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歴史家=ジャーナリスト=政治家

書斎に閉じこもってはいけない

フランス近代史研究はギゾーやティエールという父を持つ。
だからこそフランス近代史研究者は、父にならい、ジャーナリストでなければならない。ジャーナリストとして現在を学ぶことで「現在と過去との対話」を実現するのだ。
そしてフランス近代史研究者は、これまた父にならい、「政治家」でなければならない。自らの研究が政治的意味合いを持つことに自覚的でなければならない。

現代社会から逃避してはダメなのだ。
研究史のアナを埋めているだけではダメなのだ。
「政治家」として、今日の社会に何が必要とされているのかを分かっていなければならない。

要するに、香港民主化デモ鎮圧の前と後で、コロナ感染の前と後で、ウクライナ戦争の前と後で、歴史の見方がまったく変わっていない歴史家はダメである。

リベラルさんは、自分で自分が何をしているか分かっていない

21世紀になって、フェミニストとポストコロニアリストが歴史学の世界に進出してきた。
彼らは「政治的」ではあるが、「政治」というものの本性について勉強不足である。

彼らの歴史学研究は二つの点で問題視されるべきである。
第1に、現在から過去を見る視点だけが強調され、過去から現在を見る視点が忘れられている。
現在の自分から過去の他人を批判するだけで、過去の他人から現在の自分を批判(相対化)してもらうおうとしていない。
例えば「むかしの女性だって、家族のために自己犠牲をした女性は、ちゃんとリスペクトされていた」などの伝統主義者の言葉に耳を傾けることで、「現在の女性」を捉え直すことをしようとしない。
その結果、フェミニストは伝統主義者と争うことになった。

しかしながらそもそも「政治」とは、諸価値観の調整(話し合い)をおこなって、対立をなくすことではないのか。

フェミニストは、自分がおしつけがましく傲慢で謙虚さに欠けるという印象を人々に与えていることに留意した方がよい。なぜならそれは「政治家」として、即ち諸価値観の調停者として、決して褒められた評判ではないから。

第2に、フェミニストもポストコロニアリストも、歴史の連続性を強調して、歴史の変化を見ようとしない。
例えば日本のポストコロニアリストは、フランスが18世紀からずっと普遍主義の名のもとにアジア・アフリカを蔑視してきたと唱える。つまり長期的連続を指摘する。
しかしこのような指摘は「これまで200年続いたものならば、これからもまた200年続くでしょう」という諦観をもたらすだけではないか。

しかしながらそもそも近代において重要な「政治」とは、現在をちょっとでも変えることではないのか。
それならば西洋VS非西洋という分断を固定化させてしまうような歴史観の提示は控えるべきではなかろうか。
その意味で連続性を強調するポストコロニアリストは「政治家」失格なのである。

フェミニストやポストコロニアリストの歴史観では、対立と分断が「結果的に」助長されるだけである。たとえ彼らが対立を助長したくなくても、彼らのやり方ではそうなってしまう。
歴史家はまた「政治家」でもあるのだから「結果責任」をも考慮に入れるべきだろう。発意の純粋さ(「かわいそうなひとがかわいそう!」)だけが大事なわけではない。

二項対立の論理は分かりやすいが暴力的だ

男VS女とか、西洋VS非西洋とか、二項対立の論理は、自分の周囲のすべてに対して「敵か味方か」とレッテルを貼る、言わば「戦争の論理」である。
しかし私は平和を愛するので、二項対立の論理をあんまり頻繁には用いたくない(たまに他にどうしようも手段がないときには用いるけど)。

最近の世の中を見ていると、性差とか、肌の色とか、年齢とか、見てすぐに分かるものが、別言すれば、目の前にいるひとと対話をする必要がないものが、テーマになりがちである。
それは分かりやすいからだろうかもしれないが、
見てすぐに分かることしか分からない人間が増えたということではないだろうか。

そろそろ時代は、争い合うことから、勇気をもって許し合うことへ、かわっていく気がする。
まずは勇気をもってマスクをはずしてごらんよ。
マスクよりもすっぴん。
安心よりも薫風。

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