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発見なき自分探し


自分探し

noteを読んでいると、自分探しをおこなっている方々にめぐりあうことがあります。

彼らには、既に結論があります。
「現在、自分は幸せだ(あるいは、不幸だ)」と。
次いで彼らはその原因を過去に求めます。
そして例えば、親、病気、事故、社会、時代、教育、恋愛など、原因を特定するのです。
そして幸せなひとはその原因に感謝し、不幸なひとはその原因を呪います。
この思考様式の特徴は、現在が過去を決定するという点です。

そこには「過去の自分が現在の自分を見たら、どう思うだろう」という問題設定はありません。つまり過去が現在を評価する視点は欠如しているのです。
あるいは「現在の自分の原因が過去の特定のなにかだとしても、その過去の特定のなにかの原因は何なのだろう」という問題設定も見られません。

僕は自分探しに興味がない

僕は自分探しには興味がありません。
「自分はどこから来て、どこへ行くのか」、そんなこと、どうだっていいじゃんと思うのです。

おそらく理由のひとつは、僕が日本史ではなくて、西洋史を専攻して研究活動を続けてきたからだと思います。
西洋史、それも専門はフランス革命です。

要するに、さほど自分(=日本)とは関係のない国の歴史を、夢中になって研究してきました。
だって日本なんて小さな島国、あってもなくても、大勢に影響ないじゃあないですか―。少なくとも専攻を決めた大学生の頃、僕はそう考えていました。(いまでもその頃の見解を全面的に否定してはいなかったりします。)

他方、フランス革命は世界に影響を及ぼした一大事件です。
世界の人々に役に立つ研究をするためには、フランス革命を勉強したほうがずっと良いに決まっている―。大学生の頃、そう思った次第です。(もしかしたら未だにちょっとはそう思い続けているかもしれません。)

つまり自分への関心よりも、他人への関心の方が高かった。

さらに僕が研究を始めた頃、フランス革命は抜本的に再考を迫られていました。
その原因はどこにあるのか。フランス国内なのか。国外なのか。
そもそも原因の探求に意味はあるのか。革命の原因よりも、革命のプロセスの方が大事ではないのか。
あるいは、原因の探求よりも、結果の探求の方が大事なのでは。いったい革命の結果、どれだけの人間が死に、経済はどれだけ混迷したのか。

そんななか、僕自身は「革命のさなかに生きた人々の立場になってみる」という視点をとることにしました。そして実際に革命下に生きていた人々が革命の原因をどこに見出し、革命の結果をどのように夢見ていたのか、それを探ったのでした。

そしてそんな彼らがタイムマシンに乗って現代の日本に来てみたら、何に気づくだろうかと。そんな思考実験の方が、「発見」があって良いのではないかと。

自己言及にサヨナラ

「自分は被害者なんだ」、そんなネガティブな自己言及(主観)にサヨナラしてみませんか。

例えば僕は、自分で自分をバカだと思い込んでいる学生をたくさん見てきました。
僕が彼らを「間違えている」と判断したのは、彼らが勉強をしない口実としてその自己認識を乱用していたからです。

生徒「どうせアタシはバカだから。」
僕「はあ。それで?」
生徒「だから勉強しても意味がない。」
僕「ふうん。でもそれなら何故、学校にいるの?」

そこで対話はストップします。
学校は「勉強をする場」です。
勉強をしないなら、学校にいる必要はない。

学校で大事なのは、バカか否かではなく、勉強するか否かのはず。
社会で大事なのは、バカか否かではなく、行動するか否かのはず。
行動することが大事なのであって、理由も目的も条件も、主題ではない。
ところがバカはそこがわからない。理由や目的や条件にこだわって、動かない。

動くためには、澱んで硬くなった脳を再活性化する必要があります。
そのための起爆剤として、過去の異国からの来訪者による「発見」が活かされたら、と思います。

答えが最初からわかっている自分探し、「自分はブスでビンボーでバカだから」、そんなつまらない言い訳、どこにでもある、ありきたりの被害者意識、そんなものに拘泥しているから、行動できないんじゃあないかな。
そんなんじゃあ、自分の頭の中で描けるサイズの魚しか捕まえられないんじゃないかな。
生きるって、そんなにちっぽけでつまらないことなのかな。


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