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義務感、使命感を、もういちど



使命感→解放感→欲望の肯定

19世紀末から20世紀前半にかけて西洋世界では、「あれもしなければ、これもしなければ」と、義務感、使命感が唱導された。だから植民地政策も「文明化の使命」の名のもとにおこなわれた。近代工業化社会の発展のもと、支配領域は拡大し、使命感は勝利したかに見えた。
 
しかし20世紀後半になると、支配領域の拡大が人権の拡大を促した。まさに「歴史の狡智」とでも呼ぼうか。
かくして黒人だって、女性だって、白人男性のように政治に参加できる!といった、「あれもできる、これもできる」という解放感が生まれた。
 
それが「あれもしたい、これもしたい」という欲望に火をつけた。
 

逆コース)禁欲→無力感→生からの逃避

しかし21世紀前半、「あれもしてはいけない、これもしてはいけない」という禁欲の思想がひろまった。典型的なのはリベラルによる「コンプライアンス独裁」「ポリティカル・コレクトネス絶対主義」「ハラスメント狩り」だろう。それは資本主義のグローバル化への対応として現れたが、個人の好悪の感性を重視したために、矛盾をはらむ暴力的なものになった。
 
大転換だった。
以後、人間同士の相互扶助関係(迷惑のかけあい)は消失した。
個人はシステムによって直接支配されるようになった。
もちろんSNSなどの技術革新がその傾向を助長した。
近代工業化社会から生まれた自由と平等が、個人の孤立感、不安感、犠牲者意識を肥大化させた結果だった。そこから陰謀論も成長した。
 
さらに禁止事項の拡大は当然のことながら「あれもできない、これもできない」という無力感や閉塞感を生んだ。
自分の無力を認めることができない人間は「あれもしたくない、これもしたくない」とひきこもるようになった。

リベラルの責任

リベラルの「現在の社会をより良い社会にしたい」という善意が裏目に出ていることを、リベラルは猛省すべきだろう。
おそらく人権(政治文化)に由来する自由平等と、工業化(社会経済)に由来する自由平等を、分けて考えることができていないのが問題である。
 
リベラルによる「ハラスメント狩り」の結果、「みんなが楽しく活躍できる社会」など到来しなかった。
「ハラスメント狩り」の結果、「みんなばらばらに、逃げるようにして独居に閉じこもるシステム」が大きくなっただけだった。
リベラルは、悪を排除することだけに専心して、悪を飲み込んで消化することについてじゅうぶん考えなかった。
結局、現在、満足しているのは、人間性を捨て去ってシステムの歯車になった連中だけである。
 
もしももういちど人間らしさを取り戻したいのなら、ふたたび「あれもしなければ、これもしなければ」と使命感を唱導するところから始めなければならないのだろう。
 

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