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第6話 「介護等体験」で学び取った痛み

2016〜2019年にかけて、高校の教室でもがく教員の姿をcakesで連載していました。cakes終了につき、noteに転載するお誘いを受けましたので、定期的に再アップしていきます。よろしければご覧ください。 年齢や年代などは当時のままですので、ご了承くださいませ。

僕が中学2年だったときのある日、社会科の教科書が家でなくなった。

いつも机に教科書類を置いていたから、なくなるのはおかしい。でもどこを探してもない。ふと、となりの家の屋根を見やると、雨に打たれた社会の教科書がぽつりと乗っかっていた。現実離れした光景だった。

姉が窓から投げ落としたのだった。

かつて、教員免許取得のために参加していた「介護等体験」の最中、僕はこの「教科書事件」のことを思い出した。

中学校の教員免許を取得するには、さまざまなハンディを抱える子どもが集まる特別支援学校で2日間、そして特別養護老人ホームなどの社会福祉施設で5日間の「介護等体験」をしなければならない。

高校で教えるつもりでも中学の免許を同時に取得することが一般的なので、2012年6月、30歳をすぎていた僕は大学生とともにこの「体験」に参加した。

正直に言えば、最初は「こんなのやる意味ない」と思っていた。この制度は、いくらかの責任がともなう「実習」ではなくて、あくまで現場をのぞき見する「体験」にすぎない。ごく短期間のぞき見したところで、何が得られるのだろうか。

でも、たった7日だったけど、この「体験」を得て、小さくない何かが僕の中ではじけたのは本当だ。今ではそう思う。今回は、特別支援学校での2日間をふりかえってみたい。



あまりに軽率だった自分の行動


特別支援学校での2日間、僕は知的にハンディのある高校生と彼らを指導する先生をじっと見つめていた。

僕はサラリーマン上がりで30すぎの「体験者」だったから、先生もホンネを吐露しやすいようだった。「やめたくなるとき? そりゃしょっちゅう。子どもにむかっとするときだってあるよ。人間だもん。でもさ、やっぱり嫌いにゃなれないんだよ。人間だもん」。40代の教諭の笑顔は、重たくも力があった。

体育の授業前は、どうしても着替えの補助が必要になる子もいる。便で下着を汚してしまったときも、しばしば教師の手が必要となる。

大人の先生と大人一歩手前の生徒が「協働」する更衣。「ふつう」とされる高校では絶対見られない光景を前に、自らの想像力のとぼしさを感じた。

休み時間。教室移動が遅れていた生徒数名を送りとどけてほしいと先生から頼まれた。おやすい御用と思ったのが甘かった。生徒一人ひとり、足どりが一定ではない。あっちこっちへふらふらする。

僕はチャイムに遅れちゃいけないと思い、「早く行こう」とせかした。そして、さりげなく「ほら」と言って、一人の女子生徒に手をさし出した。その子は足を引きずるようにしていたし、顔立ちもかなり幼かった。僕が手を引くほうが移動の助けになると思ったのだ。

でも、その子は、「いやっ!」と言って僕がさし出した手を払いのけた。僕はちょっと驚いたと同時に、「しまった…!」と思った。

あまりに軽率すぎた(今でも自分の愚かさにむっとする)。どれだけ幼な顔だとはいえ、相手は女子高生。僕がその日教室にやって来ただけでも違和感があるはずなのに、その男性に手を差し出されたら警戒するのは当然だろう。悪意すら感じたかもしれない。

僕は、無意識に、その子を高校生ではなく、まだ小さな子どもとしてしか見ていなかったことになる。「この子はハンディを負った子。手を引くくらいは必要な介助だろう」との、浅はかな思いやりしか持てていなかった。

始業のチャイムに遅れないことより、よっぽど大事なことがあるのに、そのことに気づかなかった僕は、間違いなく愚か者であった。

善意にまぎれた差別の心が自分にもあることに気づいた。1日目は、そんな猛反省とともに「体験」を終えた。



静かに熱い運動会


2日目はもう「体験」最終日。その日は運動会だった。その運動会は、静かに熱かった。

歓声や大きな声が響きわたると、いつもの調子が狂い、心に動揺をきたす生徒もいる。だから、大人たちはボリュームに注意していた。そして生徒たちは、リレーや応援合戦など、とにかく懸命だった。

競技をやる方も、見守る方も、仕切る方も、みんな静かな火を燃やしていた。「体験者」でしかない僕ができることは、道具出しを手伝うかたわら、この場にいるみんなを観察することくらいだった。

保護者や教員たちの目には光るものがあった。僕は2日間の学校生活に付きそっただけだけど、そうした大人たちの紅い目は、率直に言って「頼もしい」と思った。生徒たちを、どでかい愛が包みこむようだった。

運動会が終わって、数人の生徒を下足箱のところまで送って行った。たまたまだったが、その中には僕が1日目に猛省した一件の女子生徒もいた。僕は正面からあやまった。「昨日は本当にごめんなさい。すみませんでした」。

その子はほんのわずかに笑みをうかべ、下校した。



安っぽい同情と愛のかたち


僕の姉は統合失調症(旧名は精神分裂病)とかれこれ25年近く付き合っている。ちんぷんかんぷんのひとり言、被害妄想、幻聴……。

姉と長く接してきた僕には、「ハンディを負った人の苦しみなんてよくわかってるし、差別なんて絶対しない」とのおごりがあった。

だが特別支援学校での「体験」中、自分のおごりに直面せざるをえなくなった。差別のあり方、そして愛のかたちには、あまたのバリエーションがある。自分の過去の経験や価値観だけに浸ってるうちはガキだ……。そう思いつつ、過去の経験の象徴として忘れられずにいた、隣家の屋根に乗っかる教科書のシーンを想起したのだった。

先日のある晩、井の頭線(東京の私鉄)に乗って渋谷から吉祥寺へ向かっていた。発車を待っていると、両手に6つほど紙袋をさげた40代とおぼしきおじさんが、車両に乗りこんできた。ぶつぶつ意味不明のひとり言を発している。両腕は、なぜか青い絵の具で塗りたくられていた。

その人の近くからはさーっと人が引いた。そりゃあんまりだと思ったけど、乗客が本能的に警戒する気持ちもわかる。くしくも、2016年、相模原の障がい者施設で戦後最悪の殺傷事件が起きたばかりの時分であった。

「あーーーっ! みんな離れていったぁ!!!」 座席についた彼はつんざく声で言った。

たまたま僕は、通路をはさんでその人の真向かいに座っていた。終点の吉祥寺まで、彼と時たま目を合わせながら向かい合って座りつづけることしか、僕にはできなかった。そうすることが最低限の礼節だろう。なんでか、そう思った。

「どんな人も平等です。差別はいけません。障害をおった人には手をさしのべなさい」。先生の「うしろめたさ」を見すかすことに長けた生徒に、そんな説教はカラ念仏でしかないのだろう。

たぶん、先生の説教が終わったとたん、休み時間には「シンショー(身体障害者への差別語)!」や「死ね!」とのフレーズが、日本中の教室やLINEで、いつもどおり無邪気なまま飛びかう。

9月に始まる2学期、そんな生徒たちに、僕はどう向き合えばいいのだろう。戦後最悪の相模原の事件は他人ごとではないだけに、今からそのことで頭が重い。

「私にかぎって差別はしない」という思い上がりのさもしさ、安っぽい同情の危うさ、さまざまな愛のかたち。そして「みんな離れていったぁ!!!」とき、誰だってぽつねんとおちいる寂しさ。

ちっぽけな人生だけれど、姉のこと、「介護等体験」のこと、日常起きたことなど自分のすべてをあけっぴろげ、がっぷり四つ生徒に向かわないかぎり、彼らに何かが響くことはない。そのことだけは覚悟している。

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