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バレンタインなので、女性に捧げる歌 -Julien Clerc, « Femmes… je vous aime »


いよいよ来週はバレンタイン。
ちなみに僕はかかりつけの女医さんから、「バレンタインにチョコレートをもらっても、食べてはいけません」と言われています。

でもせっかくだから、バレンタインには女性への賛歌を聞きたいと思います。

ジョン・レノン

女の人全般に捧げられた歌ならば、ジョン・レノンの « Woman »をすぐに思い出すことができるでしょう。
僕は君に永遠の恩debtがある」と、軽やかなメロディーとともに素直に告白しているところが可愛いし、軟弱だと言えば言えます。


長渕剛

あるいは長渕剛の『女よ、GOMEN』。
ジョン・レノンの大和男児バージョンが、長渕さんのこの曲でしょう。
百年たっても、千年たっても、おいら、おまえに謝りっぱなしさ」と、「永遠の恩」を返せないことを謝罪しておいでです。
ふつうの会話では恥ずかしくて言えないことを、ギターにのせて歌ってしまっている感じです。
もちろん優しいあなたは、「ギターやお酒の力を借りなくては言えないなんて、それってどうよ」とか、「謝罪しなければいけないことなら、最初からしなさんな」などとおっしゃらないはず。


ジュリアン・クレルク

ジュリアン・クレルクのシャンソン、 « Femmes, je vous aime »(愛する女たちへ)はちょと傾向が違います。女「たち」、つまり複数形なのですね。
でも上手いなと感心するのは、いろいろな女性たちを登場させるのではなく、女性というもののいろいろな側面を描写している点です。「甘く優しいdoucesとき」「激しく厳しいduresとき」「おかしくて可愛いdrôlesとき」「ひとりきり孤独なseulesとき」。

また女性を神格化していないのも、正直で良いと思います。
たしかに、男にとって、必ずしも常にではありませんが、ときに女性は「苛立ちimpatience」、そして「苦痛souffrance」の対象でもあります。
実際、男の人は女の人のことがよくわかりません。
わかろうと思っても、わからない。そんな男の困惑をジュリアン・クレルクは正直に言葉にしています。まったくもって「むずかしいdifficiles」のです。

前半部分を訳してみましょう。

Quelquefois si douces
(ときにとても甘く優しい)

Quand la vie me touche
(人生が僕に触れるとき)
Comme nous tous

(わたしたちみんな同じ)
Alors si douces

(そう、とても優しい)

Quelquefois si dures
(ときにとても激しく厳しい)

Que chaque blessure
(あらゆる傷のいたみ)
Longtemps me dure

(それらが長く続くように)

Femmes, Je vous aime
(女たちよ、僕はあなたがたが愛おしい)
Je n'en connais pas de faciles
(かんたんな女なんかいない)
Je n'en connais que de fragiles

(傷つきやすい女しかいない)
Et difficiles

(そしてむずかしい女しかいない)
Oui, difficiles

(そう、むずかしい)


気づいたこと

それでも男が女性全般に捧げたバラードはあるのに、なぜ女が男性全般に捧げたバラードはないのかしらん?

以前、A女子短大に勤めていたとき、女性学の教師が女子学生に「女性の立場」だけを考えさせているのに、僕は違和感を抱きました。

西洋史の教師である僕は、こう考えます。
日本人だからといって、日本史だけ学んでいても、日本は分からない。日本を分かるためにこそ、西洋史を学んで、比較検討する必要がある、と。
これをジェンダーに応用すれば、次のように言えるはずです。女性だからといって、女性だけを学んでいても、女性は分からない。女性を分かるためにこそ、男を学んで、比較検討する必要がある。

だから女からの男性賛歌があってもいいはず。
「空のもう半分を支える男たちのために歌うわ」とか。
「百年たっても、千年たっても、鶴は機を織り続けます」とか。
「ときにとても冷酷。そう、慈悲のかけらもなく。そのくせ甘えてくる。男たちよ、アタシはあなたがたがかわいそう」とか。


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