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【熟年離婚】〈男の言い分68〉

嫁姑のバトルを我慢している夫はいっぱいいますよ。だけど、私の場合は、妻の一言でアウトでした。


 B氏、67歳。元会社員。昨年12月、2歳下の妻と離婚。

 私は、3歳で父を亡くして、その時、24歳だった母と、「母子家庭」で育ちました。母と私は、母の実家―農家です―の近くの、小さい借家で暮らすことになって、父親が勤めていた会社の社宅を出る時の、引っ越しをぼんやり憶えています。

 母は、隣街の織物工場に勤めに出て、その間、私は、母の実家に預けられて、じいちゃん、ばあちゃんに面倒を見られていましたが、小学校に入ってからは、家でひとり、母の帰りを待ちながら、飯も炊いていましたね。なに、電気釜が炊いてくれましたからね。


 母は、勤めから帰ると、農家がリンゴや梨に掛ける袋張りをしたり、仕事の休みの日は、実家の農作業の手伝いをして―秋の刈り入れの時に、手伝いの礼に米をもらえるのが、暮らしの支えでしたね。母がのんびり休んでいる姿が思い出せないほどです―なんだか、お涙頂戴のような話になっちゃいましたが、まぁ、私はこうして母に育ててもらって、大学も出してもらって、地元の建設会社に就職しました。

 スーツ姿の私を見て、「やっとここまで来れた」と、母は泣いて喜びました。と、ここまでは“順調”だったんですが―私の結婚から、“母の幸せ”は崩れて行ったんです。―そう、「嫁」です。

 私は27歳の時、会社の取引先の事務員だった「妻」と恋愛結婚しました。いつも元気で、はきはきと明るい性格が好きでしたからね。母は、私らの結婚に特に反対もせず、「あんたが選んだ人なんだから」と。母子家庭で、母親が息子の結婚相手をすんなり認めない話は、周りからよく聞いていたので、その時はほっとしました。

嫁姑バトルのゴング、鳴る


 しかし、結婚生活のフタを開けたとたん、嫁姑バトルが始まったんです。カーーーン、とゴングが鳴ったようでした。

 母は当時、小さい借家に一人暮らし。私ら夫婦は、そこから車で30分ほどのアパートに住みましたが、新婚旅行から帰って一息ついたところに、タクシーで乗り付けた母は、実家に挨拶が無いの、土産が無いのと、嫁にグズグズ言う。嫁は嫁で「あら、すみませーん」と笑顔で無視。先行きを考えると、気持ちがおもーくなりましたよ。

 妻は、結婚前から勤めていた会社で働き続けていて、共働きでしたが、翌年、子供が生まれて、「家庭と仕事の両立」に苦労していました。私は、子供の保育園の送りや、家事の手伝いを頑張りました。

 ところが、ある日曜日に、台所で昼飯の洗い物をしていたら、突然、母の登場。エプロン姿で奮闘している私を見て、「こんなことをさせるために、息子を苦労して育てたんじゃない」と、嫁に泣いて抗議。

 妻は「お義母さん、今時こういうの、当たり前ですよ。男女共同参画社会なんですからね」とやり返す。 母は、「何が男女共同三角関係だって!? いやらしい!」とやり返す。私は吹き出すところをこらえて「たまには、主婦もゆっくりさせてやらないと」となだめるのに、妻は「男女共同三角関係だって! アハハ!」と身をよじって笑う。

 火に油どころか、ガソリン噴射だ。「私が無学だからってバカにして! あんたは東大でも出てるのかい!」と母は泣き出す。よせばいいのに、「たかが短大卒じゃないの!」とパンチを追加。

 それからの大バトルは、結婚以来、およそ40年。いちいちかまってられないが、妻からも母親からも、グチられてたまらない。

 妻は妻、母親は母親の言い分を、夫に、息子に訴える。それのどっちに味方してもまたバトル。妻と母親の怒りは自分に向かって来る。ドローにすれば、またもめる。わが家だけじゃない、と諦めて辛抱したけど―男はみんな、この嫁姑バトルで疲れ果てて、女性より短命なんだろうかね。

延長戦

 そんなこんなで、年月が経って、息子は高校生になりました。母に感謝したいのは、孫が可愛くて仕方ないという様子でも、妻の子育てには一切、口出ししなかったことですね。―そうじゃないと“場外乱闘”ですよ。

 でも、他の口出しは、年を取るほど増えて行きました。親戚の集まりの時に嫁がお酌して回らなかった、自分の茶飲み友達に挨拶しなかった、洗濯物の干し方が下手、買い物に無駄が多い、着るものが派手、何でもすぐ捨てる、電話が長い、子供に甘すぎる、自分は学歴があると思って姑をバカにする、料理が脂っこい、と実に多岐に渡る。

 なぜこれを私が言えるかというと、妻が、そっくり、私に「お義母さんにああ言われた、こう言われた」と訴えるから。極め付きは「こんな嫁をもらって、息子は可哀想」と、嫁の前で言う。―これ、反則ですが、母もすっかり年老いて、少し痴呆も現れ始めたので、大目に見てやりたいところです―私自身、この嫁で失敗なんて、その時は思っていませんでしたから、「そんなこと言うなよ」と母を諫めました。「あーら、私で悪かったですねー!」と、妻はまた戦闘開始。―ほとほとくたびれました。

 母は、80歳を超えてから、足腰も弱って、認知症も進み、介護施設に入りました。私は月一度、面会に行きましたが、妻は一度も行こうとしない。それもいいか、施設でバトルじゃ、やり切れませんからね。認知症が入っても、母も妻もファイト満々でしたから。でも母は、かなり体も弱っても、「〇子(妻の名前)は?」と私に尋ねる。嫁とのバトルは、母の生きる力の源だったのかもしれませんね。

妻の一言で離婚

 去年の秋、母は87歳で亡くなりました。葬儀が終わって、家に戻ったとたん、喪服のままの妻が、大きく両手を挙げて「あーーぁ、セイセイした!」と―。
 私はただびっくりするやら、哀しいやら、心底、腹が立つやら―こんな時に、それを言うか? 心の中で、「セイセイした!」と叫んでもいい。私の前で言うか? 

 それから先の妻との人生が考えられなくて、離婚を決めました。妻は私を「マザコン」と笑いながら、あっさり、離婚に同意。

 彼女には会社勤めの退職金も年金もある。先の人生も長い。それで結構、と―「夫婦」って何だろう、と改めて思いましたね。

 自分の幸せを考えないで私を守り育ててくれた母に感謝しながら、私はこれからの残りの人生を送って行きたいですね。でも、姑のやかましい口出しに長年耐えて来てくれた妻にも感謝です。おだやかに暮らしたかっただろうにね。

 話し合いの末、私は家に残って、妻は他県の街で暮らしている息子の家の、近くのアパートに住むことになりました。たまに息子から電話があって、元・妻が嫁に口出しして困っていると。戦場と対戦相手を変えたバトル、彼女も元気で闘い続けてほしいものです。

(橋本 比呂)


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