見出し画像

心の20%と体の80%

妹が就活を迎えている。
就活を経験した身として、できる限り力になりたいとは思っているが自分の経験したこと、感じたことが全てではないし、時代も変わっていると思うのでとても歯痒い。

就活中に「これは自分の人生の中で相手にとって都合がいい部分を切り取って相手にとって都合がいい人間を演じるゲームなのだ」と感じた。

「なんで?」「どうしてそう考えたの?」「いつそう思ったの?」

徹底的にWhyを問うてくる面接官に対し、自分の過去の出来事、特に幼少期の出来事などを披露し、自分の価値観がどうやって形成されてきたのかを詳らかに説明し納得してもらう作業。

その間、僕は人生の80% を捨てる。

僕の価値観に影響を与えた出来事の中で、企業の価値観に合う部分だけを相手に見せる。

そしてあなたのお膝元にいても不快な人間ではないこと、
資本主義という文脈上都合のいい人間でなること、
会社の利益のために便利な人間であること、
決して謀反など企てないことを表現する。

そのために自分の人生の20%を提示して、
自分の人生の80%はなかったことにする。

じゃないと相手に不快感を与えかねず、
資本主義の文脈において都合が悪いと思われ、
会社の利益になるか疑わしく感じ取られ、
謀反の疑いをかけられる。

就活中は、こんな気分だった。

自分の価値観の20%で構築された人間性で生きる場所。
そこが会社だと思っている。

だから、会社で働いている間、80%の自分は死んでいた。

その80%の自分は檻に閉じ込められた獰猛な肉食動物のようで、
いつも心の奥底から上司に、会社に、そして社会に中指を立てて檻をガシャンガシャンと揺らしている。

「もう少しでおうちに帰るから、ちょっと待っててね。」
そう声をかけているのに時々檻から飛び出してきそうな中指に、
ヒヤヒヤしながら働いていた。
どうかこの中指が誰にもバレませんように。

会社は、僕の心のごく一部しか許容しないのに、僕の時間の多くを求める。

睡眠の時間も考慮すると、人生の80%くらいを会社は求めてくる。
休みというのは平日により効率よく働くための時間であるという資本主義のシステムを考えるとじゃあもう100%が会社のためじゃんとすら思う。

心の20%と体の20%が会社に行って、
心の80%と体の80%は家で自由奔放に暮らせるなら納得できるが、心と違って体は分割不可能だから、僕の心の80%はずっと檻に閉じ込められていた。

僕の心の80%が活動を許可される時間は本当に微々たるものだった。

だから、案の定ぶっ壊れた。

心の80%の居場所があまりにも少なくて、
結果的に体がぶっ壊れた。

中指が毎日ガシャンガシャンしてたから檻も想定より早いペースで老朽化したのだろう。


人間はいろんな感情で構成されている。

会社でしか出せない自分がいて、
好きな人の前でしか出せない自分がいて、
家族の前でしか出せない自分がいて、
本を読むことでしか出せない自分がいる。

それらはまるで一人の人間の中に多様な人間を飼っているようなものだ。

だから僕は、長時間労働の会社はもうやめようと思った。
心を構成する要素が少ないか、もしくは一つの環境であらゆる自分を全部出せるという人もいるかもしれない。

そういう人は長時間働いても大丈夫かもしれないが、
相手によっていろんな自分を使い分けないと生きていけない人間にとって、
一つの場所で生きていくことは難しい。

自分の中に解放されたかがっている自分がたくさんいるから、
それらをいろんな場所でちょっとずつ出しながら飼い慣らしていかないといけない。

「これさえあれば人生OK」という職や趣味、
もしくは「あなたは私の全部を受け止めてくれる」という誰か。

このどちらかに出会うまでは、しばらくはいろんな場所を遊牧民のように移動し続けながら生きていくのが僕の人生には合っているのかもしれない。


この記事が参加している募集

仕事について話そう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?