見出し画像

「博士、とべません」


『Drスランプ』

鳥山明の訃報。
ニュースでアラレちゃんをひさびさに見て、当時を思い出し、幾つか腑に落ちたことがあった。

要するに80年代は無意味な時代だったのだ。

アラレちゃんはパロディで満ち溢れていた。
「梅ぼし食べて、スッパマン」「ゴジラとガメラで、ガッちゃん」

そもそもアラレちゃんが鉄腕アトムのパロディだった。
「博士、とべません…。わたしは翔べない女」

社会風刺など、高尚なものはまったくなかった。
ただただ圧倒的な、怒涛のパロディ。
ところでパロディとは差異の戯れだ。
子どもたちは無意味な戯れに夢中だったのだ。

先駆者は江口寿史の『すすめパイレーツ』だろうか。
あるいは鳥山明の同時代人として高橋留美子がいることを想起すれば、無意味な戯れの時代としての80年代というものが、より分かりやすく見えてくるだろう。たしかに『うる星やつら』も、半魚人から「階段に猫がおんねん」まで、パロディ満載だった。

意味がないことの普遍性

80年代にメインストリームとなって流行したのは、意味や主張がないものばかりだ。
別の言葉で言えば、意味や主張がないからこそ、ひろく大衆に受け入れられた。

例えばアイドルは政治的発言をしなかった。
売れるためにはそれこそが大事だった。
キティちゃんのように、しゃべるための口をなくして、「かわいい」のが大事なのであった。
実際「かわいい」が価値になったのも、80年代からだった。
それ以前は、「かわいい」は「幼児」を修飾する形容詞で、必ずしも価値ではなかった。「幼稚」「稚拙」「児戯」よりは、「老生」「老練」「洗練」が価値であった。
また、いま世界を席巻している「シティポップ」も、おそらくそれがクールなのは、フォークと違って、主張がないからだ。

80年代が意味を喪失した理由は、意味を持つことが意味なかったからである。
アメリカとソ連という二極化のもと、少なくとも日本は「安定」していた。危機管理に真剣になる必要はなかった。

メインストリームから〈はずれたもの〉

もちろん主流があれば、非主流がある。
「明るい」の反対に、「暗い」があるように。
例えば、尾崎豊は、愚直に意味を求めた。
他方、オタクは、無意味なもののなかに意味を探した。押井守監督の『うる星やつら2 ビュティフル・ドリーマー』はそのようなものであった。

爆発的に元気だった

意味がないのは、あんまり褒められたことではないかもしれない。
けれども元気で楽しく明るければ、別言すれば生命力を感じさせてくれるならば、肯定してもよいのではないかとも思う。

例えば数年前、学生と『摩天楼はバラ色に』(1987年)というアメリカのコメディ映画をテレビで観たことがある。
マイケル・J・フォックスが、大会社の中を元気に走り回って社長になる、サクセスストーリーである。
もちろん映画なのでリアリティはないのだけれども、元気に突っ走るマイケルをげらげら笑いながら見ていると、「べつにいいんじゃね」と思えた。
学生は観たあと「いいなあ、80年代」と言っていた。

「社長になんかなれるわけないじゃん」と愚痴る、悟り世代に比べれば、
「社長になるなんてめんどうくさい」と呟く、ゆとり世代に比べれば、
「他人と比較されて傷つきました」と泣く、病的な若者に比べれば、
無意味に、はしゃぐ生命力は悪いものではない。

そう言えば『摩天楼はバラ色に』を一緒に見た教え子とは、
『プリティ・ウーマン』(1990年)も見た。
これもリアリティのない話だけれど、だから「悪い」とは思わなかった。
笑えて、楽しくて、明るくて、勇気がもらえた。
売春婦が主人公なので、ポリティカル・コレクトネス的に、21世紀には「バツ」なのだろうが。「売春を美化している」とフェミニストからクレームが来るのは、火を見るより明らかだ。

いずれにせよ、時代は流れすぎるのではなく、積み重なる。
80年代の無意味な明るさを経験した国は、それを経験しなかった国のようにはもはやなれない。
その経験を活かすも殺すも、いま生きるひと次第である。

この記事が参加している募集

マンガ感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?