見出し画像

文化芸術に関する私の言葉は批評ではないと私が言い切る理由。


こんにちは、美術鑑賞プロ素人のSeinaです。子供を連れての鑑賞歴はほぼ17年ですが私は美術鑑賞プロ素人だと今でも思ってます。


この断言の理由を整理してみたいと思います。自分のために。


遠い昔、13年前のお話から始めましょう。


京都芸術大学ばまだ京都造芸芸術大学と名乗っていた頃、椿昇先生に家族で逢いに行ったことがありました。もちろん事前にアポを取ってました、そして時間通りに伺ったのですが、その際驚くことがありました。

先生はなんとゼミの授業を見学させて下さったのです。


ええええっ申し訳ない。。と思ったらいきなり先生は「おい、息子借りるぞ」ええええええっ???


当時幼稚園生だった息子は先生に連れられて先生の横の椅子に座りました。
高めの椅子だったので足がつかず、脚がぶらぶらしていたのを覚えています。生徒さんたちは「???」という感じ。そこで先生はいきなり衝撃的な発言。

「今日は先日課題に出していた動画の企画プレゼンだったと思いますが、講評は僕じゃなくこの子がします。10分あげますのでこの子に伝わるようにプレゼン内容を工夫してください」


生徒さん皆硬直ですよ。先生はニヤッと笑顔。生徒さんたち慌てて作業。その間先生は息子さんと楽しくおしゃべり。


10分後、プレゼンが始まりました。生徒さんは皆それぞれ工夫をして息子さんにわかるようにわかりやすい言葉を使ったり、ひらがなを多く使ったり、とんがり帽子を被ったり、各々必死に工夫をされてました。


息子さんは美術の場に比較的慣れてる幼稚園児でした。なので失礼ではない振る舞いは比較的出来る子でした。でもやはり「おもしろい」「好き」だけじゃなく、「えっとわかんない」とか「僕はちょっと好きじゃない」とか言ってしまうわけで。親としてはもう脇汗ダラダラでした。でも全体的には楽しんでいた、、でも生徒さんたちに失礼ではないか、ともうドキドキでした。


生徒さんたちのプレゼンが全部終了した後、椿先生はこんな内容の話をしておられました(13年以上前の話なので記憶を辿る感じ申し訳ないですが)。


「表現というのはこのように「予想しない層」にみられる、感想を持たれる場合がある。表現を外に出したら表現した側からすると想定外の流れになってしまう場合がある」
「ARTは相手に考えさせなきゃ駄目。伝える側としてあえて答えを出さない不安感と仲良くなれる強さを持ってほしい」


私、ものすごく感動したんですよ。確かにそうだって本当に納得したんです。そして同時に「誰かの表現について言葉に出す場合は常に肯定的でいく。もしそうできない場合は言葉に残さない」と決めたんです。なぜなら息子さんにプレゼンを準備する生徒さんたちの姿を見たから。あんなに頑張ってる人たちの頑張ってる様を見たら自分が見える範囲しか見えなかったとしても、見えない部分を想像しようって思ったから。同時にいきなり現れた息子さんにとても丁寧に接しようとしてくれてるその姿勢に感動しました。人と人が接する際のやり取りってこうあるべきだよなって深く実感しました。


そして同時に「この人に伝えよう」という想定での表現って本当に面白いんなだなって実感したんですね。生徒さんたちは小さな男の子にわかるように、楽しんでもらえるようにどうやって伝えようか限られた時間で工夫をされていた。私はその経緯だけじゃなく、その工夫の結果がバラエティに富んでいてとても面白かったんです。



私は17年間、美術、特に現代美術の世界を楽しませてもらってきました。

今も楽しんでいます。楽しかった記録を書き綴っていますがそれは多くの人に読んでほしいって気持ちはないんですね。


でも子供連れで美術館や博物館には行ってほしいのでこんなことは書きますけどね。


じゃあ何故書いてるのか。私は「自分の葬式で自分の家族に「ああ、お母さんはこんな風に楽しんでいたんだなあ」と読んでもらいたい」と思って書き綴っています。
なので肯定的な気持ちを残したい。常に肯定から始めたい。だって自分の葬式でその人の文句とか読んでもつまんないじゃないですか。ああ、お母さんはこんなふうに楽しんでたんだなあ、この時はこうだったよね。あ、そしてこの作家さん最近見たよ!こうだったねえ、いやいや僕はこう思ったよ。。とか話が葬式の参加者で盛り上がって棺桶に入ってる私のことを忘れるくらい楽しく話してほしい。その話を幽霊になって部屋の片隅で聞いてたい。


こういうのが「文化芸術を楽しむ」ってことだと個人的には思うんですよね。知識とか、所作とか、規模とか、(金銭を含む)環境とかそういうこととは別に。


この「鑑賞記録を自分の葬式で読んでみんなで楽しく話してほしい」願望はずっとあるんです。だから万人に読んでもらわなくてもいいって思って書いてます。だから、私の文化芸術に関する文章は批評ではないです。今後も批評にチャレンジするつもりはありません。


人の表現はまさに人それぞれ。
なので私はこうなんだよって感じを書き綴ってみました。