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差別を超えて -ファノン

日本のリベラルさんたちに、
性差別など様々な差別問題に関心のあるひとたちに、
植民地問題や日韓歴史認識問題に関心のあるひとたちに、
紹介します。

およそ60年前に書かれた、フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』からの引用です。


ファノンの言葉

「黒人であるこの私は、私の人種の過去に対する罪責感が白人のうちに結晶化することを願う権利を持たない。
黒人であるこの私は、旧主人の誇りを踏みにじる方法に頭を悩ます権利を持たない。
私は飼いならされた私の祖先たちのために償いを要求する権利も義務も持たない。
ニグロの使命はない。白人の重荷はない。(中略)
今日の白人に17世紀の奴隷商人どもの責任をとることを要求しようとするのだろうか。
あらゆる手段を尽くして白人のうちに〈罪責感〉を植え付けようとするのだろうか。(中略)
私は私の父祖を非人間化した〈奴隷制〉の奴隷ではない。(中略)
黒人であるこの私の欲することはただひとつ。
道具に人間を支配させてはならぬこと。人間による人間の、つまり他者による私の奴隷化が永久に止むこと。彼がどこにいようが、人間を発見し人間を求めることがこの私に許されるべきこと。
ニグロは存在しない。白人も同様に存在しない。
黒人も白人も、原本的なコミュニケーションが生まれ出ずるために、彼ら双方の父祖たちのものであった非人間的な声を振り捨てなければならない。」


被害者意識の否定

ファノンは、黒人が被害者意識を持つこと、そして黒人が白人に罪責感を抱かせること、そのどちらも否定しています。

何故でしょうか。
おそらく、被害者意識も罪責感も、人間の行動を萎縮させる要因にしかなりえないからです。

ところで、最近は、被害者の立場から、加害者に謝罪を求めること、つまり加害者に罪責感や反省の念を課そうとするひとたちが目立ちます。

しかし、もしも人間性を疎外する構造に対して、他者と連帯して共闘することを重視なさるならば、つまり行動を重視なさるならば、被害者意識・加害者意識という認識の枠組みを超克すべきでは?


時間をどのように捉えるか

さて、
また極めて興味深いことに、ファノンは17世紀の奴隷商人に対する訴追を否定しています。


時間というのはおもしろいもので、時間が経つにつれて、憎悪が減少する場合もありますが、憎悪が増加する場合もあります。
時間が経つにつれて、当事者には分からなかったことが分かるようになることもありますが、当事者があたりまえに知っていたことが忘れ去られることもあります。
時間が経つにつれて、ひとは階段を上るように進歩するだけでなく、3歩進んで2歩下がったり、ときには3歩進んで30歩下がったりすることもあります。

21世紀に、15世紀に活躍したコロンブスの像を破壊するひと、
21世紀に、16世紀の秀吉の朝鮮出兵を非難するひと、
そして20世紀に、自分は17世紀の奴隷商人の責任を追及しないと断言したファノン。

はてさて、何が正解なのでしょうか?
みなさん、いろいろです。
時間の経過とともに、何が変わったのか、何が変わらなかったのか、いろいろと考えさせられます。


ファノンにかえる

最後にファノンの略歴を紹介しておきましょう。
1925年にフランス領マルチニック島で、黒い皮膚で誕生。第2次世界大戦中は対ナチス抵抗運動に参加。戦後はフランス本国に学び、精神医学を専攻し学位を取得。白い皮膚のフランス人と結婚。アルジェリア独立戦争が勃発すると、FLN(民族解放戦線)に参加。1961年、アメリカのワシントンDCで病死。

ファノンの思想を忘れることなく、彼の思想に、何を積み上げていくか、あるいはどのように応答していくか、考えていけたらいいなと思います。


『黒い皮膚・白い仮面』はセンチメンタルな共感を拒絶する本です。
けれども、というかだからこそ、私はファノンを尊敬します。

ファノンの偉大さを汚したくないので、私からはあまりコメントをつけたくなく、以上にします。あしからず。


参考文献
フランツ・ファノン著、海老坂武・加藤晴久訳『黒い皮膚・白い仮面』(みすず書房、2020年)。

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