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何回同じ作品見ても毎回違う気持ちにさせるってすごいよね〜アンディ・ウォーホル・キョウト / ANDY WARHOL KYOTO〜


何回見ても何回同じでも毎回毎回違う気持ちにさせるってすごいよね。


2022年12月に「アンディ・ウォーホル・キョウト / ANDY WARHOL KYOTO」を観てきた。
最近、京都に行く所用ができたので、その用事に組み合わせて定期的に京都に行く。東南アジアでのコロナ前は多い時は月1で海外に出ていたのに、コロナ禍で日本に本帰国してからは移動に決心がいる様になってしまったの不思議。しかし、京都は別だ。日本を離れる前に一番よく言ってた場所でもあるので行く際の恐怖心が格段に低い。しかも行くべき目的が別に明確にあると行き易い。ということで、今回も気持ちよく出かけた。


今回は京都滞在の1つとして「アンディ・ウォーホル・キョウト / ANDY WARHOL KYOTO」に行ってきた。ANDY WARHOLは正直、何回見たかわからないくらい見ている。日本以外でも見ている。じゃあなぜ観に行くのか、というと今回は「ANDY WARHOLが京都でどう過ごしていたか」を覗いてみたいと思ったからだ。

久しぶりに訪れた平安神宮。東南アジア在住の時は躊躇なく乗れたタクシーをつい避けてしまう自分に苦笑いしながら前は違う名前だったんだよーと息子に説明をしながら京セラ美術館を目指す。


実は展示に伺う前日、京都駅周辺で行われている外での展示も訪れた。その名も「ウォーホル・ウォーキング」。


私が見たのは時間の関係で京都駅ビル駅前広場と妙法院門跡三十三間堂の2つ。特に妙法院門跡三十三間堂そもそもその場所も大好きだったので直行。


ただ、残ってるドローイングはとてもドローイングであって、本人が存命であったら「出したくねえええ!」という感じであった。ちなみに別のドローイングは手ぬぐいにまでなってた。

もちろん買ったけどな。


さて、時間の関係上、早く行けたら尚よろしい!だったので、鑑賞予約時間の11時だったけど10時過ぎに行ってみた。平日だったので快諾して頂く。しかし混雑してくるとこのような対応は難しくなると思うので予約に関しては注意してほしい。チケットはぜひ事前に予約を。


鑑賞に関しては基本撮影はオッケー。そりゃそうだ。アンディは「In the future, everyone will be world-famous for 15 minutes」と残した。
これを「将来、誰でも15分は有名人になれるだろう」か「将来、誰でも15分で有名人になれるだろう」のどちらに解釈するかは時代によって変わる感がある。彼が生きていたらInstagramとTikTokに夢中になっていたに違いない。
展覧会の中では「タグをつけてアップしてね!」的なアナウンスが各所に散りばめられていた。


私がちゃんとウォーホール作品を見たのは19歳の時のニューヨークだった気がする。当時は20世紀。こんな風に全世界自分発疹時代が来るなんて誰も想像できなかった時代。その時から随分時が流れた。思えば遠くに来たもんだ。


今回の展示の個人的な感想としては「今までの展示の中でウォーフォールの死生観に別の視点から向き合い、それを超えた展示だったのでとても興味深かった」。ウォーフォールの死生観は「今だけを生きる」的な感があり、その生き方に憧れを感じさせるような構成を私は感じていた。今回の展示は「今しか生きられない」人が少なくなってきた昨今では視点が変わってきた感を感じた。そして京都という歴史という猛烈な強みがある土地からの上から目線感を感じる構成はとても新鮮だった。

そして選抜意識の具現化であったファクトリーでのパーティー文化は現在の「感染を防ぐ」という大義名分という看板を掲げた別の選抜が横行してる現在どう捉えるか等、今だから感じる新たな視点と向き合えてとても楽しかった。

やっぱり「その土地ならでは」「その時ならでは」ってあるあるである。2023年は思うこともあり、美術に関しては趣味分野から絶対に出ない!を誓ったので、仕事とは別に好きを追求し、それを好きに記録していきたい。