佐賀 吉野ケ里遺跡 名護屋城 佐賀城唐津城 シシリアンライス 小倉城:小さな旅 ひとり旅 旅行 旅行記 Low vision
私の小さな旅 佐賀
ヨロモタ ひとり旅 佐賀編
ヨロヨロ モタモタしながら、ひとりで佐賀を旅してきました。佐賀県は、今までに何度も通ったことがあります。でも一度も降り立って散策したことはありませんでした。いわゆる通過するだけの県だったのです。
佐賀といえば、幕末から明治維新の時代、薩長土肥と呼ばれ、活躍した藩であることや、焼き物で有名な唐津がある、という程度の知識しか持っていませんでした。
今回、ひとり旅をする目的地として選んだのは、吉野ケ里遺跡を見たいという一心でした。
私は日本史が好きで、若いころから歴史小説を読むことが大好きでした。若いころは、戦国時代や、幕末、近現代史をメインに読んでいました。
ところが、還暦を過ぎた頃、ふとしたことから吉川英治の「新 平家物語」を通読し、感動しました。
それ以後、興味は、平安時代~奈良時代、飛鳥時代から古墳時代へと時代はさかのぼり、今は、古代史のロマンに魅了されています。それで吉野ケ里遺跡を見たくてたまらなくなったという訳です。
とはいえ、視力が低下し、足元が見え難くなり、ヨロヨロ モタモタしている自分に不安や転倒のリスクを感じながらも、旅の感動を求めて、ひとり旅に出かけました。
今回は、船中2泊、ホテル3泊での佐賀旅です。
1日目
松山から小倉までフェリーーで移動。
夜 9時55分 松山観光港を出港し、翌朝5時に小倉港に入港。
この松山-小倉フェリーは、老朽船で、はっきり言ってあまり乗り心地は良くありません。内装はリニューアルしていますが、船自体の構造や振動などは、今までと変わりありません。 サービス面でも、朝 5時着は、ちょっときびしいかなと思います。その後、船内休憩は、7時まで可能ですが、5時の次は、6時半まで昇降タラップが外されるので、下船できません。
また、9時55分出港なのに、9時まで乗船できないので、旅先で9時まで時間をつぶさないといけないという、しんどさがあります。せめて、8時に乗船できるといいのですが。
それと、運賃が、あの快適なオレンジフェリーより、お高いというのも残念なところかな?
(マイナス面ばかり書いて申し訳ない。利用客も、以前と比べて格段に少なくなっているので経営も大変なのでしょう。エコである船での移動をもっと利用してもらいたいものです。応援の意味で要望を書かせていただきました。)
ひとり旅の時は、旅費節約のため、いつも2等寝台を利用します。2段ベッドの6人部屋ですが、今回は、行きも帰りも、私ひとりでした。気分は1等室です。
早朝、5時に小倉港 着。JR小倉駅から、「特急ソニック」で博多へ、博多で、「特急きらめき」に乗り換えて佐賀に7時半に到着。
佐賀駅前のバスセンターから、「三重津海軍所入口」行きのバスに乗車。
佐賀駅から、南の方向にある、有明海に向かってひたすら走り、約30分で「三重津海軍所入口」に到着。
初めて訪問した土地でのバス移動は、非常に不安なものです。目的の停留所に、ちゃんと行けるのかどうか、乗る時にアナウンスしていないし、バスの案内板にも掲示してない。(と思う。)
私は、乗車口で、必ず大きな声で
「○○に行きますか?」
と聞くことにしています。乗車している、お客さんの視線を、しっかり感じますが、恥ずかしいなんて言っておれません。年を重ねるというのは、こういった、図太さが備わるということかな?
「三重津海軍所入口」の、バス停に降りたのは、私一人。比較的トラックなど大型車の交通量の多い道路で、周囲は田んぼ。
そこに、ポツンと、停留所がありました。
「三重津海軍所はこちら」
「三重津海軍所へようこそ!」
などの案内板を探したのですが見当たりません
そういえば少し歩くようにHPに書いてあったかな?
いつものように Google Map を起動し検索。
徒歩7分の所にあるのを見つけ、ほっと一息。
博物館は、9時開館なので、帰りに乗るバス停や、時刻表を確認し、余裕で博物館に向かいました。
観光地やミュージアムに、バスなどの公共交通機関を利用する人は少なく、便数は、まばらです。帰りも、しっかり時間を確認しておかないと大変なことになります。旅行前に、ネットで調べて計画はしていますが、ネットでの内容と、異なることも少なくありません。帰りの便が、予定どうりであることを確認し、とりあえず、一安心。
周囲の景色などを楽しみながら、ゆっくり海軍所跡に向かいます。
「佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館」
佐野常民と三重津海軍所の歴史館
https://sano-mietsu-historymuseum.city.saga.lg.jp/
三重津海軍所跡は、幕末、佐賀藩の洋式海軍の拠点だった場所で、海軍教育や洋式船の修理、日本初の実用蒸気船の建造が行われるなど、日本における造船分野の先駆けとなった施設です。
明治日本の産業革命遺産の構成資産として、世界文化遺産に登録されています。
佐野常民(さの つねたみ):日本赤十字社の父
佐野常民は、大阪や江戸で、緒方洪庵、伊東玄朴らの門弟となって、蘭学、医学などの学識を広めました。31歳の時に佐賀藩 精煉方において、さまざまな理化学研究の指揮をとり、蒸気船・蒸気車の雛形、電信機の製作を行いました。
明治時代になると、常民は新政府へ出仕。
工部省灯台頭となり、洋式灯台建設や博覧会御用掛を兼務、博物館の創設・博覧会の開催を手がけました。
また、日本赤十字社を設立、アジア諸国で最初の国際赤十字加盟を果たしました。初代社長に就任し、看護婦養成や病院船の建造にも精力的に取り組みました。
私は、理学療法士として、40年以上病院に勤務してきました。しかし、この佐野常民氏のことは知りませんでした。
常民は、西南戦争の際、官軍だけではなく、西郷軍も平等に、負傷者の世話をするべきだと、政府に訴えました。しかし、その意見は受け入れられなかったのでした。
バス停から、ゆっくり歩いて7~8分で博物館に到着。立派な外観に驚き、中に入って、また仰天。
幕末当時の三重津海軍所が、ドライドックを中心に、かなり大きなジオラマで再現され、その横壁には、縦10m、横20mくらいの巨大スクリーンが接地されていました。そのスクリーンに映し出される、幕末の海軍所の解説映像や、音響の迫力に圧倒され、感動しました。
三重津海軍所のドライドックは、有明海の6mの干満差を利用した、合理的な構造になっていました。満潮時に、船をドックに引き入れ、ドックの扉を閉めます。潮が引くとともに、ドック内の水を排水、干潮時、完全にドック内の水がなくなったら水門も閉鎖し、船の修理に取り掛かれる構造になっています。
佐賀の歴史や生活を学んでいると、この有明海の、約6mの干満差というのが、かなり度々出てきます。この干満差を利用することが、佐賀の発展を後押ししてきたことを感じます。
この後、度々「6mの干満差」が出てきます。
このミュージアムには、3ヶ所にスクリーンが設置され、佐野常民の功績や佐賀海軍についての歴史を学ぶことができます。
佐賀藩十代藩主鍋島直正の指示により、近代技術の推進が加速されました。日本初の国産実用蒸気船の建造、反射炉による鉄製大砲、日本唯一の国産アームストロング砲の製造、最も多く所有されていた国産西洋帆船の模型など、関連文書と共に数多く展示されていました。
佐賀に行ったら、是非、立ち寄っていただきたい施設だと思いました。
博物館の2階からは、外にに出ることができ、周囲を展望できるようになっています。
風は強いものの、天気は良く、有明海をきれいに望むことができました。
その景色に洋式帆船の姿を重ね合わせ、幕末当時の様子を創造することができました。
これぞ旅の醍醐味!
さて、旅を進めましょう。予定では、JR佐賀駅までバスで戻り、佐賀城周辺を散策するつもりでした。
ところが、この三重津海軍所に来る途中、大隈重信記念館前という、バス停を通ることがわかり、帰路は、そこで下車することに変更しました。大隈重信記念館は、佐賀城の近くに位置しているから、かなり時間短縮できます。
これは、かなりタイパが良くなったと、ご機嫌。
11時15分発のバスに乗り、大隈重信記念館前に移動。バス停で下車するが、ここでも首をかしげます。
「記念館はどこ?」
ここでも Google Map が登場。交通量の多い道を戻り、脇道に入って数分歩きます。
「あった! でも、ちょっと地味な記念館。」
「大隈重信記念館」
大隈重信は、幕末、佐賀藩の上士の家に生まれ、志士として活躍しました。明治維新期に外交などで手腕をふるい、中央政府の首脳となり、参議兼大蔵卿を勤めました。
明治政府の最高首脳の一人にのぼり、明治初期の外交・財政・経済に大きな影響を及ぼしました。
度々、大臣の要職を勤め、二度、内閣総理大臣を勤めました。
また、第一次世界大戦に勝利し、対華21カ条要求などに関与しました。
また教育者としても活躍し、早稲田大学を創設したことはあまりにも有名な話ですよね。
この「大隈重信記念館」は、明治時代の石造りの建物をイメージさせる二階建ての記念館です。
玄関を入ると、大隈重信公の声が聞こえてきました。
大正4年の第12回総選挙の折に、大隈の自宅にマイクが特設され、約15分間の演説が原稿無しで行われたが、その時のレコードが館内に流されています。
大隈重信の話し方の特徴である、
「であるんである」を、実際に聞くことができるのが感動的でした。
流れる声を聴きながら、玄関ホールから、すぐ左の展示室に入った途端、目が点になりました。なんと、一番手前の展示台に、大腿義足が展示していたのです。
職業柄、義足には少々うるさい。現在、処方されている骨格義足ではなく、私が学生時代に教科書で見たような、懐かしい大腿義足が、そこにありました。保存状態は、極めて良好で、当時の、義足製作技術の高さが窺える一品でした。表面が樹脂加工されているように光沢があり、膝は単軸ではあるものの美しい仕上がりでした。
でも、なぜ大腿義足がここに?
横の解説を見てびっくり仰天!
(以下、解説より引用)
大隈重信が使用した義足
アメリカ A.A.マークス社製
明治22年(1889)10月、当時外務大臣を務めていた大隈は、外相官邸前で暴漢に襲われ、右脚を切断するという重症を負った。その後使用することとなった義足のうちの1本。
当時最高といわれたアメリカ A.A.マークス社製の義足だが、日本の座る生活様式にはあまり合わず、膝関節が破損しやすかった。
(引用、終わり)
大隈重信記念館
https://www.okuma-museum.jp/
当時、和式の生活中心であり、日常生活に苦労されたことが推測できます。知らないことが多いなと、改めて感じました。
この記念館の敷地内には、実際の大隈重信の生家が保存されています。
玄関や床の間、居間がある1階は、外から見学することができます。重信の勉強部屋があった2階は、建物の構造上、公開が難しいとのことでした。(残念!)
家の中から流れてくる音声解説では、家の梁の、でっぱりの前に置いた机で勉強していたということで。重信が、眠くなった時に、頭をぶつけて目を覚まし、勉強を続けたというエピソードを紹介していました。
時を忘れて見学していたのですが、ふと空腹なのに気が付きました。もう正午を過ぎている。今日は、小倉港に5時入港で、その前にパンを食べたっきりだったのです。
「さすがに腹がへったなぁ!」
計画では、ここで昼食として、「シシリアンライス」をいただく予定です。
「シシリアンライス」というのは、佐賀のご当地グルメで、公式観光サイトにも、「シシリアンライスマップ」なるものが掲載されています。
昭和50年頃に、食堂のまかない食として考案され、徐々に人気がでてきたものらしい。白ご飯の上に、生のレタスやトマトなどの野菜と牛肉などを痛めたものが乗り、その上にマヨネーズをかけているものとのこと。何やら味を想像しがたい一品だが、楽しみです。。
「シシリアンライス マップ」によると、この付近では、「佐賀レトロ館」のシシリアンライスがオススメとのこと。厳選した食材による、満足の一品らしい。歩いて10分程度なので、早速移動しよう。(もちろん Google Map を起動させます。)
佐賀市観光協会公式ポータルサイト
サガバイドットコム [sagabai.com]
https://www.sagabai.com/main/
歩いていると暑くて暑くて...。上着を脱ぎ、Tシャツ一枚になりました。広い通りに出て、さらに数分歩くと、目的の場所に、レトロな洋館が見えてきました。
「なかなか、しゃれた建物だのう!」
「ん???」
「建物周囲、特に玄関付近のアクティビティがないような...」
近づいてドアを引くが、鈎がかかっていて、ビクともしない。
「どうも、お休みらしい。定休日ではないのにな?」
腹の虫とともに肩が数センチ落ちた。
「まあ、こんなこともあるわな。確かこの近くにもう一軒あったはず。」
「佐賀県立歴史博物館内のレストランも推薦しとったな。」
「佐賀県立歴史博物館」は、目と鼻の先。ここも見学する予定なので、ちょうどいいかなと納得。
頭の中は「シシリアンライス」一色!
この「佐賀県立博物館」は、美術館に併設されていて、非常に大きな建物です。奇抜な形状をしており、展示内容も期待できそう!
玄関らしき付近を、うろうろするが、入口が見当たらないのです。しかたがないので、反時計回りに移動して、入口を探します。どこを見ても、熱々の湯気をたてている「シシリアンライス」がちらつきます。
「あった、入口が!」
館内に入って、一応、受付のお姉さんに、ご挨拶がてら聞いてみます。
「博物館はここでしょうか?」
「ここは美術館です。でも突き当りの廊下から、連絡通路を通って博物館に行くことができます。」
との案内をいただき、早速、博物館に足を進めます。
もう頭の中、シシリアンライスで、いっぱいいっぱい!
連絡通路をしばらく歩くと、レストランらしきコーナーが見えてきた。
「ん??」
「あれ?」
なんだか暗いような...
ドアには、「Closed」と、白い札がかけられている。定休日ではない。定休日は月曜日なのだ。
少し先の、博物館の受付まで行き、お姉さんに聞いてみる。
「そこのレストランは休みですか?」
「あれ? お休みしてましたか? いつもなら開いているのになぁ。おかしいですね。」
「・・・・・・」
これは私見ですが、ゴールデンウィーク明けなので、臨時休業をしたのではないでしょうか。
「まあ、忙しかったんだろうな。しかたないわな。シシリアンライスは、明日の楽しみにしよう!」
こんな時のために、私は、常にザックの中にチョコクッキーをひと箱入れているのです。
館内は、飲食禁止であることを、案内のお嬢さんに確かめると、
「そうです。すぐ外にテーブルとイスがありますので、そこで食事をしてください。」
と、外の一角を教えてくださった。
そうだ、いつも私は、昼食は公園でクッキーなんだよね。と自分を納得させながら椅子に座ります。今日は、いいお天気。カンカン照りの下、影を探すが、見当たらない。
日光浴をしながらクッキーをいただきました。
私の必需品「チョコチップ クッキー」
人間、食べると意欲が回復するということを、この時つくづく感じました。落ちていた肩も元の位置に復帰し、足取りも軽やかに博物館内に。
「佐賀県立歴史博物館」
佐賀県立博物館|佐賀県立美術館
https://saga-museum.jp/museum/
佐賀県立歴史博物館では、特別展として「幕末維新博メモリアル展」が開催されていました。
佐賀県では、明治維新150年を記念して、平成30年に「肥前さが幕末維新博覧会」が開催されたとのことです。
博物館では、その時の維新博のメイン パビリオン「幕末維新記念館」で上映された映像を、まるで会場で体感しているように見ることができました。
映像の内容は、
・幕末維新期の佐賀
・第十代佐賀藩主・鍋島直正のリーダーシップ
・佐賀が日本の近代化のトップランナーになりえた理由
・時空を超えて集い、語り合う七賢人の会話
・幕末維新記念博のドキュメンタリー
などでした。
素晴らしい映像を鑑賞した後、常設展を見て回りました。これは、佐賀の自然や歴史一般を展示したもので、特筆するものはありませんでした。
ありました、ありました、特筆することが。
博物館から美術館の間の通路には、段差が3段あったのですが、帰りは階段を降りる方向だったので、見落としてしまいました。薄暗い場所でもあって、脚が空を踏んでしまった。
あると思っていたところに、床面がなく、前のめりに倒れました。思わず脚を前に踏み出し、踏ん張ろうとするのですが、そこにも床はなし。3段の段差を勢いよく駆け下りていました。幸いにも、段差の幅が広かったので、そのようなアクロバティックな動作でも転倒しなかったのでした。
背中に冷や汗が流れました。現役の理学療法士として、働いていた時に、ホテルの段差を踏み間違えて、大腿骨頸部骨折をしてしまった症例を思い出しました。このようなヒアリハットを重ねていると、本当に怪我をすることになるなと反省。あの、空を踏む感触は、今、思い出しても背筋がぞっとします。
さてと、旅に戻ります。
まだ、時間があるので、近くにある「佐賀城 本丸歴史館」に足を進めました。
佐賀城は、歩いて数分のところにあり、入口には、鍋島直正公の大きな銅像がありました。
「佐賀城 本丸歴史館」
https://saga-museum.jp/sagajou/
(以下、佐賀城本丸歴史館ホームページより引用)
歴史的な雰囲気を体感できる空間
この佐賀城本丸歴史館は、県史跡佐賀城跡に、幕末期の佐賀城本丸御殿の一部を忠実に復元し建てられた歴史博物館です。日本の近代化を先導した“幕末維新期の佐賀”の魅力を分かりやすく紹介しています。木造復元建物としては日本最大の規模を誇り、当時の雰囲気を味わうことができる魅力的な空間です。
館内に入ると45メートルも続く畳敷きの長い廊下や320畳の大広間が広がっており、心地よい和空間を体感することができます。
展示方法もユニークで、本丸御殿を3D画面で探検できる「バーチャル佐賀城」やARで鍋島直正とツーショット写真が撮れる「からくりウィンドウ」、○×クイズやゲームがある情報コーナーなどが楽しめます。
(引用終わり)
入口には、1838年当時の姿を残す「鯱の門」が迎えてくれます。門の屋根には、鯱が鎮座しており、堂々たる雰囲気を醸し出しています。
また、門の柱には、明治初期に起こった、佐賀の乱(佐賀戦争)の銃弾跡が残っていました。江藤新平たちが、ここに立てこもり、政府軍と戦ったことを思い、時の流れを感じることができました。
ここで、念のため江藤新平についてちょっと解説。彼は、初代参議に就任、三権分立を推進、日本の近代司法制度の父と呼ばれています。
また、司法制度・学制・警察制度の推進と共に市民平等を訴えた、まさに正義を愛する人といえる逸材でした。
しかし、その性格ゆえに敵もおおかったようです。
長州の陸軍 山縣有朋や大蔵省 井上馨などの不正を追求した事で、薩長閥から逆恨みを買ったようです。「佐賀の乱」の後、大久保利通により、正規の裁判を受けることなく、斬首されてしまいました。
長州藩の人は、賄賂や資金援助を平気で受ける習慣があると、歴史の本に書いてあったのを思い出します。奇兵隊も、やくざや無頼者の集まりでしたので、規律や道徳心は、薄かったのかも知れませんね。どこかの国の政治家にも、そういう先生が多いそうですが...
このようなことから、今回の佐賀の旅においても、江藤新平は、やや影が薄い気がしました
鯱の門をくぐり、右に廻ると、本丸御殿の玄関です。ここで靴を下駄箱に入れ、広い御殿を見学します。
大広間では、何かの表彰式が予定されているとのことで、多くの椅子が並べられ、式典の準備が執り行われていました。邪魔をしないように、そうっと長い畳の廊下を奥に進みます。廊下といっても、二軒幅の畳敷きの廊下ですので、とても豪華です。
この本丸御殿は、第十代藩主 鍋島直正によって再建された当時の姿に復元したもので、柱なども杉材が多用されており、直正公の質素倹約の思想が伺えました。
廊下を進むと、各部屋に、復元の様子や幕末維新の佐賀の様子、近代技術を取り入れた佐賀藩や活躍した偉人の資料など、多くの展示や映像が、実に楽しく見学できるように工夫されていました。
ある部屋では、寺子屋形式の部屋があり、大隈重信が、私たちに講義をしているような雰囲気が味わえます。さまざまなメディアを使って工夫雨しているなと感心しました。
愛媛県の観光関連の人々も、こういった先進的なミュージアムを見学して、良いところをどんどん取り入れるべきだなと思います。松山の「坂の上ミュージアム」を見て、あまりに、お粗末なので驚いたことを思い出しました。
「愛媛県の同志諸君、大いに佐賀県を見習って、良き観光地にしたいものであるのである。」
と、大隈重信になりきる私でした。
鍋島直正公とツーショット写真が撮れるコーナーがあったのですが、一人だったので、あきらめて本丸の見学を終えました。
出口のところで、案内の係りの人に
「実に素晴らしい建物でした。一度では、とても十分に見ることができないくらい、内容が充実していて感動しました。時間があったら、また来たいです。」
と感激をお伝えすると、とても喜んでくれました。
時計を見ると、もう4時です。
「そろそろホテルに行くか。」
ホテルは、いつものように「東横イン」です。 佐賀駅南口を出て、右にあることを確認しています。
歩いて佐賀駅までもどります。約2.5kmです。大きな通りを、ひたすら駅に向かって歩きます。歩き出すと、暑さがこたえます。
ホテルに到着し、3連泊のチェックインを行い、部屋に入ると、ほっと一息。
東横インは、どこのホテルも部屋の作りは同じなので、自分の部屋に帰ったような安心感があります。靴を脱ぐ前に買い出しです。
東横インの反対側にスーパーがあるのをネットで確認済みなので、即、直行。
必ず買うもの。
納豆、野菜ジュース、ヨーグルト R1(飲むタイプ)、2リットルのお茶、明日の朝食用のパン、みかん(今回は季節柄、ミカンは、なかったのでオレンジジュース)、トリスハイボール(350ml×2)、あとは、その日の気分次第。
今日は、握り寿司、イワシの干物、サラダ、ちくわなどを購入し、ホテルに帰ります。
この後、入浴し、さっぱりして、地元の放送を見ながら一杯やるのが至福のひと時なんですね
旅の間は、決して深酒はしません。何せ、かなり歩きますので。今日は、11km 歩いていました。今までは、20km から 30km 歩いていたので、かなりセーブした感じです。
ほろ酔い気分になったところで、明日の予定を確認し、超早めに寝ました。
2日目
朝6時起床。
今日は、今回の旅で一番の目標の吉野ケ里遺跡に向かいます。
JR佐賀駅 8時20分発 長崎本線上り普通列車に乗車。
佐賀市に入る便は混んでいるが、佐賀から出る列車は、かなり空いています。
3駅目が「吉野ケ里遺跡公園駅」
列車を降り、外に出ると、そこはのどかな田園地帯。
朝のすがすがしい空気を胸いっぱいに吸い込み、体調良好。
「やっぱ、旅は田舎がええなぁ。大都会のゴミゴミ、人がザワザワしたとこへは、もう行きたくないな。」
「そうそう、吉野ケ里遺跡公園までは、少し歩くんだったな。」と、周囲を見渡すと...
「あった!あった!」
丁寧な道案内の標識がありました。
標識に従って、田んぼや畑の間をゆっくり歩く
ところどころに矢印の看板があり、とても分かり易い。
10分ほど歩いて、大きな道の信号を横断すると、もうそこは「吉野ケ里遺跡公園」でした。
「吉野ケ里遺跡公園」という立派な石の門が出迎えてくれる。
その入り口を少し歩くと、前方に、白い大きな、いかにもテーマパークのゲートらしき門が見えます。その横には、レストランやショップなどの複合施設らしい建物が並んでいます。
遺跡なので、もっと地味な施設を想像していたので、驚きです。
ゲートの手前に、「吉野ケ里遺跡」についての、小さな展示室があったので、まずは、それを見学しましょう。
遺跡の発見から、現在にいたるまでの経過を解説していました。小規模な展示なので、ざっと見てゲートに向かいます。
「さあ、その前にトイレ。」!
ひとり旅、特に歩き中心の旅をしていて、最も困るのがトイレです。もよおしてから探したのでは、かなりつらい思いをする場合があるのです。
従って、トイレのあるところでは、とにかく入るのが習慣になっているのです。(決してマーキングではありません。)
この「吉野ケ里遺跡公園」のトイレは、とてもきれいで、さすが日本でも有名な遺跡公園だなと感心しました。
音声ガイド
家での下調べの際、遺跡公園内を解説する音声ガイドがあるとの情報を、チェックしていました。
早速、音声ガイドを借りる手続きをしよう。
千円払って、音声ガイドの機器を借り、機器を返す時に500円返却、つまり500円が貸出料金となります。
音声ガイド専用のガイドマップを渡されます。園内を歩きながら、各ポイントで、マップ上の写真に、音声ガイドペンを当てると、解説がペン内のスピーカーから流れる構造となっていました。全部で約30ヶ所、150分の解説が録音されているらしい。
さあ、音声ガイドペンを首に掛て出発!
入場ゲートを通ると、目の前には、幅10mくらいのオレンジ色の道が現れ、そして、その先には白い欄干の橋がかかっていました。
早速、音声ガイドペンをマップに当てて、解説を聞きます。
この橋が、現在と弥生時代の境で、この橋を渡ることで古代にタイムスリップするのだそうです。なんだか童心に戻ってたのしめそう!
その前に、「吉野ケ里遺跡」について少し紹介しよう。
(以下、吉野ケ里遺跡公園ホームページより引用)
弥生人の声が聞こえる 吉野ヶ里歴史公園
https://www.yoshinogari.jp/
吉野ヶ里遺跡とは
紀元前5世紀から紀元後3世紀までの弥生時代は、日本で稲作の文化が始まり、定住文化が根付いた日本の文化の原点ともいえる時代です。
弥生時代の遺跡の中でも吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡の旧神埼(かんざき)町・旧三田川(みたがわ)町・旧東脊振(ひがしせふり)村の3つの町村にまたがった我が国最大の遺跡で、弥生時代における「クニ」の中心的な集落の全貌や、弥生時代700年間の移り変わりを知ることができ、日本の古代の歴史を解き明かす上で極めて貴重な資料や情報が集まっています。
これらは日本の様子を記した最古の記録である魏志倭人伝に出てくる「邪馬台国」の時代を彷彿とさせるもので国の特別史跡にも指定されています。
また、有柄銅剣やガラス製管玉等の出土品は国の重要文化財に指定されるなど、高い学術的価値を有するものです。
弥生時代は約700年間も続いた長い時代です。吉野ヶ里遺跡では、この長い弥生時代の全ての時期の遺構・遺物が発見されています。しかもそれぞれの時期の特徴をよく表しているものが見つかっており、この時代にどのように社会が変化していったかが分かる極めて学術的価値の高い遺跡です。
吉野ヶ里歴史公園では「弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)」を復元整備対象時期として、これまでの発掘調査成果や民族学などさまざまな専門分野の研究をもとに復元整備を行っています。
(引用終わり)
時空をつなぐ橋を渡り、脚を進めると、前方に、丸太で作った、大きな壁のようなものが見えてきます。壁の高さは6mくらいでしょうか、電柱くらいの太さの丸太を地中に埋め、隙間なく横に繋いで、丸太の壁を作っています。容易に乗り越えられないように、上端は、削って先を尖らせています。
そして、それぞれの丸太は、縄で連結・固定され、壊れ難いように補強されていました。それが、左右に延々と続いているのです。
どこまで続いているのだろうか?
昔、キングコングの映画を見たことがあるのですが、その中に出てくる原住民の村にあった柵に似ているな。
また、丸太の壁の内側には深さ2mくらいの空堀が掘られており、外敵の侵入を防ぐ目的と推測できます。
でも、防御目的であれば、柵の外側に堀を作った方が効果的ではないのかなと、首をかしげました。
これは、あとでボランティアガイドさんに聞いて分かったことなのですが、この堀は、居住地の排水路としての役割も兼ねているとのことで、そのため柵の内側に作っているのだそうです。
なるほどと納得。
有明海の干潟の泥が集積してできた平野ならではの湿気対策なのだろう。
改めて弥生人の知恵に脱帽。
厳重な防御柵に感心しながら、小さな橋を渡り、環濠集落の中に入ります。
吉野ケ里遺跡公園は、
南内郭
北内郭
北墳丘墓
甕棺墓列
中のムラ
倉と市
南のムラ
の各ゾーンに分かれています。
音声ガイドの案内マップには、それらを効率的に巡れるように、順路が記載されているので、マップの案内に沿って見学することにします。
100mほどゆるやかな坂を上ると、再度、丸太の策が見えてきます。その手前には、資料館らしき建物があります。
資料館に近づくと、先のとがった三角帽子をかぶったボランティアガイドさんが声をかけてくれました。
愛媛から来たことや、歴史が好きで、史跡を巡る旅をしていることなどを、お話すると、解説しましょうと親切に提案してくださいました。
ガイドさんは、ここの発掘にも協力している方で、私よりは少し年配の方でした。
まずは、資料館からということで、平屋の建物の資料館に入りました。
この資料館は、吉野ケ里遺跡から出土した、さまざまな物が展示されていましたが、私が一番目についたのは、大きな素焼きの甕(かめ)です。一抱え以上もあるような大きな甕が、ずらりと展示されていて、今まで想像していた、弥生時代の土器のイメージが、一新された感がありました。
徳島県に大谷焼という、大きな水瓶を中心に焼く窯元を見学したことがありますが、その大甕の素焼きの状態のような、大甕が並んでいるのです。
しっかり、ロクロを回して作り、焼き物用の大きな窯で焼いたような、しっかりした壺なのです。
「こんな大きな甕を、どのようにして焼いたのでしょうか?」
と質問しましたが、不明とのことでした。おそらく、野焼きだろうと言っておられましたが、弥生時代の技術、恐るべしです。
また、その大甕の利用目的を聞いて、驚きは倍増。
「甕棺」といって、要するに、弥生時代の棺桶だそうです。遺体を、その甕の中に手足をまげて安置し、2つの大甕の口を合わせ、横に寝せた状態で埋葬していたとのことです。
棺桶として、この大甕を2つ使うということに、またまた弥生時代の文化に驚きす。
この大甕が、今までに約3千個以上、出土しているとのことで、この集落の規模が推測できると思います。
また、遺跡内の貝塚には、貝や魚などの海の食べ物だけではなく、猪や鹿などの骨、木の実、穀などの山の食材も見つかっており、この場所がいかに便利な場所であったか、ということが理解できます。当時は、海岸線が、もっと近くまで来ていたとのことで、海や山に近い、居住するのには、絶好の平地だったのでしょうね。
資料館には、映像コーナーもありましたが、これは、また後でじっくり見ることにしよう。
資料館を出て、ガイドさんと共に、南内郭に向かいます。
南内郭
南内郭は、王や支配者層が住んでいた場所です。南内郭の周囲は、さきほどと同様に、丸太の柵と堀で囲まれており、入口の作を含めると、二重の柵と堀で防御していることになります。
また、物見櫓や鉄製品が、数多く見つかっていることなどから、位の高い人々の住居地区と推測されているそうです。
南内郭の入口には、櫓門が設けられています。この門の上には、見張りの兵士が常駐し、村内に出入りする人々を監視していた、とのことで、いかに、この時代、戦いが多かったのかが示唆されます。
そういえば、資料館の中には、甕棺に埋葬されていた弥生人の骨もありましたが、頭部のないものや、骨折していた骨も多く出土されていたとの解説がありました。のどかな稲作文化と平和なイメージとは異なり、物々しい雰囲気が感じられる遺跡です。
中央に広場があり、その周囲に、支配者層の住居(竪穴式住居)が建てられており、それを再現した住居に入ることもできます。
この竪穴式住居は、今までに見たものとは、やや異なった構造をしていました。今まで見たものは、住居内部が外の地面と比較して約30cmほど低くなっている程度でしたが、ここでは、入口から約1mも掘り下げて住居スベースを作っていました。
入口には、跳ね上げ式の板戸があり、そこを、背中を曲げてくぐりながら、垂直の梯子を伝って住居内に降ります。中は暗く、冷っとしています。
中央には炉、上には火棚があり、現在の囲炉裏に似た構造となっていました。
居住スペースには、生活のための土器や食物が置かれ、どのように寝ていたのかな、と思えるほど狭い印象を受けました。夏は涼しく、冬は暖かいということですが、実際に冬に火を焚いて体験してみたいなと思いますね。
南内郭には、四方の隅に高い建物があります。この物見櫓には、兵士が見張りをしていたと考えられています。この物見やぐらは、高さが12mほどあり、上るとかなりの高度感がありました。こんなに高い櫓をよく作ったなと思い、ガイドの方にお聞きすると、
「櫓の跡は見つかっているのですが、高さは、あくまで推測ですので確証はありません。」
とのことでした。
この物見櫓から、四方を眺めると、遠くは有明海や山を背景に、数多くの弥生時代の建物が見え、タイムスリップしたような錯覚を感じます。
ガイドさんが、
「映画 まぼろしの邪馬台国のロケにも参加しました。その時、吉永小百合さんが、そこの物見櫓に上って撮影をしました。」
と、隣の物見櫓を指をさして説明してくださいました。
これは、家に帰って早速、見てみようと頭の中にメモ。
帰宅したその晩、早速、映画を見てみました。
「あ~ここだ!」
周囲の景色も、そのまま吉野ケ里遺跡でした。これも旅の楽しみの一つですね。
この日は5月なのにかなり暑く、物見櫓の上での涼しい風が、とっても心地よかったです。 説明は、この南内郭までということなので、ボランティアガイドさんに、お礼を言って、南内郭を出ました。丁寧に説明をしていただき感謝です。ありがとうございました。
実は、この吉野ケ里遺跡公園のレストランで、特別な昼食をいただく予定があったのです。
それは、「弥生 貝汁御膳」といって、限定10食のランチです。土器に、古代米入りのおにぎりと、貝汁や魚の塩焼きなど、当時の人々が食べていたような食事を再現しているものです。
限定食ですので、お昼より少し前に行く必要があったのです。
時間を見ると、11時になっていました。
いそいでゲートまで戻り、レストランに入ります。公園の見える窓際に座り、弥生時代の食事を楽しみましょう。
おにぎりには、赤い古代米が、ちりばめられていましたが、味は、とても美味しかったです。たくさんの貝が入った貝汁も、とても美味しく、当時よりは、断然、美味にアレンジしているなと思いつつ、満足のランチでした。
オレンジジュースを飲み、暑さで少し、ナヨッとしていた気分も、しゃきっとリフレッシュ!
さあ、見学再開。
南内郭に戻り、再度、音声ガイドを聴きながら、じっくりと見学したあと、北内閣に進みます。
南内郭を出て少し下ると、北内閣の入口が見えてきます。ここにも厳重な門と防御柵があり、丸太の柵が、行く先をを通せんぼするように、柵が何十にも設けられています。
鍵状に複雑に曲がった道を通り抜けると、3階建ての大きな建物が屹立していました。
この北内閣は、村の催事を執り行う、最も重要な施設です。昔は、さまざまなことを決める際に、占いを行う特殊な人(最高司祭者)に祖先の声を聞いてもらい、決定していたとのこと。
それらの行事を行っていたのが主催殿で、実際に階段を上がって見ることができます。暗いので、足元に注意しながら一歩一歩登ります。3階建てで、1階部分は空間になっています。2階は集会場で、20畳くらいはあるでしょうか、奥の席に主催者が座り、手前左右に民衆が座ります。3階は、祈りやお告げを聴く場所となっていました。建物としては、かなり大きく、このような建築がこの当時本当にあったのか、驚きです。
この北内閣には、主催殿、高床住居、高床倉庫、東祭殿、斎堂、物見櫓などが復元されていました。主催者が居住したり、催事に使う道具などを保存していたようです。
北内閣を出て、200mほど歩いた所に、北墳丘墓があります。
北墳丘墓は、弥生時代中頃(紀元前1世紀頃)の歴代の王の墓です。人工的に造られた丘で、土を突き固められて造られており、頑丈な構造になっています。中からは14基の甕棺とともに、ガラスの管玉、銅剣が一緒に見つかったとのことです。
この手前には、一般の人々のお墓があり、甕棺での埋葬状況も見学することができます。案内路の両側に、数多くの甕棺が埋葬されていました。ここでは、音声ガイドのスイッチを切り、鎮魂の祈りを込めて見学させていただきました。
(以下、博物館ホームページ解説より引用)
甕棺墓列(一般の人々の墓地)
甕棺[かめかん]とは北部九州に特有の棺のことです。大型の素焼きの土器に亡くなった人の手足を折り曲げて入れ、土の中に埋める埋葬方法で、弥生時代中頃のおよそ200年の間、盛んに使われていたようです。吉野ヶ里では丘のいろいろな場所にまとまって埋葬されており、想定では15,000基を超える数が埋められていると考えられます。中でも、墳丘墓の北側には、真ん中に道(お参りするための道であるとも、左右に埋められている人々の身分の違いを表すための区別の線とも考えられている)が設けられていて、その両側に全部で2,000基を超す甕棺が長さ600mにわたって整然と並べられています。亡くなった人に対する当時の人々の想いを偲ぶことができます。
甕棺に葬られた人々の中には頭部がないもの、肩や腕に刀傷(かたなきず)を受けた跡があるもの、腹部に10本もの矢を打ち込まれているものなど、当時の社会の様子を知る手がかりとなるものが見つかっています。一般的には戦争の犠牲者と言われていますが、例えば10本の矢を打ち込まれた人は腹部に集中しており、激しく動き回る状況の中でこれほど正確に集中して打ち込むことは不可能だと思われること、打ち込まれた10本の鏃(やじり)が様々な材質や技法で作られたものであることなどから、戦争の犠牲者とは思えないと言う考え方もあります。当時は王もリーダー層も一般の人々も皆甕棺に葬られていると考えられますが、甕棺の大きさや副葬品、葬られている場所などに違いがあったり、朱が塗られているものもあり、こうした違いが身分の差を表していると考えられています。
(引用、終わり)
北内閣のすぐ下にあるのが、中のムラです。
中のムラは、祭り・政治・儀礼などの道具を作る場所で、神に捧げるお酒を造ったり、蚕を飼って絹糸を紡ぎ、絹の織物を作ったり、さらには祭りに使う道具なども作られていたと考えられています。
さらに下に降りると、高床式の蔵が、たくさん並んでいる場所がありました。これは、倉庫群、市(いち)も開かれていたと考えられる場所です。
海外との交易品や、日本各地の特産品などの市が開かれたり、保管されていた倉庫群などが集まった、重要な場所であると考えられています。
さらに道を降りると、一般の人々の居住地である、南のムラがあります。弥生時代の吉野ヶ里集落の一般の人々が住んでいた地域と考えられています。
北内郭や南内郭と違い、この区域を囲むような、壕などの特別な施設がないこと、竪穴住居3~4棟に対し、共同の高床倉庫1棟が付くという、日本全国で見つかっている、一般的な集落のあり方と、良く似ていること、北が上位で南が下位という、古代中国の考え方に影響を受けて作られていると見られる、吉野ヶ里集落全体の中で、一番南に位置していること、などがこうした考え方の基になっています。
ひたすら暑さを忘れ、弥生時代を歩いてきました。気が付くと、スタート地点に戻っていました。
これほど多くの建物を復元した遺跡は、今まで見たことがありません。吉野ケ里遺跡の広大さと弥生時代の文化に触れて、感動の時間を過ごすことができました。
もう少し涼しかったら言うことはないのですが、
とにかく暑い!
もう一度、公園内を一周したいという気持ちを抑え、後ろ髪をひかれるように出口に向かいました。
出口への時空大橋を渡りながら、何度も後ろの遺跡を振り返りました。
16時44分 吉野ケ里公園駅発の電車に乗り、佐賀に戻ります。
佐賀駅近くのスーパーに行き、いつもの夕食の買い出しです。今日は、お好み焼きとサラダ、ちくわにハイボール、そして明日の朝食用のパンとヨーグルト、野菜ジュース、お茶を買って、ホテルに帰着。入浴後、明日の予定を予習しながら、トリスハイボールを一杯やります。
これが至福のひとときなんだよね。
明日は、名護屋城跡の予定。
JRやバスにかなり乗らないといけないので、今日も超早めに寝ることにしよう!
3日目
今日は、佐賀旅の大きな目的の一つである、 名護屋城跡に向かいます。
これは、有明海沿いにある佐賀市から、日本海側の玄界灘を望む、名護屋城跡を往復する旅となります。かなり不便な所にあるため、便数の少ない汽車やバスを利用します。アクシデントが発生し、もし、予定の便に乗り遅れたら大変なことに...
朝、7時51分 佐賀駅発、唐津線 普通列車に乗車、佐賀に帰着するのは、夜19時過ぎの予定。今日は、かなりのハードスケジュールなんです。
ホテルを少し早めに出て、佐賀駅に向かいます。
唐津線 普通列車に乗り、有明海から玄界灘へ、山を横切る風景を楽しみます。想像していたものとは異なり、普通の平野の景色だったので、ちょっと期待外れかな。
8時59分 唐津駅到着。
名護屋城跡行きのバスは、午後しかないので、それまでに唐津城を見学しようと試みます。
JR唐津駅から唐津城までは、1.7km。
唐津駅から西唐津行の列車は、
唐津駅 11時20分発
今から、2時間20分で、唐津城まで行き、唐津城を見学した後、ここに帰ってこなければならない。
かなりの強行軍ですが、レッツ スタート!
iPhone を取り出し、既に登録済みの経路案内をスタート。
ヘッドセットを耳に当て、音声案内を聴きながら、見知らぬ街を歩きます。
なるべく、歩道のある大きな道を選んで歩きます。四つ目の角を曲がると、前方に大きな橋が見えてきました。鉄筋コンクリートの橋ではありますが、昔の橋のような欄干があります。
幅3mくらいの昔風の橋が、100mほど先の、川の対岸に向かって、一直線に伸びており、その先には、小山の上の唐津城がそびえていました。
欄干のある古橋と唐津城天守閣は、まさに絶景です。しばらく、この素晴らしい風景に見入っていました。
ふと、時間に余裕がないことをお思いだし、急いで橋に向かいます。橋を渡り、地下道を通って、交通量の多い道を横断すると、そこはもう唐津城登山口です。
標識があり、左に行くと登山用エレベーター、右は通常の登山道とあります。標高が低そうだったので、ためらうことなく、階段の登山道を進みます。
視力が低下しても、階段や坂道を上るのは、そんなに不自由を感じません。そのかわり、階段を降りるのは難しく、杖でさぐりながら、ゆっくりです。これが、元山屋かと思う程、下山には時間がかかるんですよね。
200段程度で、天守閣の入口に到達しました。
唐津城は、関ヶ原の戦いの戦功で加増された武将:寺沢志摩守広高によって、唐津湾を望む、松浦川河口の半島状に突き出した丘陵(満島山:標高42m)に築かれた城で、続日本100名城に選ばれています。
天守閣は、鉄筋コンクリート作りで、内部は資料館になっています。最上階からの眺めは素晴らしく、日本海を見渡すことができます。最上階で、ゆっくり日本海を眺めていたいところですが、とにかく時間がおしている。
暗いので、杖で慎重に探りながら階段を下りていきます。
さて、下山です。私の場合下山は、極めて時間がかかるので、エレベーターを利用することにしました。
案内板に従って行くと、入口があります。エレベーターといっても、垂直に昇降するのではなく、山肌に沿って、斜めに下降します。だから、下に降りて停止する時も、斜めにショックがきて、不思議な感覚でした。
いそいで唐津駅に戻ります。道は、記憶しているので、気持ちにゆとりがあります。
唐津駅には、11時に到着。ここから、西唐津駅は一駅です。
念のため、昼食用に、あんパンと野菜ジュースをコンビニで購入して改札に向かいます。
単眼鏡を出して、これから乗る唐津線の普通列車の乗り場を確認します。
「あれっ?」
「今から乗る予定の列車の案内がない!」
「乗換案内のアプリが間違っているのだろうか?」
出発時刻が近づいてくる。
乗り場がわからない。
聞こうにも改札の係員がいない。
背中を冷や汗がながれる。
改札口の壁には、
「問い合わせの際は、このボタンを押してください。」とある。
早速、ボタンを押すと、液晶画面に係りの人の顔が映し出され、ほっと一息。
西唐津行の案内掲示が出ていないことを説明する。
結論から言うと、通常の案内版と離れた所に表示してあるとのこと。
とりあえず、「3番のりば」ということなので、ヨロヨロモタモタしながらホームに向かう。
JRもコロナの影響でかなりの減収となっているとのこと。経費削減で、いろいろ工夫してしのいでいるのでしょう。
コロナ前の状態に早く戻って経営が安定することを願っています。
私たちのような交通弱者にとっては、公共の交通機関だけが、たよりです。
どこかの、政党が政権交代した時に、高速道路を無料にしたものだから、フェリー航路がなくなったり、公共交通機関の便数が減ったり、悲しいことになってしまいました。
一度なくしたものは、なかなか元には戻らないのですね。
さて、旅を続けましょう。
定刻に、かなり使い古された感のある、ディーゼル車がきました。数分で、ガタゴト揺られて、西唐津駅に到着。無人駅で、かれこれひなびています。
「名護屋城博物館」入口行きのバスは、11時55分発なので時間は、たっぷりある。とりあえず、横断歩道を渡り、少し歩いたところにあるバス停まで行き、時刻を確認。
これも Google Map 様のおかげです。旅行前に、ストリートビューで、バス停の位置を確認しているので、迷うことなくバス停にたどり付けました。
以前、「駅前のバス停から」とだけ、チェックしていたら、駅のどちらの出口から出るのか、そしてバス停が、どこにあるのか、よくわからなくて、いろいろ探していたら、乗りたいバスに乗り遅れてしまった経験がありました。やっぱり、失敗は大切です。
それ以来、旅行前に確認しておく習慣がつきました。
西唐津駅の構内のベンチに座って、あんパンとジュースを飲み、腹の虫を落ち着かせます。
バスを待つ時間を利用して、名護屋城や博物館について復習しましょう。
(以下、名護屋城博物館ホームページより引用)
https://saga-museum.jp/nagoya/
名護屋城とは
名護屋城は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた城です。
1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死で諸大名が 撤退するまで、7年の間大陸侵攻の拠点となりました。城の面積は約17ヘクタールにおよび、当時では大坂城に次ぐ規模を誇りました。
周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が集ったとされています。
現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されています。
「名護屋城博物館」
「日本列島と朝鮮半島との交流史」
名護屋城博物館の常設展示は原始・古代から近現代にいたる日本列島と朝鮮半島との交流の歴史をメインテーマとしています。
名護屋城以前
最初のコーナーでは、原始・古代から中世の時代を対象としています。
古くから日本列島と朝鮮半島との間ではさまざまな人々が行き交い、その中で様々な文化が発展し育くまれていったことを展示・紹介しています。歴史の中の名護屋城
1592年から7年間にわたって行われた豊臣秀吉による朝鮮侵略(文禄・慶長の役/壬辰・丁酉倭乱イムジン チョンユウェラン)をテーマとしたコーナーで、常設展示の中核的存在です。
黄金の茶室
豊臣秀吉が名護屋城に持ち込ませ、茶会や外国使節の歓待に使用した「黄金の茶室」を、当時の史料に基づき再現し、展示しています。
名護屋城以後
江戸時代以降についてみていきます。江戸幕府将軍の就任に際して朝鮮国から招かれた朝鮮通信使や朝鮮時代の工芸資料、「誠信の交わり」を説いた雨森芳洲などを紹介しています。特別史跡 名護屋城跡並びに陣跡
名護屋城跡や周辺陣跡の発掘調査の成果をご紹介するコーナーです。
金箔瓦や陶磁器などの出土遺物のほか、保存整備の様子についても紹介しています。
(引用、終わり)
ヨロモタ旅に戻ります。
定刻に来たバスに乗り込みます。乗り込む際に、運転手さんに、行先を確認したことは言うまでもありません。ヨロモタ旅の基本です。
バスは、田舎の町を、より人気のない、家もない、奥へ奥へと、どんどん進んでいきます。博物館入口まで、約30分となっていたような。
バスが山の中を分け入るにつれて、不安感は広がってきます。
「えらいところに来てしまったなぁ~。」
九州電力の施設を過ぎた頃から、周囲も開けてきたので、ほっと一息。
信号のある十字路を曲がると、そこが博物館入口前。
なんと、一緒に5~6人下車しました。みんなマニアックそうな、おっさんや若い衆です。
自分をさておいて、マニアックもないものですが...(笑)
彼らは、揃って同じ方向に行くのかと思えば、二方向に分かれてしまいました。周囲を見ても、どこに行けばいいのか、私の眼では観測困難です。
ここで、またまた Google Map の登場です。音声案内を聴きながら、名護屋城博物館に向かいます。5分ほど歩くと巨大な構造物が見えてきました。
「この山奥に、すごいものを立てたな。」と、感心しながら近づいていきます。
ここには、車で来る人が、ほとんどなのでしょう。駐車場には、かなりの台数の車があり、博物館の前では、団体さんが記念写真を撮っていました。会話が、それとなし聞こえてきます、韓国語のようです。
唐津城でも韓国の観光客が多いな、と感じましたが、ここも韓国からのツアーのプログラムに入っているようです。やはり、北九州という地理的関係で多いのでしょうね。
名護屋城跡を見学する前に、まずは、博物館で知識を整理します。この立派な博物館は、なんど、無料でした。国の運営でしょうか。
ここにも音声ガイドがありましたので、早速、お借りすることにします。
1階は、シアタールーム、2階の展示室から見学することにします。
展示内容は、上記のとうりですが、特に印象に残ったものを紹介します。
最初に目についたのは、名護屋城と、その周囲の大名屋敷のギオラマです。玄界灘を望む丘陵を切り開いた、広大な土地に、各大名が陣屋を築いていました。その広大さに圧倒されます。秀吉の最大の悪行とされている、朝鮮出兵の規模の大きさが伺えます。
名護屋城内には、桝形の広場があり、この広場に兵が満ちると、千人としてカウントしたとの解説がありました。おびただしい数の兵を、数千隻の船に乗せ、朝鮮に向かわせたのです。その時、秀吉本人は能楽を楽しんでいたとのこと。日本史の中でも、負の遺産の冴えたるものでしょう。
「黄金の茶室」を、大阪から運び、各大名を呼んで、悦に入っていたらしいのですが、その茶室も再現されていました。
金色に輝く茶器や部屋の装飾は、いかにも成り上がりの悪趣味といえるものでしょうか。
これらの、日本人として恥ずかしい歴史を、海外の人に、どのように解説しているのだろうと、不安になりました。音声ガイドは、さまざまな言語に対応しています。解説の内容に神経を集中させます。
ほぼ史実に沿った解説でしたが、やや自虐的な表現が、目立つ箇所が多々あるような印象を受けました。特に古代における、日本と朝鮮の交わりについては、首をかしげる箇所もありました。歴史の解釈は、見る立場によって大きく変わります。
1階のシアタールームでの動画は、よくできているなと感心しました。特に最後のまとめでは、秀吉の侵略について、真摯に反省し、今後は、世界の平和に貢献していかなければならないとの内容で、解説を結んでいました。
何処の国の人が観ても、納得できる内容だと感じました。
次に、博物館を出て、いよいよ名護屋城跡に向かいます。
博物館を出て、すぐ左に入口があり、そこから名護屋城 天守閣跡に向かう道があります。 現在は、石垣のみとなっていますが、大手口から長い坂を上って、三ノ丸に進みます。
石段を上ると、広い本丸跡です。本丸跡の左に天守台があります。5層7階の壮大な姿が、ここにあったのです。天守台に登ると、端っこにベンチが、ひとつポツンと置かれていました。幸い、人は誰もいないので、この天守台をひとり占めです。ベンチに座って眺めると、目の前には、玄界灘があり、朝鮮の彼方まで見えるような気がします。
秀吉は、ここで数千隻の船が、朝鮮に向かって出港するのを見ていたのでしょう。
今、こうして眺めていると、緑と海の青さ、空の広さが美しく、感動的ですが、当時は、意に添わぬ出陣に対する、怒りや悲しみを胸に秘めて、日本を離れたのだろうと思いを馳せます。
現代でも、同じようなことを繰り返している国があることを思えば、人間というのは、愚かな生き物であるとつくづく感じます。
さまざまなことを考えながら、ここで私の定番のチョコクッキーをいただきました。
このように歴史の現場に立って、その時代に思いを寄せる時間が、私の至福のひと時です。
ゆっくりとした時間を過ごしたら、下山です。私にとっては、これが悩みの種。視力が低下すると、坂や階段を上るのは、特に支障はないのですが、階段や段差を下るのが恐怖になってきました。
特に、お城の石段のように、不揃いの自然石で作られた石段は最悪です。足元が見えにくいため、杖で探り、確認しながら、一歩一歩降りていきます。精神は緊張状態。上る時間の2倍の時間をかけて、ゆっくり降りていきます。
大手口まで下りた時、大きな安堵のため息が出ました。転倒せずに降りることができました。
16時32分
これは、「名古屋城博物館」前 発のバスの時間です。
今は、15時30分
この時間以外の便はありません。
あと1時間、どう過ごすか?
もう一度、博物館み戻って、再度、じっくり見学するとしよう。
中2階に、ディスプレイがあり、覗いてみる。この名護屋に屋敷を築いた、ある大名が、アニメで登場し、語っている。
どのように屋敷を作ったのか、小学生にもわかるような平易な解説。
最後に、
「この続きは、横のドアを開けて、見に来てくれ!」と...
「ん?」
「ドアを開けて、外に行くのか?」
オッサンも興味をそそられ、ドアを開けて外に出ると。
遊歩道のような、整備された道が続いている。
少し歩き、コンクリートの石段を上ると、そこには、屋敷の跡が再現され、解説板が設置されていた。屋敷の庭園に使われていたと思われる、飛び石、便所の跡、屋敷の礎石など、杉並木の間に点在している。踏み荒らされないように木道が作られている。ところどころに、ベンチが設けられている。
「なかなか、洒落た演出ですな!」と感心。
その一つに座って、当時の姿に思いを寄せます。心地の良い風が吹いて、とても、すがすがしい気持ちになれました。
博物館から、この屋敷跡に誘導した面白い仕掛けに、思わず顔が緩みます。
やはり、ミュージアムは、遊び心が大切だよね。楽しみながら、学べる空間を演出する、そういった仕掛けに遭遇すると、いい博物館だなと心から思います。
ふと、松山の「坂の上の雲ミュージアム」を思い出します。
「何か、もっと入館者が楽しめる演出は、ないのだろうか?」
博物館をじっくり鑑賞すると、いつの間にか17時が近づいてきていました。
坂を下って、バス停まで、ゆっくり歩きます。バス停には私一人。
「お昼に一緒にバスに乗ってた人は、どうしたのだろうか?」
他には、バスの便はないのだが。
そんなことを考えながら、ほぼ定刻に来たバスに乗り込む。西唐津駅までは、案外早く着いた。(早く着いたような気がするだけで、所要時間は同じなのだ。未知の場所へ行く時間は、長く感じるが、帰途は、早く感じるのです。)
17時32分 西唐津駅 発のディーゼル列車に乗車。
19時03分 佐賀駅 着。かなり薄暗くなりかけていました。暗くなると歩くのが、おぼつかなくなるので、急いで、いつものスーパーに行きます。お弁当と明日の朝食、そして、必須のトリスハイボールを買って、ホテルに帰着。
「いや~、今日はちょっと疲れたな。何せ、有明海から日本海を往復したからな。」
疲れていたので、入浴と食事を済ませたら、明日のことは明日と、ベッドに入って爆睡しました。
。
4日目
今日は、午前中、「佐賀市立歴史民俗博物館」を見学し、「シシリアンライス」を食べて、小倉に、という予定でした。
ところが、昨日、佐賀本丸歴史館で、佐賀城の御城印を発行していると、ネットで発見。佐賀県では、この佐賀城、唐津城、名護屋城の3ヶ所に御城印があるとのこと。お土産を頼まれていたのを思い出し、もう一回佐賀城にいくことにします。
まずは、「歴史民俗館」に急ぐ。ここは、明治大正時代の古い建物を保存している所で、中にはカフェもあり、ゆっくり楽しめるところだが、今日は、時間がないので、かなり、スル~ッと観てしまった。佐賀本丸歴史館に脚を向ける。
ところが、途中で、神社、それも、かなり立派な、由緒正しい神社を発見。水路を渡って、神社に入るのだが、その石橋に、緑の蔦が、びっしり巻き付いていて、とても美しい。その景色に思わず見とれてしまいました。
見ると「松原神社」とあり、河童を前面にフューチャーしています。
「ここは、調べてなかったな。」と反省したが、もう遅い。
とりあえずお参りだけして、先を急ぎましょう。
しばらく歩くと、見たことのある風景が、目に飛び込んできました。門を入り、本丸歴史館玄関に到着しました。
売店で御城印をゲット!
これだけで出るのは、申し訳ないので、中を再度、ぐるりと一周して、外に出ます。
さて、次は、「シシリアンライス」
「これは、どうしても食べんといかんな。」
ここから佐賀駅までの間で、食べることのできるお店を探します。
「シシリアンライス・マップ」なるものを iPad にダウンロードしているので、それで調べます。お店は、たくさんあるのだが、場所と時間が一致できるものは...
途中の喫茶店「トネリコ カフェ」
アーケード街の中にある普通の喫茶店でした。
やや薄暗いカウンターに座り、シシリアンライスを注文。
これが、結構時間がかかった。JRの時間が気になるところだが、ここは、じっくり待ちましょう。
しばらく待って、出てきたものは
一見、ちぎったレタスの入った焼きめし、といった感じかな?
ところが、一口食べてみると
「あれ?」
ごはんには味がついていない。白ご飯に、牛肉をたれでまぶしたものに、生のレタスをちりばめた感じ。
今までに食べたことのない味でした。
「うーむ、これがシシリアンライスか!」
佐賀市の各地で出されているソウルフード?
旅の楽しみは、やはり、そこでしか食べられないものをいただくことでしょう。
新感覚の食事に満足!!
オレンジジュースとセットで900円でした。
満足したお腹をさすりながら、JR佐賀駅に向かいます。
佐賀駅から本丸歴史観までは、2.4km、歴史民俗館を廻って行ったので、往復約6kmを急いで巡ったことになります。あわただしいことだったと反省しつつ、小倉行の「特急みどり」に乗り込みました。
11時36分 佐賀 発、博多で「特急ソニック」に乗換
13時07分 小倉 着
帰りの船は、21時乗船開始、21時55分小倉港 出港予定です。
つまり、夜の9時まで時間があるわけなんです。時間があるというよりは、9時まで時間をつぶさないといけないのです。とりあえず、予定していた、小倉城に向かいます。
小倉城は、JR小倉駅から1km程。近いので、道に迷うことはありません。小倉城を訪れるのは、今度で3回目です。何でも、小倉城内の展示を、大きくリニューアルしたとの情報を得ていました。これは必見!
小倉の街は、デカイですね。松山とは、比較になりません。ビルの大きさや人の多さも、けた違いです。外国人観光客も、多いなと感じました。欧米からの人が多い印象です。
整備された小倉城内の登城路を歩いて、天守閣に向かいます。
天守閣内は、期待どおり、すべての展示がリニューアルされていました。
1階には、大きなスクリーンのシアタールームがあり、小倉城400年の歴史を、なんと草刈正雄さんがナレーターで解説していました。草刈正雄は、小倉出身なのかな?
(やはり、北九州市のご出身でした。)
2階にも映像コーナーがあり、小倉藩を治めた細川家、小笠原家の歴史を解説しています。
3階では、映像や照明により、宮本武蔵と佐々木小次郎について学ぶことができます。
5階は、展望スペースとなっており、小倉の街を一望することができます。
(以下、小倉城について、公式ホームページより解説を引用)
天守閣 1階
大迫力のシアター
1602年(慶長7年)、小倉城は細川忠興公によって約7年の歳月を費やし造られました。城下町全体をつくりあげる壮大な都市計画でした。小倉の街は本州と九州を結ぶ玄関口として、また、中津街道や長崎街道の出発点であり「九州のすべての道は小倉に通じる」と言われ大変賑いました。城下町では、城を中心にまわりに家来の武士が住み、それを囲むように町人が住んでいました。 その後失火や戦など様々な歴史を経て、天守閣が再建されました。約400年の歴史を、約10分に凝縮しています。ナレーションは北九州市アンバサダーである草刈正雄さん。ドラマチックな映像を高画質で、大迫力の大画面シアターでお楽しみいただけます。
天守閣 2階
細川藩・小笠原藩の歴史
関ヶ原の戦いの功により豊前小倉藩を拝領し小倉城を築城するなど、まちの礎を築いた偉大な武将であると同時に、千利休の高弟で「利休七哲」のひとりとして茶の湯に精通していた細川忠興など、小倉藩主であった人物はもちろん、彼らの周りで活躍した人物などに光を当てて紹介しています。他にも、創建当時の天守閣を再現した模型などを展示しており、より詳しく文化に触れてもらえます。
天守閣 3階
宮本武蔵と佐々木小次郎
関門海峡にある巌流島の戦いで有名な『宮本武蔵と佐々木小次郎』。彼らのミステリアスな生涯を紹介しています。佐々木小次郎の愛刀を再現した真剣を、宮本武蔵の木刀と共に展示しています。また、巌流島の決闘の名場面を再現し、佐々木小次郎になりきって頭上から切りかかってくる宮本武蔵のリアルフィギアと一緒に写真を撮れます。
天守閣 4階
ギャラリースペース
4階は企画展や市民の作品展などが開催できる展示空間となっています。概ね1ヶ月ごとに展示内容が変わりますので、お越し頂くたびに、違った魅力をお楽しみいただけます。
天守閣 5階
展望スペース
小倉の街を一望する5階の展望スペースは、当時の内装をイメージした作りになっており、様々なイベントや、ユニークベニューにも対応できます。
(引用、終わり)
エレベーターが設置されており、下りは安全、楽ちんでした。
天守閣を出た後、休憩・売店コーナーに行き、御城印を購入。ここも外国人で混雑していました。
次に、小倉城の敷地内になある「松本清張記念館」に向かいます。
松本清張は、小倉出身の社会派ミステリー作家として、あまりにも有名ですね。私も、「点と線」や「ゼロの焦点」など、代表作は、結構読んでいます。
この記念館では、「日本の黒い霧」というドキュメンタリー作品を上映しているとのことで、その時間に合わせて入館するように調整しました。上映時間は、15時40分から17時00分の80分の作品です。
行ってみると、「松本清張記念館」は、驚くほど大きな建物でした。地方の県立博物館くらいは、あるのではないかと思えるほどでした。
上映時間まで、館内を見学します。
一番の目玉展示は、なんといっても、松本清張の仕事場にしていた、住居を、そのまま移築、館内に展示していることでしょう。木造2階建ての家がそのまま展示室に移築されているのです。残念ながら、家の中に入って、触れることは、できませんでしたが、周囲から、室内の様子まで良く見えるように、壁の一部をガラスに置き換えていました。膨大な資料を研究し執筆していたことは有名ですが、書庫には、膨大な資料や蔵書が、図書館のように整理されていました。ミステリーだけではなく、ノンフィクションの分野でも活躍されていたことも納得できる居宅でした。
シアタールームは、比較的こじんまりしていますが、映画館のような椅子ではなく、座りやすい椅子が、離れて配置されており、ゆっくりドキュメンタリー映画を楽しむことができました。
最後まで映画を鑑賞したのは、私と、あと二人いたかな?
時間を有効に使うことができました。
満足! 満足!
「松本清張記念館」さん、ありがとうございました。
とはいえ、9時まで4時間
どうする家康!
とりあえず小倉駅に戻ります。後、しなければならないことは、お土産を買うことくらいかな?
どこで買おうかと、お土産店の場所を探していると、ふと思いつきました。
そういえば、このJR小倉駅では、よく迷うな。
「そうだ! 小倉駅を隅々まで歩き廻って、熟知しよう!」
小倉駅の構内の頭上には、モノレールが入っています。様々な出入口。隣接したショッピングモール、改札口、コンビニ、お土産店、レストラン街等々。
さまざまな出入口から、各階の売り場などをいろいろ見て回ると、この小倉駅の構造が頭に入りました。
時間を見ると、6時過ぎになっています。ぼ
「ぼちぼち食事をするか。」
隣接するビルの、最上階のレストラン街に行き、店前の看板メニューを見て回ります。見えにくい所は、スマホで写真を撮り、拡大して確かめます。
すき焼き定食と生ビールを注文し、時間をかけて食べます。時間は、た~っぷりあります。
とはいえ、ひとりでは、あんまり粘るのは不可能。ある程度で切り上げ、コンビニに向かいます。
小倉港の待合室で時間をつぶします。その為の小道具を購入しましょう。
紙パック入りのワイン(赤と白)、おつまみ各種、お茶。
次に、お土産店に行きお土産を購入。
観念して小倉港に向かいます。
小倉港 待合室には、自動販売機以外何もありません。シンプル待合です。
あと、2時間弱、ワインをチビリチビリ飲みながら過ごすとするか。
なぜワインなのか?
缶ビールや缶チューハイだと、開けるときに、「プシュッ!」って音がするでしょう。すると、前方にある、乗船受付の職員の方に、お酒を飲んでるとバレるんですよね。お酒を飲むのを禁止しているわけではないのですが、やはり、オッサンが待合室で、「グビグビ」飲んでいる光景は、顰蹙ものでしょう。少なくとも好印象は得られないでしょうね。私も、そんなオッサンの横には座りたくないですよ。(笑)
ですから、外見は、200ml入りのジュースのような紙パック ワインを「チビッリチビリ」とやる訳なんです。
耳にはイヤホン。
オーディオブッックを聴き、読書しながらいただきます。
どんな長い時間も、必ず終わりが訪れる訳で、やがて9時になり、乗船しました。
帰りも6人部屋に、私一人。
個室感覚で帰途につくことができました。
今回の、佐賀の旅を振り返ってみて感じたこと記します。
・遺跡が整備され、ミュージアムが楽しくまなべるように工夫されていた。
・佐賀は、幕末・維新をはじめとして、歴史上重要な役割を果たしてきた。なのに、日本国民だけでなく、佐賀県民も、あまりその事実を知らない。
・今まで、長崎や鹿児島への通過点としか認識していなかったが、見所満載の観光地だった。
今度は、暑くない季節に、是非、再訪したいなと思っています。佐賀県の皆さんに感謝です。
以上
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