見出し画像

西洋近代を破壊するとは ―「法律」の場合


西洋近代が作り上げた様々なものを、喜々として破壊するひとたちがいる。
でも世の中の様々なものは複雑に絡み合って結びついて存在しているから、あるものを破壊すると、予期しない別なところに影響が発生するよ、という話。

ハラスメントの定義

いまから20年以上、昔のことになります。
某大学某学部の教授会に、法律学を専門とする女の先生が「ハラスメントとは何か」をレクチャーしにやってきました。

彼女によれば、例えば、ある女性社員が好意を抱く男性社員がいるとして、その彼が女性社員に「肩を揉んであげますよ」と言って肩を揉んであげたとする。女性社員はそれを喜んでうけいれる。これはハラスメントにはあたらない。
その直後、まったく別の男性社員が、しかし先の男性社員とまったく同じように、この女性社員に「肩を揉んであげますよ」と言って肩を揉んであげたとする。彼女が嫌だなと思ったとする。その場合、これはハラスメントになる。
おかしいと思う方もいらっしゃるかもしれないが、この件は教授会の審議事項ではない。
学長の指示であり、それゆえ従うのみである。

もちろん学長はみんなが楽しく働いて学べる学校をつくるために、ハラスメントをなくしたいと思って、このような措置をとったのでしょう。
しかしここでのハラスメントの定義が(そしてそれは例外的なものではなく一般的なものなわけですが)、近代市民社会を成立させている法の精神を根底から覆すものだと、その深刻さに気づいた教師はおそらくごく僅かでした。

安心して行動できる自由を求めた西洋近代

18世紀の西洋では、国王による権力の恣意的な運用が懸念されていました。
国王が好意を抱くひとだけが優遇され、国王が嫌悪感を抱くひとが冷遇される状況、つまり国王の権力の恣意性が国民を不安にしていたのです。たとえ今日、国王の寵愛を得ることができたとしても、明日、国王はおこころがわりをする可能性がありました。それゆえ不安は恒常的なものとして制度化されていました。
人々はいつなんどき、なにをしても訴追されるかもしれない不安の中に置かれていました。

不安の中で生きることを強いる国王の権力に抗して、安心して行動できる自由が求められました。その自由をもとにして、市民は自らの使命や義務を実践しようとしたのです。

そこでまず市民たちは、自由を手に入れるために、法律によって国王の権力を縛ればよいのではないか、と考えました。
しばしば法律は被支配者を縛る道具だと言われます(校則廃止論者などはそう言います)。
しかしそうではなくて、法律は支配者を縛る道具だと、市民たちは考えました。

大切なポイントは、市民は、法律によってあらかじめ明文化され禁じられていないことならば、なんでも安心してできる自由があるということでした。
近代市民社会において、法律は人々に安心と自由をもたらすためのものとして存在したのです。

だから有名な話ですが、史上初めてハイジャックをした犯人は、ハイジャックをした罪によっては裁かれませんでした。ハイジャックをしてはいけませんと明文化された法律がまだ無かったからです。

やらかしたひとたち

そのような200年の歴史を持つ法の精神を破壊したのが、21世紀のリベラルさんたち(とりわけフェミニスト)でした。

善意でいっぱいのリベラルさんたちによる、「他人の気持ちを思いやれ」という命令は、即ち「他人の気持ちを自分はほんとうにわかっているかどうか、常に不安に思え」ということです。
しかし現代人は不安を嫌がりました。そして安心を得るために「何もしないのがいちばん、他人と接しないのがいちばん」と考えました。そして行動を自粛するようになったのです。
たしかに誰の肩も揉まなければ、誰からもハラスメントとして訴追されることはないでしょう。
リベラルさんたちの政策が人々を臆病にそして怠惰にしたのでした。

リベラルさんたちを排除せずに更生するために

18世紀、自由を求めた人々は「国王陛下の気持ちを思いやれ」とは命じませんでした。
自由を求めた人々はむしろ国王を斬首しました。それは難しくありませんでした。だって国王でしたから。

しかしながら現在問題なのは、私たちと平等で、同じ人間で、同じ市民の、つまり「同胞」であるべきところの、リベラルさんたちです。
もしも彼らを社会から排除したら、「ハラスメント加害者」を排除して復讐の淫靡な快楽を覚える彼らと同じになってしまいます。

でも私はもっと高潔でありたいのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?