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年表 奴隷制と近代フランス

はじめに

学生さん向けに、奴隷交易と奴隷制の廃止について、フランス革命期を中心に簡単な年表をつくってみました。
浜忠雄『ハイチ革命とフランス革命』(北海道大学図書刊行会、1998年)の巻末の年表には、日付の誤記が散見されますので、最新の研究成果も反映し、新しいものをつくってみました。
また年表の後には「結びにかえて」として、この年表を読むさいの注意点に言及しておきました。


年表

1780年 アメリカ合衆国ペンシルベニア州で奴隷制の段階的廃止に関する法律
1787年 イギリスで奴隷貿易廃止協会、創設
1788年 パリに「黒人友の会」、創設

1789年7月14日 フランスでバスティーユ襲撃

1791年5月15日 憲法制定国民議会、自由人を両親に持つ有色人に政治的権利を認める法律
1791年8月22日 サン=ドマング島北部で黒人奴隷蜂起、勃発
1791年9月3日 1791年憲法、制定
「アジア、アフリカおよびアメリカにおけるフランスの植民地と領土は、フランス王国を構成しているとはいえ、この憲法には含まれない。」
1791年9月24日 憲法制定国民議会、1791年5月15日の有色自由人に関する法律、廃止
1791年9月28日 憲法制定国民議会、フランス本国在住のあらゆる人間は肌の色に関係なく憲法の定めた資質さえ持てば市民権を有することを認めるデクレ
1791年10月1日 立法議会、召集
1791年10月16日 立法議会、肌の色に関係なくあらゆる人間はフランス本国において自由であることを定める法律

1792年3月28日 立法議会、植民地の有色自由人に政治的権利を認める法律(4月4日 国王、批准)
1792年9月21日 国民公会、召集

1793年2月 フランス、イギリスおよびスペインと開戦
1793年6月24日 1793年憲法、制定
1793年8月29日 派遣議員ソントナクス、サン=ドマング島で島北部における奴隷制の廃止、宣言

1794年2月4日 国民公会、フランスのあらゆる植民地における奴隷制の廃止、決議
1794年5月 トゥーサン・ルヴェルチュール、スペイン軍を裏切ってフランス軍につく

1795年2月12日 国民公会、黒人奴隷制廃止の原理、再確認
1795年8月22日 1795年憲法、制定
「第6条 フランスの植民地は、共和国と一体をなす部分であり、同一の憲法に従う。」
1795年10月31日 総裁政府、成立

1797年5月3日 トゥーサン・ルヴェルチュール、サン=ドマング島方面軍総司令官に
1797年9月4日 総裁政府、クーデタによって立法府から王党派、追放

1798年1月1日 植民地の組織化に関する法律(旧奴隷にフランスの市民権を認める)
1798年6月16日 ナポレオン、エジプト遠征の途中でマルタ島を占領、奴隷(トルコ人、ユダヤ人)解放
1798年8月 トゥーサン・ルヴェルチュール、フランスを裏切ってイギリス軍と秘密協定

1799年6月30日 ナポレオン、エジプトで兵力増強のため2000人の奴隷を購入
1799年11月9日 ナポレオンのクーデタ
1799年12月15日 1799年憲法、制定
「第91条 フランス植民地の制度は、特別法により定められる。」

1800年7月末 トゥーサン・ルヴェルチュール、サン=ドマング島ほぼ全域、平定
1800年10月12日 トゥーサン・ルヴェルチュール、労働者にプランテーションでの強制労働を課する規則、発布

1801年7月8日 トゥーサン・ルヴェルチュール、フランス領植民地サン=ドマング島憲法、公布、終身総督に
1801年11月22日 ナポレオン、サン=ドマングとグァドループでの奴隷制廃止の維持と、マルチニックでの奴隷制継続の維持、言明
1801年12月 ナポレオン、サン=ドマング島に鎮圧軍、派遣

1802年3月25日 ナポレオン、イギリスとアミアンの和約
1802年5月20日 ナポレオン、奴隷交易の復活と、マルチニック、レユニオン島、フランス島での奴隷制の維持を宣言する法律
1802年6月7日 フランス軍、トゥーサン・ルヴェルチュール、逮捕
1802年7月16日 ナポレオン、グァドループでの奴隷制の復活、命令

1807年 イギリス、奴隷交易の廃止
1815年3月29日、百日天下期、ナポレオン、奴隷交易、廃止
1817年1月8日、復古王政期、ルイ18世、奴隷交易、禁止
1825年 復古王政期、シャルル10世、ハイチの独立を、1億5千万フランの賠償金と引き換えに、承認
1833年4月24日、七月王政期、有色自由人と白人の諸権利の平等に関する法律
1848年4月27日、二月革命臨時政府、奴隷制の廃止、宣言


結びにかえて

この年表は主に法制度を中心につくりましたが、もちろん、〈法律ができた〉ことは〈法律が実施された〉ことを必ずしも意味しません。

フランスとひとことで言っても、その内部には相矛盾する政治的傾向がありました。博愛主義と奴隷制主義、それぞれにそれぞれの歴史があります。
それぞれの潮流を分けて考えるのも大事だと思います。例えば1794年2月4日の決議は、1798年1月1日の法律とはひとつの同じ流れに位置づけられますが、1802年5月20日の法律とは相反します。
またナポレオンの奴隷制に対する「ご都合主義」が分かるように、1798年6月16日のマルタ島で彼が行なった奴隷解放についても記載しておきました。

経済的にサン=ドマング島が最も収益のある植民地だったので、サン=ドマング島についてやや詳しく記しましたが、それは他の植民地における奴隷制を軽視して良いということを意味しません。

また革命以前の奴隷制の詳細を省略したこともお断りしておきます。
実を言えば、興味深いことに、アンシャン・レジーム期、フランス軍の兵士となった黒人奴隷は奴隷の身分から解放されました。これはフランスに限ったことではなく、独立直後のアメリカ合衆国でも見られたことでした。そういう話のためには、また別の年表をつくる必要がありましょう。

いずれにせよ18世紀末にイギリス・フランス・アメリカ合衆国で、奴隷制を段階的に廃止しようという運動が発生しました。フランス革命はその運動を急進化させました。現在から見ると、イギリスによる段階的廃止が最もスムーズに成功したように見えますが、①奴隷の立場から見たときの段階的な政策の残酷さ、②イギリスの軍事的経済的優越、③イギリスの保守派がフランス革命による奴隷解放に脅威を感じて段階的廃止に前向きになったたこと、これらを考慮に入れなければならないでしょう。


参考文献

Frédéric Régent, La France et ses esclaves de la colonisation aux abolitions (1620-1848), Paris, Grasset, 2007.

西願広望「フランス革命期におけるエシャセリオの植民地論-民族自立・自由貿易・持続的平和-」『日仏歴史学会会報』35号(2020年)、20~34頁。

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