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増える被害者、増えない加害者。

「○○君の事件に伴い、本校でも全生徒、全教員を対象にアンケートを実施しましたが我々の学校にいじめの存在は認められませんでした。」

遺書に学校が辛いと書いてあったのに。
被害者が存在するのに加害者は存在しない。
これじゃまるでマジックだ。

パワハラ、セクハラ、モラハラ、カスハラ、増える虐待、毒親、アダルトチルドレン、親ガチャ、入れない保育園、上司ガチャ、部下ガチャ。

SNSに被害届を提出。

「上司のパワハラが最悪。」
たくさんのいいねとコメント。
みんな上司の言動に苦しんでいるようだ。
大変な時代だ。

「パワハラが怖くて部下には何も言えない。残業もさせられず自分が残業。ストレスで鬱状態。」
たくさんのいいねとコメント
みんな新世代の部下に苦しんでいるようだ。
大変な時代だ。

こんなにたくさん被害者がたくさん出てきているのにどうして加害者はどこにも出てこないのだろう。神的存在が人々に加害をばら撒いているとでもいうのか。


あまりにも被害者言葉が増えている気がする。そしてみんなで、被害を受けたストレスを他の誰かにぶつけている。誰のせいで自分が苦しいのか必死に四方八方に石を投げている。そんな状態で優しさなんてもちろん持てるはずもない。

みんなで「せーのっ」と、自分たちは被害者でもあり加害者でもあることを認めてみたい。

多分僕たちは、傷つきながら、傷つけている。

しかし今の時代、加害者になることは怖い。

SNSやワイドショーで毎日のように行われる加害者への投石。そこら中で開催されている欠席裁判によって判決された私刑。それはもはやリンチと変わらない。

「私は加害者です」と認めることは世間の私刑に処されるという1番の被害者になることが確約されている社会だ。

こんなに加害者に不寛容な時代はあっただろうか。

これでは誰も加害者を名乗らない。みんながみんな、加害者になることに怯えながら、被害を受けている部分だけにスポットライトを当てて必死にアピールしている。




ここまで書きながら、優しくなるためには自分が加害者でもあることを自覚する勇気を持ちながら、加害者を見つけたらすぐに集団リンチする癖を止めることでしか優しさの回帰はないなと考えていた。

しかし、自分が加害者であることを認めれば僕たちはその加害を止めることをできるのだろうか。

それもできないと思った。

それは僕たちが優しい心を持っていないからではない。みんな優しい心は持っている。しかし、ほとんどの人が、自分が「なぜ」加害者であるかということを理解できないのだと思う。

かなり極端な例を出すと、SNSでの誹謗中傷が情報開示されて訴えられた時に、その書き込みをしていた人が「つい匿名なので誹謗中傷をしてしまいました。すいません。」となれば別に問題はない。しかし、実際のところは

「え?起訴?人違いじゃないですか?誹謗中傷?していないです。該当する投稿はどれですか?え、この『不倫しておいてよく人前に出れるな、消えろ、二度と表に出てくるな』という投稿ですか?これ誹謗中傷なんですか?どうしてですか?え、本当に言っています?僕は思ったことを呟いただけなんですけどね、、。」

こういうことが起きるらしい。なぜそれが相手を傷つけているのか自覚できないことには「あなたは加害者です」と言われても改善のしようがない。

この前もどこかの地方の政治家がパワハラだと訴えられて「お笑いだと思って言いました」と、僕からみたら訳のわからないことを言っていた。その発言のどこが面白いのか僕には全く、1mmもわからなかった。

今出しているのはものすごく極端な例だ。これならほとんどの人はなぜダメかわかる。
しかし、多様化が進む中で、この「加害性の本質を理解する」難易度がとても上がっていると思う。自分の行動が、発言が、なぜ相手を傷つけるのかわからない。「死ね」と言っちゃいけない。というほどシンプルな世界ではなくなっている。加害は複雑だ。

でも自分が傷つく感覚は明確にわかる。被害には敏感だ。その結果被害者だけが増える。認知しやすいように、アピールしやすいように、被害者っぽい言葉だけが増えていく。

加害はどうすれば認知できるのか。
やはりこの問題に帰ってくる。多分すごく難しいことなんだと思う。考え続けなければならない。

これに加えて最近は、「明らかに加害であることはやらない。」まずはここはせめて徹底できるようになれないかと考えている。しかし心に余裕がないとつい攻撃的になる。では「どうすれば心に余裕を持てるのか。」ここをもっと考えなければならない。

引き続き優しさ2.0を探す旅を続けよう。

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