めると決意してからの気持ちは、やけに清々しく新しい舞台で必ず成果を出すんだと、同時27歳の私は新たに活力を持っていたと思います。
そんな中数社目の面接で、最近勢いにのるベンチャーの採用担当から情熱的にお声かけ頂いたのを覚えています。
「この後の面接は行かないでいい、うちは今日にでも採用したい。新しい店舗が出来るのでそこですぐに働いてほしい」
私とほとんど年齢の変わらない採用責任者でした。
1ヶ月に1店舗の勢いで出店しており、またマネージャー経験のある人間が欲しいとの事でした。
飲食業界でも既に40名程度の所帯でマネージャーをやり、その後独立をした私に非常に期待を頂いたようでした。
すぐに店舗の中で一番の売上を立てるモンスター店舗へ配属。営業研修というロールプレイングをこなし、1ヶ月後くらいに接客デビューとなります。
私が入った部署は、店舗を構え個人のお客様に賃貸でお部屋を紹介するというものでした。
飲食業界での接客、お客様の属性に合わせた会話、不安を取り除いてのクロージング。私には何も難しい事はなく、すぐに店舗の責任者となり1年ほど経った頃にはグループの3分の1の店舗を任されるエリアマネージャーとなります。
年々不動産賃貸店舗も厳しいマーケットとなってきていた時期もあり、集客は本当に激務でした。
特にその頃の不動産広告は費用が高騰し莫大な為、私の頃には1人のお客様を呼ぶのに1万円以上のコストがかかっていました。
成約されるお客様に至っては2万円を超える店舗もありました。
この頃に、飲食業界とはまた違った集客やマーケティングを学べたんだと思います。
そこから別の会社にヘッドハンティングされるような形となり、一般の方とは交えない不動産開発などの売買営業となりました。
不動産のお仕事は今現在も継続中なので割愛しますが、ここまでの経験した事がここからお話しする英会話教室の経営に非常に大きな影響になることとなります。

英会話教室の経営について



この紹介文を見て頂いてわかる通り、私の経歴には全く英語が出て来ません。そうなんです。ひょんな事から始めることになったのです。
しかし今思うと、決して行き当たりばったりではなく、地元や地域、子供の教育など私は常日頃から関係しており、やるべくしてやったのです。
きっかけは私が従事している不動産のオフィスでのこと。外国人投資家なども抱えている為スタッフ間では英語が飛び交うことも。
また、オフィスは有名なビルで外資系も多く入っており、エレベーターなどでは英語の会話が飛び交うのが普通です。
学生時代は英語が苦手という訳でもなかったのですが、スラスラ話せるレベルにありません。
そんな中、私のオフィスでは外国人投資家担当スタッフに専門的にさらに高度な英語を教える講師が常駐しておりました。
私はその講師とデスクが一番近かった事もあり、彼女の仕事の熱意、人間性も知っており、よく拙い英語でくだらない話をしていたのを覚えています。
そんな彼女が3年経った頃、会社の部署事情もあり契約切れに。無職となる予定だと周りから聞き、なんの迷いもなく「俺の地元でスクールやる?」と直感で決断したことは、自分らしいなと思いますす、何か武者震い?アドレナリンのようなものが出ていた記憶があります。

さて、長い自己紹介はここまでとして。
次回から英会話教室の立ち上げた時のエピソードをお話しさせて頂ければと思います。
何卒皆様、よろしくお願い致します。

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