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矢沢永吉『50年、変わらない歌声を披露し続けるロック界の帝王』(前編)人生を変えるJ-POP[第41回]

たったひとりのアーティスト、たったひとつの曲に出会うことで、人生が変わってしまうことがあります。まさにこの筆者は、たったひとりのアーティストに出会ったことで音楽評論家になりました。音楽には、それだけの力があるのです。歌手の歌声に特化した分析・評論を得意とする音楽評論家、久道りょうが、J-POPのアーティストを毎回取り上げながら、その声、曲、人となり等の魅力についてとことん語る連載です。

新年の年明けは、ロックの帝王矢沢永吉を扱います。一昨年にデビュー50周年を迎え、74歳という年齢を感じさせないパワフルなステージを展開し続ける矢沢永吉のデビューから現在に至る経緯と多くのファンを捉えて離さない彼の魅力について書いてみたいと思います。


フォークソングブームの真っただ中で始めたロックバンド

矢沢永吉は、現在74歳。広島県出身です。両親と早くに別れた(母とは3歳で離別、父とは小学生の時に死別)彼は、親戚の家を転々とした後に、祖母に引き取られるという不遇な幼・少年期を過ごしています。

小学校5年生の夏からアルバイトを始めて、家計を助けたというのですから、如何に経済的にも恵まれない少年期だったかがわかるほどです。(矢沢永吉オフィシャルサイトより)

彼と音楽との出会いは、中学生のとき。ある日、FMラジオから流れてきたビートルズの曲との出会いが、彼の音楽の始まりだったと言います。

その後、高校を卒業し、彼は東京を目指して夜行列車に乗りますが、たまたま耳に入ってきた「横浜」のアナウンスに、ビートルズの出生地リバプールを重ね合わせて、横浜で下車し、そこから音楽の道を目指したのでした。

横浜では、レストランなどでアルバイトをしながら、バンドを結成してライヴを行っていました。なかなか日の目を見ない毎日を過ごすのは大変な忍耐力を要求される日々でしたが、1972年、彼が23歳の時、内海利勝、大倉洋一の2人と一緒に、「CAROL(キャロル)」を結成します。

この頃の日本の音楽業界は、フォークソングブームの最盛期で、「反戦歌」「四畳半フォーク」といった当時の時代背景を題材にする音楽が流行していました。

そんなときに彼はロックバンド「キャロル」を立ち上げ、演奏する場所のオファーと予約やメンバーの送迎など、マネージャー業全般を彼自身が行いながら、反面ではデモテープを作って送ったり、オーディションに参加したりもしていたのです。

たまたまフジテレビの若者向けの番組『リブ・ヤング』の出演オファーを受けることがあり、黒の革ジャンにブーツというステージ衣装で出演したところ、その番組を観ていた音楽プロデューサーのミッキー・カーチスの目に留まるという幸運に恵まれました。

そうやって、日本フォノグラム社との専属契約が結ばれ、12月25日のクリスマスの日にシングル『ルイジアンナ』でバンド「キャロル」はメジャーデビューを果たしたのです。

加熱する人気と、過激化するファンたち

その後、彼らは順調にバンド活動を続け、ロックという今まで日本ではあまり馴染みのなかった音楽が、瞬く間に日本の隅々に行き渡っていきます。楽曲は1か月に1枚のシングルという超ハードスケジュールで発売され、どれもがヒット。

確実に若者のファンを増やしながら、その一方で、彼らの過激なファッションやスタイルに呼応した暴走族がコンサート会場を占拠し、トラブルを起こすというような現象も起きたりしました。

また、内田裕也のプロデュースによるロックンロール・カーニバルの出演時にメンバー自身が緊張から泥酔状態でステージに上がり、失神する、というような過激な出来事を起こしたこともあります。

そんな出来事も彼らの人気に拍車をかけることになり、7枚目のシングル『ファンキー・モンキー・ベイビー』は大ヒットを飛ばし、今なお、多くのアーティストがカバーする代表曲として人々の記憶に残っています。

ただ、このような出来事は、ロック音楽は暴力的、過激、というレッテルを人々の中に強く植えつけ、マイナスイメージに働いたことも確かなことです。

その後もメンバーの失踪など思いもかけない出来事が起き、その窮地を救うべく映画撮影をパリで行う、という提案が出されます。彼らはそれを受け入れ、パリでのデザイナーやまもと寛斎のファッションショーで演奏を行いました。

彼らの音楽やファッションスタイルは、パリの人々に受け入れられ、結果的に映画撮影と共に大成功を収めることになったのでした。(

ですが、彼らの活躍と共にファンの行動はますます過激になり、ライブ会場では手のつけられない騒動を起こすまでの状況に……。結局、矢沢はバンドを解散する決意をしたのです。

キャロルの解散。そして、「ロックの王様」へ

キャロルは、1975年に解散。その後、矢沢はソロのロッカーとして歩みを始めることになります。

キャロルでのイメージを払拭するため、彼は解散直後から、ツアーを敢行し、休みなくライヴ回数を積み上げていきます。

最初はソロのロッカー矢沢永吉を受け入れられなかったファンも、彼の音楽にかける情熱やライヴへの熱意などを感じて徐々に受け入れていくようになります。

この間、1年と約1ヶ月、127本ものライヴを敢行した彼は、1977年、最終的に日本武道館でのライヴを成功させ、「ロックの王様」と呼ばれるようにまでなったのでした。

このようにして始まったソロのロッカー矢沢永吉は、その後も途切れることなく活躍を続けていきます。

1978年には、資生堂の化粧品とのタイアップでリリースされたCMソング「時間よ止まれ」が、大ヒット。

これは、ロック・ミュージシャンと化粧品という、およそ毛並みの全く違うジャンルのコラボが、多くの人にインパクトを与え、一気に大ヒットへと繋がっていったのです。

このレコードは、結局、60万枚以上を売り上げ、オリコンチャートの1位を獲得しました。このヒットによって、彼は、名実共に日本のトップアーティストの仲間入りを果たしたのです。

後半は、彼の歌声の秘密や、「矢沢スタイル」と呼ばれる独特のファンのスタイルや、彼が先駆けたアーティストの権利保護という点についても考えてみたいと思います。


久道りょう
J-POP音楽評論家。堺市出身。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン元理事、日本ポピュラー音楽学会会員。大阪音楽大学声楽学部卒、大阪文学学校専科修了。大学在学中より、ボーカルグループに所属し、クラシックからポップス、歌謡曲、シャンソン、映画音楽などあらゆる分野の楽曲を歌う。
結婚を機に演奏活動から指導活動へシフトし、歌の指導実績は延べ約1万人以上。ある歌手のファンになり、人生で初めて書いたレビューが、コンテストで一位を獲得したことがきっかけで文筆活動に入る。作家を目指して大阪文学学校に入学し、文章表現の基礎を徹底的に学ぶ。その後、本格的に書き始めたJ-POP音楽レビューは、自らのステージ経験から、歌手の歌声の分析と評論を得意としている。また声を聴くだけで、その人の性格や性質、思考・行動パターンなどまで視えてしまうという特技の「声鑑定」は500人以上を鑑定して、好評を博している。
[受賞歴]
2010年10月 韓国におけるレビューコンテスト第一位
同年11月 中国Baidu主催レビューコンテスト優秀作品受賞