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処女崇拝のふしぎ ―クリスマスをまえに


処女がよいそうだ

周知のごとく、クリスマスとは、イエス・キリストが処女マリアから生まれたお祝いの日だ。マリアは未だ性交渉をしていなかったのに、妊娠した。奇跡である。

僕としては、個人的には、イースター(復活祭)のほうを重視したい。イースターとは、十字架で死んだイエスが蘇ったのをお祝いする日である。僕のような老人としては、死の方が、処女よりも興味がある。死ぬってどんな感じなんだろう。

ところで最近、僕はアルジェリア征服戦争の研究をはじめたので、イスラム教にも関心を持つようになった。イスラム教の聖典クルアーンには、イエスだけでなくマリアも登場するという。そしてクルアーンでもマリアは処女である。

イスラム教も処女を重視するようだ。
イスラム教によると、天国に行った男性には、72人の処女が奥さんになるのだそうだ。
げんなりする話だ。
ほんとうに天国かよ?と思う。
日曜大工、アイロンかけ、パスタづくり…、72人分。
加えて、処女である。
相当、面倒くさいと思う。
よくやる~。おつかれさま。イスラム教徒の方々、尊敬します。

ちなみにイスラム教徒の女性が天国に行った場合、72人の童貞クンが待っているか否か、僕は知らない。

処女のカリカチュア化

かくしてイスラム教でもキリスト教でも、婚前交渉は禁止されている。
結婚して初めて処女を捨てるのが、良いことだとされている。
映画などでは、初夜、処女はおびえている。未知なるものへのおびえである。
おそらくこのおびえの表象の起源は、マリアが天使ガブリエルによって受胎告知をされたときのおびえに遡ることができる。

しかしすべて、映画のなかの「お話」にすぎない。
男性がつくった、「おしとやかな処女には、是非、おびえてほしい」という妄念の産物である。
現実には、元気ハツラツ、好奇心いっぱい、やる気満々の処女も、それなりにいる。

なぜ処女がよいのか

それにしてもなぜ処女がよいのだろう。
処女のどこがよいのだろう。

以前、フランスのレストランで「処女のニシン」という料理があったので、「どういうこと?」と質問したことがある。
どうやら「新鮮なもの」とか「はつもの」という意味らしい。

しかし「肉は腐りかけがうまい」とも言う。
「熟成肉」とかもあるわけで、「新しければおいしい」というのは必ずしも常に真実ではない。

話を元に戻す。
なぜそこまで処女にこだわるのか。

おそらく、夜の営みに自信がない男性が、他の男性と比較されるのを嫌がるからではなかろうか。相手が処女ならば、比較のしようがないだろうというわけだ。

自信がないって

しかしこの仮説は新たな疑問を生む。
なぜそこまで夜にこだわるのか。
たとえ夜間における身体能力に自信がなくても、知性・教養・優しさ・財産・ルックスなどに自信があれば、それで良いではないか。

なんにも自信がない、自分で自分をダメ人間と思い込んでいる男が、男性経験皆無の処女を求めるということなのだろうか。
新雪に自分の足跡を残したいと。それがダメ人間のロマンスなのだろうか。

まるで北米大陸を、誰も住んだことがない(実は先住民がいたにもかかわらず)、自分だけのためにとっておかれた、新しい「約束の地」だと思い込みたかったプロテスタントのようではないか。

いずれにせよ、もしも世の女性たちが処女崇拝を撲滅したければ、男性の自信の欠如を払拭してあげればよいのだ。
他方、もしも世の女性たちが処女崇拝を存続したければ、男性の自信を萎えさせてあげればよいのだ。

どちらにせよ、がんばって。

蛇足 -隷従の責任

もちろん、世の中には、処女崇拝という、教会の戒律にすすんで服従したいという人々もいるだろう。どうぞご自由に。
でも忘れないでください。あなたはあなたの自由意思で、その戒律に服従するのですから、その自由意思には責任がついてまわります。
この点さえ、お忘れにならなければ、あとは信仰の問題です。どうぞご自由に。

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