見出し画像

カロリーヌ・フレスト著『「傷つきました」戦争-超過敏世代のデスロード』を読んで


差別問題、異文化交流、ポストコロニアリズムに興味関心のあるひとのために。

右翼を利する左翼の功罪

カロリーヌ・フレスト著『「傷つきました」戦争-超過敏世代のデスロード』堀茂樹訳(中央公論新社、2023年)を読んだ。
著者はフランスの女性ジャーナリストだ。

著者によれば、左翼に起源を持つ「犠牲者至上主義」、「アイデンティティ政治」、「ポリティカル・コレクトネス」が、若者たちの「傷つくこと」を過度におびえる性向によって助長され、SNSの進歩によって過激化して、ついには人類の知性と文化を破壊するに至った。
他者と混じり合い、他者を理解することの素晴らしさが、忘れ去られた。
結果として、過去を賛美する、保守反動の右翼が力をつけた。
著者はそんな現代社会を普遍主義の立場から批判している。

日本ではしばしば左翼のポリティカル・コレクトネスは、「表現の自由」との関係で語られる。
しかし本書が警鐘を鳴らすのは、左翼による言葉狩りの結果としての、右翼の台頭である。

大学の罪

こんにち、大学はアイデンティティ政治のイデオローグの巣窟になってしまったと、著者は嘆く。

実際、著者がアメリカのある大学で、フランスの公立学校における宗教的しるし(例えばイスラムのヴェール)の着用禁止に関して講演をおこなったさい、アイデンティティ政治に感化された女子学生が、深く傷ついた様子で、著者を叱責したそうである。

「あなたがヴェールについて話すのはおかしい。ヴェールはイスラム文化の象徴で、あなたは白人のフェミニストでしょ。」
白人がイスラム文化について語るのは間違えているというわけだ。

これに対して著者ははっきりと反論した。
まずはイスラム教徒の中にも、ヴェールの着用を嫌がっている女性がたくさんいることを、アルジェリアやイランの女性たちの例から明らかにした。
そしてもしもヴェールの着用をイスラム文化すべての象徴とみなして、ヴェールの着用を支持すれば、その結果、イスラム世界の右翼を利することになる。
ところで、女性の権利に関するこれほどまでに政治的なテーマを語る権利は、みんなにあるはずだ。
自分はフェミニストの立場からヴェールを着用しない自由を唱えたい―。

多様性の承認から発生する「禁止」

「他者の文化を尊重しましょう」と、多様性を重視する大学の先生はおっしゃる。
しかし、著者によれば、こんにちではその政治的に正しい方向性が、他文化との混合・交換・借用を「禁止」するほどまでに過激化した結果、「自己隔離」という現象が生じるに至った。

実際、著者は、カナダにおけるヨガの禁止(ヨガはインドのものだから、インドの文化を尊重して、白人はヨガをすべきではないという主張)、アメリカの大学の学生食堂におけるベトナム料理の廃止(ベトナム人以外の者が変更を加えたレシピは本物のベトナム料理とは言えないから、ベトナムの文化を尊重して、メニューに上げるべきではないという主張)といった事例を次々と挙げる。

かくして白人は他文化に接することをせず、つねに自分と同じ文化の人々とのみ暮らす、小さな世界に閉じこもるようになる。
まさにその小さな世界に訴えかけて、その票をかっさらったのが、トランプのような差別主義者だったわけだ。

そうなるまえに、「禁止することを禁止する」べきではなかったか。

人種差別問題へのふたつのアプローチ

たしかに「人種差別(レイシズム)」は問題だが、どのようなアプローチでこれを批判すべきだろうかと、著者は問う。
著者の立場は、アイデンティティの本質化(個人をなんらかの属性に還元すること)に抵抗して自由を求め、普遍性の名において平等を求めるものである。
他方、現在興隆を極めているアイデンティティ政治は、アイデンティティの名において特別待遇を、すなわち多様性の承認を、求める。

しかし多様性の承認は、右翼によって右翼の古いアイデンティティを認めさせる口実となり、さらには不平等を管理・隠蔽するための装置として利用されてしまっている。まさにこの点を著者は告発するのだ。

選ぶのはあなた

私見によれば、畢竟、傷つき傷つけられることなく、他者と混じり合うなんて不可能だ。
傷つき傷つけられることを予見しながら異文化理解をすすめるか、
それとも傷つき傷つけられたくないからと排外主義の道にすすむか。
選ぶのはあなただ。

日本の大学のリベラルな先生方にも、是非、反省してほしい。
発意が善でも、結果が悪ならば、無意味なのだから。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?