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BSフジプライムニュースで小池晃さんを観ての雑駁な感想


ないものねだり

3月20日のBSフジプライムニュースで日本共産党の小池晃さんと、保守主義者の先崎彰容さんが出演していた。

あえて〈ないものねだり〉をすれば、もっとアイデンティティ政治についての議論をしてほしかった。

というのも、僕が最近、考えていることのひとつに、自分で自分を弱者だとみなすアイデンティティがあるからだ。「自分はブスだから」「自分はビンボーだから」「自分はバカだから」「自分はXX染色体の持ち主だから」「自分は植民地化されてきた中国人だから」「自分は冷戦で敗北したロシア人だから」「自分は迫害されてきたユダヤ人だから」…。畢竟、自分を自分で弱者だと規定して、何らかの要求を掲げる。
なんじゃらほい。

19世紀に問題だった偏見

19世紀に問題だったのは偏見だった。
実は強者で、実は国家を支えていた労働者が、〈弱者〉であるとみなされて、差別され搾取されていた。

だから労働者たちは、太くたくましく強い腕をシンボルに、実力行使に出て、革命を達成した。
自分たちがほんとうは〈弱者〉でないことを、明らかにしてみせた。
たしかに偏見は、共同体の指針を適切に決定するための誤情報(ノイズ)であるから、だからこそ修正されるべきであった。かくして正義がなされた。

21世紀の課題

しかし21世紀、凡庸な人々は、偏見としての〈弱者〉と、実力としての弱者とを混同しはじめた。

偏見は修正されなければならない。
しかし実力における弱者と強者とは現実問題として区別され、社会のなかで違った役割を担うべきだ。たとえ同じ人権を享受するとしても。

「弱者を救え!」という叫び声がもちろん道徳的に善であるとしても、実力不足の弱者では革命の主体になりえない。
無力な弱者を救う優しい政治は、革命の動機にはなるかもしれないが、それだけでは革命の最終的勝利を決定づけることはない。
むしろ優しい政治は新しい権威主義を生み出すだけかもしれない。「えっへん。俺様が、天皇に代わって、おまえら弱者をまもってあげる」みたいな。(僕のかつての勤め先であるA女子短大にはこの種の権威主義者が沢山いた。)

まさに日本共産党に頑張ってもらいたいのは、革命の主体となりうる強者を育成することである。
こんにちの日本の教育体制(ビジネスマインドの浸透と縁故主義の拡大再生産が顕著な体制)からでは、革命的エリートは生まれ得ない。

日本の世界史的位置

他方、先崎さんはエドモンド・バークに近い保守主義者である。

ただ僕は日本の村八分的な慣習や、議論を忌避する「和をもって貴しとなす」文化のせいで、かなり嫌な思いをしてきた人間だから、昔ながらの日本に特別な愛着もない。
それに歴史の連続性の強調よりは、人間の工夫で歴史の流れを変革することに興味がある。

とはいえもしも僕が日本に知的興味を抱くとしたら、日露戦争、真珠湾、ヒロシマ・ナガサキがあるがゆえだろう。それらはたしかに世界史的大事件であった。なぜならそこには世界への展望があった。ただその場合の展望とは、西洋に抵抗する非西洋という、みじめったらしい反抗期の思想にほかならなかった。もっとポジティブに普遍性のある原理を展開できなければ、ダメなんじゃなかろうか。

そしてそれが展開できないのなら、やはり西洋発の自由平等友愛に服従するのは間違えていることではないだろう。よりよいものを提示できないくせに、服従するのは嫌だなどと言うのは、僕に言わせれば「中二病」なのである。プライドだけ高くて何も実行できない「こども」なのである。


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