白血病に罹り死を迎えた幼い患者。死が迫っている患者の心のケアの在り方とは。『悲しみを言葉に 終末期の子どもと家族のこころのケア』 訳者まえがき公開
本書は、白血病に罹り骨髄移植をしたものの死を迎えた7歳の男児の、最期の3カ月を克明に記録したもの。幼い患者の心の動き、家族や親交ある人々の心情、そして医療従事者自身の心のダメージへのケアについて、時系列で把握できる。この貴重なケース記録は、英国では終末期医療に携わる専門職必読の書とされている。子どもの症例ではあるが、心臓病その他、命に関わる疾病や怪我をした患者へも応用可能であり、死が迫っている患者の心のケアの在り方の再考を促すものとなっている。
原書名:Give Sorrow Words: Working with A Dying Child 3rd Edition
▷書籍詳細
訳者まえがき
ロバートは5 歳の時に急性骨髄芽球性白血病と診断され,化学療法により
寛解状態にありました。7 歳半に骨髄移植のために入院してきたロバートは,著者の心理療法を受けることになります。本書では,彼が亡くなるまでの3カ月間の臨床記録とともに,生命を脅かす病気の子どもを巡る多くのテーマが取り扱われています。
小児科病棟やNICU に入院中の赤ちゃんや子どもの苦しみは,生命を脅
かす先天性疾患や病気の症状だけではありません。必要な治療や処置は時に
苦痛を伴い,辛い副反応もあります。しかし赤ちゃんや子どもは,その苦し
みを言葉で十分に表現できません。言葉にできない苦痛を抱えた子どもを
ベットサイドで見守っている親たちもまた,強烈な不安や悲しみ,罪悪感や
無力感に圧倒されて,日々を生きています。こうした親子への心のケアは,「人間味豊な温かな関わり」や「共感や傾聴」を手掛かりにして,これまでは看護師や医師,保育士や院内学級の教師などによって提供されてきました。近年では,臨床心理士がこうしたケアに加わるようになってきました。カウンセリングや心理療法を応用して,子どもや親の「こころの痛みや苦悩」にフォーカスを当てて,より専門的ケアやサポートを提供することが期待されています。
ただ,どのような専門家であっても,この種のケアやサポートは困難を極
めます。そこには,現在進行形のトラウマ体験があるからです。子どもにとって,「命に関わる病状であること」は,トラウマティックな体験です。ただ自分の体験を表現する言葉をまだ持ち合わせていないか,十分に表現できないだけです。また親にとっても,我が子の生命の危機に直面する事態は,十分にトラウマティックです。さらに侵襲的になりうる手術や化学療法なども,同じ体験を引き起こします。しかもこの体験は,治療が功を奏さない間は,日々,繰り返されていて,そのインパクトが,子どもや親の心身を圧倒し続けています。医療スタッフが向き合っているのは,この破壊的な「こころの痛みや苦悩」の渦中にいる人々なのです。
この現在進行形のトラウマ体験は,医療スタッフにとっても無縁ではあり
ません。標準治療が功を奏さなくなったとき,このインパクトはピークに達
して直接的にも間接的にもスタッフを圧倒します。この圧倒的な体験は,時
に医療専門職の思考や意思決定,コミュニケーションやチーム機能を歪めて,専門職として適切に振る舞うことすらできなくなります。時には,スタッフ一人ひとりのこころを蝕みます。それゆえだからでしょうか,臨床心理士には,患者や家族の支援だけでなく,医療スタッフへのコンサルテーションや多職種カンファレンスで専門性を発揮することが求められています。
しかし,この仕事は臨床心理士にとっては新しい領域であり,養成機関で
も教育を受けておらず,先行する実践や研究もあまりありません。心理療法
やカウンセリングの訓練を十分に受けた経験豊かな臨床家であっても,容易
なことではありません。通常のクライアントは生命の危機に直面しておらず,標準的なカウンセリングや心理療法は,援助プロセスを促進するために厳格な面接構造のもとで行われます。プライバシーが守られる面接室で,同じ援助者と,同じ曜日の,同じ時間に,同じ頻度で出会うという面接構造は,長年の歴史の中で培われてきたものです。あまり注目されていないかもしれませんが,そこには「援助者の機能」を守る働きもあります。
ところが,この領域のクライアントは常に生命の危機に瀕しており,時に
は援助できる期間も限られ切迫しています。病状に合わせて時間や頻度を常
時変更しなくてはなりません。面接室で会えることは稀で,処置や看護のた
めに人が出入りして,十分なプライバシーを確保できない病棟やベッドサイ
ドで援助しなくてはなりません。こうしたクライアントの特性や外的構造の
大幅な修正は,豊かな臨床経験から面接構造が内在化できていても,臨床心
理士のこころを激しく揺さぶります。また自分が所属する医療チームへのコ
ンサルテーションも困難を極めます。心理療法に求められる第三者性を確保
できないからです。こうした状況は,援助する臨床心理士もトラウマに曝さ
れる危険があることを意味しています。
本書の訳出の起点は,こうした難しい仕事と日々,格闘している臨床心理
士とのワークディスカッションの体験です。初めて本書に出会ったとき,
1985 年にすでに英国では,こうした子どもに心理療法士が援助するための
議論が始まっていたことは驚きでした。我が国でいま,日々の臨床で経験す
る同じ苦悩の記述や問題を考えるヒントが,この本にありました。しかも,
すでに第3 版まで印刷されていて,治療技術や医療状況の進歩に合わせてさ
まざまなテーマについても検討がアップデートされていて,示唆に富んでい
ます。こうした示唆のおかげで,ディスカッションではさらに歩みを進める
ことができました。
インフォームド・コンセントでは,どんな関係性が生じているのか。その
関係性のなかで,子どもや親はどんな体験をしているのか。子どもや親の意
思決定は,その関係性に影響されて形作られるのではないか。子どもの生命
を左右する治療の決断をせねばならない主治医は,どれほど強烈な精神的負
荷に曝されているのか。どんな状況下で,医療スタッフの視野狭窄的な思考
やコミュニケーションの断片化が生じるのか。多職種カンファレンスや臨床
倫理委員会の取り組みは,プレッシャーに圧倒されている主治医をサポート
できるのではないか。医師が親に同一化して彼らの切実な願いを優先するあ
まり,子どもの意思や人権,子どものQOL(Quality of life)が犠牲にされ
ていないか。サバイバーの子どもが増えているのに,彼らの心理的・社会的
晩期合併症には十分な光が当てられていない。この現状で,今後どんな予防
や援助が必要なのか。
臨床心理士にとっても,とてもシリアスな問いがあります。それはこうし
た臨床状況にあって,精神分析や心理療法,カウンセリングとは,本質的に
どのような営みであるべきなのかという問いです。精神症状や苦悩の緩和や
消失を行うことでないのは明らかのように思えます。本書の臨床実践の記述
や考察に触れた訳者グループのディスカッションを通して,ひとつの考え方
が浮かび上がってきました。
心のケアの本質とは,「こころの自由と尊厳」を取り戻す営みであるとい
う考え方です。重篤な傷病によって,子どものこころは,病的な肉体に囚わ
れ隷属させられており,治療に必要な処置や看護はしばしば侵襲的で,子ど
もの自由を奪い,こころの尊厳を損なってもいると言えます。臨床心理士は,自らのこころを使って,言葉や声にできない子どものこころの語りを観察し,聴いて,意識/ 無意識の両面からこころを考えることはできます。精神分析や心理療法,カウンセリングとは,この協働作業を通して肉体の限界を超えて自由になれる「こころの潜在能力」を再発見することで,「こころの自由と尊厳」を取り戻し,死の直前まで唯一無比のwell-being を追求して生きられるように支援する営みであるように思えます。
ロバートや家族の体験や著者の臨床経験と考察には,まだ見出されていな
い重大なテーマがたくさんあると思います。本書を読み進めるプロセスは,
読者の思考や情緒を大いに刺激することでしょう。あなたの新たな気づきが,将来,こうした子どもや家族の援助に生かされていくことが,訳者の切なる願いです。
訳者代表 鈴木 誠
●著者紹介
●監訳者紹介
鵜飼奈津子(うかい なつこ)
The Tavistock Centre, Child & Adolescent Psychotherapy 課程修了,University of East London, Masters in Psychoanalytic Psychotherapy 取得
現 在:大阪経済大学人間科学部人間科学科教授,臨床心理士,公認心理師
主著書:『 トラウマを抱える子どものこころを育むもの』(監訳)誠信書房 2022 年,『胎児から子どもへ』(監訳)金剛出版2021 年,『子どもの精神分析的心理療法のアセスメントとコンサルテーション』(監訳)誠信書房2021 年,『虐待を受けた子どものアセスメントとケア』(共編著)誠信書房2021 年,『子どもの精神分析的心理療法の基本(改訂版)』誠信書房2017 年,『子どものこころの発達を支えるもの』(監訳)誠信書房2016 年,『子どもの精神分析的心理療法の応用』誠信書房2012 年 ほか
●訳者紹介
(分担章順,所属は初版刊行時のもの)
鈴木 誠(すずき まこと) 謝辞,第3版のためのまえがき,第3 版の序文,第1章,第7 章
名古屋大学医学部精神医学教室卒後研修修了
所 属:くわな心理相談室,臨床心理士
酒井玲子(さかい れいこ) 第2 章,第3 章,第8 章
中京大学大学院文学研究科心理学専攻修士課程修了
所 属:愛知医科大学病院,臨床心理士,公認心理師
目代貴士(もくだい たかし) 第4 章,第9 章
愛知教育大学大学院学校教育専攻発達臨床心理学選修修士課程修了
所 属:北津島病院,臨床心理士,公認心理師
鈴木小央里(すずき さおり) 第5 章,第10 章
名古屋大学大学院教育発達科学研究科博士課程前期課程修了
所 属:日本赤十字社愛知医療センター名古屋第一病院,臨床心理士,公認心理師
澤 たか子(さわ たかこ) 第6 章
名古屋大学大学院医学系研究科健康社会医学専攻博士課程満了
所 属:大垣市民病院精神神経科,臨床心理士,公認心理師
大槻勇太(おおつき ゆうた) 第11 章,第12 章
北星学園大学大学院社会福祉学研究科臨床心理学専攻修士課程修了
所 属:公益財団法人鉄道弘済会札幌南藻園,臨床心理士
山村 真(やまむら しん) エピローグ,付録1・2・3,用語集
文教大学大学院人間科学研究科臨床心理学専攻修士課程修了
所 属:くわな心理相談室,臨床心理士,公認心理師
●書籍目次
謝辞
第3版のためのまえがき
第3版序文
訳者まえがき
覚書き
Part Ⅰ 枠組み
第1章 子どもの死
第2章 死に対する子どもの態度
第3章 死にゆく子どもにとっての死の認識
第4章 子どもたちと死について話すべきなのだろうか
第5章 生命を脅かす病気に対する情緒的反応──さまざまな段階
第6章 利用可能な支援
Part Ⅱ ロバート(7歳半)
第7章 ロバートとの3カ月の記録
第8章 追記
第9章 簡潔な遡及的分析
Part Ⅲ 生き残るか死ぬか
第10章 延命?
第11章 生き残った子ども
第12章 子どもの死のあと
エピローグ
付録1──ロバートの絵の分析
付録2──ニュルンベルク綱領(1947年)からの抜粋
付録3──イザベル・メンジース・ライスの「不安に対する防衛としての社会システムの機能」(1959年)についての覚書き
用語集──本書で用いた医学用語と精神分析用語
文献
邦訳文献
監訳者あとがき
▷本書の詳細はこちら
出版年月日 2024/03/31
書店発売日 2024/04/11
ISBN 9784414414950
判型 A5
ページ数 332ページ
定価 4,180円(税込)
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