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まずはビールじゃなくて、まずは近代化を


相互フォローさせていただいている方から、西願、おぬしが望む革命とはいったい何なのだ、みたいな質問を受けたので、お答えします。

未完の近代化

非常に平凡で、面白味も独自性もないお答えでたいへん申し訳ないのですが、僕が望むのは、とりあえずまずは近代市民革命です。即ち近代化です。民主主義であり共和政です。そして社会における個人の人権の確立です。
ですから極めてありきたりで地味な話になります。

思えば明治の御代から日本人は近代化を試みてきました。
そして制度上は憲法や国会をつくりました。
しかし例えば「議論を大事にする政治文化」が定着したとは思えません。
ムラ意識とか、同調圧力とか、「空気を読む」とか、前近代の残滓は健在です。コロナ禍のときの「自粛警察」などはその典型例でありましょう。日本人個人は、「自我」は肥大化しても、「市民」としての意識が確立していないのです。

21世紀のリベラルさんたちの方法

21世紀のリベラルさんたちは「弱者」の特殊利益を追求するために、むしろ保守派的な方法を用いて、僕が理想とする「近代市民社会」を破壊しました。

そもそも「近代市民社会」とは、もはや「貴族」も「平民」もいない、みんな一緒の「市民」なのだから、その市民たちが冷静に話し合って物事を決めていくのが大事だという、その意味で、みんなをまとめていく概念でした。

問題は、21世紀のリベラルさんたちが、染色体、肌の色、生まれた所などに基づくアイデンティティという、言わば妥協不可能な判断基準でもって「弱者」を定義づけた点です。
その結果、弱者/強者の争いはどこまでも過激化し、社会そのものが分断され破壊されるに至ったのです。

実際「弱者」の特殊利益を獲得するために、リベラルさんたちは「ムラ意識」に基づく「魔女狩り」といった前近代的方法(本来ならば保守派の十八番)を用いました。タレントの松本人志氏に対するフェミニストのバッシングなどはその一例でありましょう。
それは他者を社会から排除する(=死刑にする)極めて暴力的な方法でした。人権を尊重する方法とは正反対の方法でした。日本共産党による松竹伸幸氏の除名もまた同様の例でありましょう。

僕の居る場所

おそらく、みなさんそれぞれ居らっしゃる場所が違うから、見えてくる物も違うのでしょうが、僕の居る場所、すなわち教育とか研究の世界から見てみると、21世紀は残念ながら短絡的で凶暴なリベラルさんたちが大手を振って元気よく表通りを闊歩し、乱暴を繰り返しているように見えます。

例えば僕が奉職していた某短大の教授会で、こんなことがありました。
あるとき、執行部がある提案をしました。
西願が言いました、「これ、反対です」。
僕が立ち上がって、反対理由を唱えようとすると、ある方が
「あ~ん。もういやんなっちゃう。会議がまた長引くぅ。なあにひとりで反対しているのかしら」とヤジをお飛ばしになられました。
べつに「長引く」と言っても、僕ひとりの反対で長引くのは5分程度です。
なによりも僕が驚いたのは、その方がアメリカ史を専門とするフェミニストであらせられた点です。
だってアメリカと言えば、戯曲「十二人の怒れる男たち」で有名な民主主義の国です。たったひとりの異論にも耳を傾ける議論の文化が存在する(存在していた?)国です。
にもかかわらず、このヤジです。
僕は驚いて思わず、その方の目を見てしまいました。そうしたらその方は目を伏せ、お黙りになられました。
それからしばらくして、その方は某四年制大学に栄転なされました。以降、お噂は聞いていません。いずれにせよ会議というものの民主的原理を破壊しようとしたフェミニストの教師が、若者にどのような「社会科」を教えることができるのでしょうか。女性に優しく、非民主的な社会をつくる方法でしょうか。

むすび

それゆえ僕は、近代市民社会の価値観を共有できないリベラルさんたちへの批判をやめないのです。少なくとも僕の目から見る限り、彼らの存在は大きく、見て見ぬふりをしてもよいと思えるレベルの少数派ではないのです。
彼らが若者に影響を与えうる立場にいるからこそ、僕は彼らの方法を批判しないわけにはいきません(もちろん彼らの言動への「批判」は、彼らの人格の「排除」を意味しません)。

男女平等の理念は大事です。しかしその理念の名のもとに、近代市民社会の基盤を破壊してはいけません。

冒頭にも申し上げたとおり、僕は、華やかな、かっこいいことは言えません。
でもふつうに、おだやかにしなやかに、まずは近代の価値観である自由平等友愛を大事にしたい、ただそれだけです。

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