第9話 彼女がどうしても家に帰りたい理由
多くの高校生のホンネでは、勉強と部活の重要度はそう変わらないのかもしれない。保護者や教師からすれば、勉強に身を入れてこその部活だ、学業こそ生徒の本分だ、との意見で一致するだろうけれど。
子どもは、そんな「大人の論理」そっちのけ。放課後や週末の予定は部活一色、との生徒は多い。これこそ、日本の教師が多忙であることの大きな原因なのだけど、部活という制度に罪はあっても、子どもに罪はない。
今日は、そんな部活に思いをはせ、駆け、学校に舞い戻ってきた、一人の女子生徒のお話。
先生、家に帰りたいんです!
去年の今ごろ、寒さが深まりつつあった2学期後半のある日。僕は、担任をしていた高校1年のクラスで、いつもどおり朝のホームルームを行なった。
秋から冬に移りゆくシーズンは、疲れがどっと襲ってくる時期。授業準備や校務はもちろん、顧問をつとめる野球部の活動が春・夏からつづき、2学期の週末はほぼ丸つぶれ。12月に入らないとオフシーズンはこないし……。
そんな教師の辛さなどつゆ知らず、クラスの男子生徒はその日も教壇付近にあつまり、スマホのゲームに興じていた。無言で横一列に座りこみ、ふだん見せない集中力をここぞとばかり見せる。
その日、ヘバっていて虫の居どころが悪かった僕は、いつもと同じ朝の光景にイラついていた。そして、「さっさと席に戻れ〜!」と強めの口調で彼らを追い立てた。ホームルームが始まってからも、何人かが机の下でスマホをいじっている。
いつもなら、「スマホ代を払ってくれてる母ちゃんが泣くぞ!」などと、ユーモアまじりに諭すのが常。けど、その日は「早くしまえ!」と単に怒鳴るだけだった。ぷんぷんしながらホームルームを終えて教室を出たところ、一人の女子生徒がそーっと寄ってきた。彼女は周囲を気にしながら、廊下のはしに僕を寄せた。
「先生、家に帰りたいんです! ちゃんと戻ってきますから! お願いです!」 息つぎなしにこう訴えた彼女の顔は青白く、涙目だった。
かわいそうだけれど、しかたない
聴けば、今日は部活内のオーディションが放課後にあるという。彼女はソングリーディング部に入っている。この部活は、いわゆるチアリーディングを洗練された競技としたものだ。その大会に参加する選手を決める、大事な部内オーディションだという。
それにはフル装備で出ないといけない。ユニフォームはもちろん、髪につけるリボンやメイクまで。ところが、そのリボンを家に忘れてきたらしい。保護者は出勤していて家には誰もいない。
彼女はその競技を高校に入ってはじめた。新入生歓迎会での先輩の演技に「
あてられた」彼女は、4月、「先生、私まったく初心者で運動オンチだけど、やりたいの!」と元気に言った。
部に入ってからは、上がらない足を上げられるようになるのに、とにかく苦労していた。もう一人の友達と、放課後に涙するシーンに遭遇したこともある。1学期からの地道な努力は、担任の僕もよくわかっていた。
とは言っても、あくまで「課外活動」である部活を理由に、授業を抜けさせていいものか……。彼女の家は遠いし、往復すれば午前の授業はすべて終わってしまうだろう。
僕は、やっぱり帰宅させるのはダメだと思った。
「残念だけど、それは無理だよ。部活は、授業をしっかり受けてこそだし。リボンはほかの部員に借りるとかして、対処できないの? とにかく、もう1限がはじまるから教室に戻って」
僕は彼女を教室に入れ、ふりかえることなく職員室に去った。かわいそうだけど、この判断はまちがってないと思った。
そんな判断をするために教師になったんじゃない!
オレの判断はまちがってない。1限がはじまるチャイムを背に、授業のなかった僕は、職員室でもう一度そうふりかえった。判断はまちがっちゃいない。けど……
つまらない。
正しくてつまらない判断だけをするために、脱サラして教師になったんじゃないよな……。朝から破れかぶれ気味だった僕は、ものの5分も経たない間に、そう思い直したのだった。
しかも、「帰宅するのはダメ」という判断は、疲れと怒りとイライラに満ちた僕のメンタルに影響されたかもしれない。うーむ、だとすると、オレはくそガキ教師だ。
そう思いつつ、授業が行なわれている1年の階に走った。
*
ここで新米教師が独善に走るのはマズい。僕は、ぶしつけを承知ながら、ベテラン学年主任が数学の授業を行っているクラスの扉をたたき、「先生、ちょっと……」と主任を呼び出した。
リボンの事情を話して僕の心変わりを告白し、女子生徒をいったん家に帰す許可を彼に求めた。ベテランの主任とペーペー世界史教師の僕は、理系・文系の学問観について意見がこれっぽっちも合わず、それまで衝突することもしばしばあった。
そういった「因縁」もあったから、主任がOKしてくれるか心配だったのだけど、彼はにっこり笑ってくれた。
「林ちゃん〔僕のあだ名!〕、賛成。学校は例外ばかりじゃ成り立たないし、杓子定規はとっても重要。これは確かだよ。けど、定規ばかり見てると生徒が見えなくなるのも事実だし。何ごともあんばいが大事だよね。あせって事故に合わないよう、その子にかならず伝えてよ」
エッジの利いた主任の言葉に僕はグッときた。
彼女の背中を見送りながら
授業の途中で呼び出してしまったことを学年主任にわび、僕は廊下をしずかに走った。そして自分のクラスに着いて彼女を呼び出した。これまた、古典の授業中の先生にお詫びしながら。
「必要なものだけ持って、今すぐ帰ってよし。そんで、ぜったい無事に帰って来い。焦ったり急いだりしないでいいから。学校着いたら、職員室まで報告しに来いよ〜!」
彼女は、戸惑うようにうなずいた。そして自分の机から財布と定期入れをとり、授業中の先生へ僕と一緒に一礼をして、教室をあとにした。階段を下りる彼女の背中を見送りながら、僕は学年主任の言葉を思いかえした。
定規ばかり見てると生徒が見えなくなる……。
日ごろ衝突している先輩教師に、きれいに一本とられた僕は、深く反省した。疲れと怒りとイライラにかまけての、杓子定規。おそまつな中年新米教師のふるまいだった。
*
4限が終わったあとの昼休み。職員室に、彼女が笑顔でやってきた。
「先生、戻りました! ぶじです!」
僕はホッとした。そして気づいた。
「おい、そのリボンて……(笑)」
「はい。なくしたりするといけないので、髪につけてきたんです!」
ポニーテールの髪が鮮やかなブルーのリボンに結わかていた。それを見て大笑いした僕は、なんだか、杓子定規の判断の誤りが証明されたように思えた。そして、明日のホームルームで生徒とどう接するかじっくり考えようと思った。
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