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新海誠『すずめの戸締まり』レビュー〜災害3部作から〜


新海誠監督の映画『すずめの戸締まり』を見た。

みたいみたいと思っていたのだが、ちょうど子育てが始まってすぐというときだったのでずっと見逃したままになっていて、結局地上波でオンエアされるまでひっぱってしまった。

でも観た感想としては、公式HPがうたっているとおり「新海誠作品の中で最高傑作」だったと僕は思う。
ネタバレ全開で感想文兼レビューをしていきたい。

◆災害3部作

「君の名は。」「天気の子」そして今回の「すずめの戸締まり」。

すずめの戸締まりについてのインタビューを収めたこの記事にあるように、この3作品は紛れもなく3.11を念頭に置いた「災害3部作」とも言える作品だ。

つまり、この3作品はあの大地震をそれぞれの時代で「私たちがどのように受け止めていくか」を表現した映画であった、ということだと思う。

◆君の名は。

「君の名は。」では、時代と場所を超えて入れ替わってしまう男女が、その力を使って過去を改変し、未然に災害を防ぐ、という物語だった。

つまり、災害に人間の力をもって「抗っていく」(そしてそれを乗り越えていく)物語が、ボーイミーツガールの文脈で描かれていった。

しかし公開直後、大ヒット・ロングランを記録した一方で、批判も多くあった。「災害を人の力でコントロールすることは出来ない(のに作中では出来るように見せている)」。

これは「すずめの戸締まり」でも同様の批判が投げかけられているのをみたが、今作ではこれについても同じように描いているように見えて、実は「天気の子」同様、ちゃんとそれは踏まえている。これは後述する。

◆天気の子

「天気の子」では、「君の名は。」で寄せられた批判的なコメントへのアンサーも含めてストーリーが構築されている。

つまり、「災害を人の力でコントロールすることは出来ない」というテーマは一貫していながら、「祈ることで天候を操作できる少女」を登場させることによって、結果として人の力では回避できない災害(水害)を引き起こすという物語である。

徹頭徹尾、主人公である少年少女たちの等身大の視点を置きながら、世界のほうが彼らに振り回されるというシナリオには前作以上の賛否両論があった。

そのような中で「人の手に負えない災害にどのように立ち向かうか」という点においてこの作品を見るとき、ラストシーンの「大丈夫」と、エンディングテーマの「大丈夫」で締めくくられることには大きな意味がある。

つまり、作中で散々気候をコントロールしてきた到達点において、人の手でコントロールすることが出来ないものがあることを「受け入れ」、それでも大丈夫(それでも生きていく)しかないという、人から人への「祈り」で締めくくられていった、というメッセージが込められていた。

◆すずめの戸締まり

そして、今作「すずめの戸締まり」では、その集大成が見られる。

ネタバレ満載で書いていくので、未視聴の方はここで引き返していただければ幸いだ。

すずめの戸締まりは、特にミスリードを誘う手法が多い。

最も顕著なのはダイジンだろう。
はじめは草太を呪い、日本各地の後戸を開けて回ることでミミズを発生させる、という悪役めいた立ち周りをしているように見えるが、その実全く逆であったことが終盤で明かされる。

実のところ各地の後戸は既に開けられていたし、東京における要石も長い時を経て抜けてしまったものだった。そのように考えるなら、冒頭で専門家でもないすずめにさえ、ダイジンという要石を抜いてしまえるほどに、その封印そのものが初めから弱まっていたことは容易に伺える。

つまるところ、すずめと草太が日本各地で後戸を閉めてまわることで日本を災害から救っていく、というストーリーは、実のところ要石たるダイジンとサダイジンが、日本中で開いてしまった後戸を再び閉じ、ミミズを改めて封印したいがために、すずめと草太という人間を利用した、という話にひっくり返ることになる。

このようなミスリードの真相が明かされる時とは、まさに草太が新たな要石として打ち込まれてしまい、すずめが草太の代わりに要石になることで彼を救おうとする作戦──「天気の子」にも採用された自己犠牲の愛が示されていく作中における大きな転換点である。

この場面を、神と人との関係性と、その信仰に関わるものとして見ると、宗教者としては唸らずにはいられない。

というのも、「君の名は。」「天気の子」の共通項として挙げられるのが、あくまで「個人たち」の事情や思いが「世界」を揺るがし、変化させていく、というあくまで個人に重きが置かれたストーリーになっていた。

それゆえ、「天気の子」で繰り返し出てくる「祈り」のモチーフは、あくまで自分のため(自分たちが晴れにしたいから/自分たちが大丈夫だと信じたいから)に祈られている。

しかし、「すずめの戸締り」では、すずめと草太という二人の枠を超えて、ロードムービーの手法を取りながら多種多様な「他者」に彼らは出会い、関わりを持っていく。

さらにいえば、後戸を閉めるときに耳を澄ますのは、「その当時そこにどのような人の声が響いていたか」ということだ。それは、そこに生きていた他者の想いを、時間を超えて未来の自分たちが受け取っていく、ということに他ならない。

この物語をすずめの成長物語として見るとするなら、そこには草太という想い人とだけの関わりによって、彼女は新しい一歩を踏み出すのではない。

期せずして出会う多くの人々、そしてそれ以上に、多くの人々がはるか過去に置き去りにしてしまった──後戸を閉じるときに響く──忘れられた他者との関わりもまた、彼女が彼女自身を見つめるために必要なものだとして描かれていく。

ダイジンとすずめとの関係もそうだ。日本古来の神信仰においては、人に信仰されることによって神は力を増す、という描写がたびたびなされる。

冒頭、やせこけたダイジンが元気な姿を取り戻すのは、すずめからもらったご飯によってではなく、実質的には「受け入れられた/好きという感情」が深く関わりを持っている。終盤ですずめに拒絶されたダイジンは力を失い、再びやせこけた姿に戻ってしまうし、草太を助けに行くために力を借りるときには、再びダイジンも力を取り戻す。神と人との関わりもまた、この関わりというモチーフの中に取り入れられている。

そして何より、終盤において草太がミミズと戦い続けるサダイジンに向かって(あるいは見えざる神に向かって)、定型文ではない「祈り」をもって、すずめと草太の二人だけではないこの世界の人々のための祈りとして、今日という日を生きることを嘆願するというシーンにおいて、「人と人が、人と神が、そして世界が、本来は相互に関わりあうもの」という到達点を描写していくのだ。

つまり、ここでの「戸締り」とは、単純に人の力で災害をコントロールするという超常の力ではない。

過去の災害は単なる記録ではない、そこには確かに自分と同じ人々がいて、様々な思いを抱えていたことを思い起こした上で、過去にする=扉を閉める(戸締り)、ということだ。

ここには一つのメッセージがある。
過去に起きた災害を覚えているからこそ、私たちは未来に起こるかもしれない災害の被害を、未然に防いだり、あるいは被害を最小限に抑えることが出来る、ということだ。そして、そこには「祈り」もまた共にある。

それが、過去の人々の声を聴き、”神への祈り(祝詞)”と共に戸締りをする──つまり過去と現在、人と人、神と人の関わりを回復させることが、ミミズを撃退しすること──大災害を防いでくれることだ、というメッセージがここには込められているのだ。

人は独りでは生きてはいけない。必ず関わりあう誰かが存在している。それは過去2作で深く掘り下げられた部分だった。
そして今作ではもう一歩進んで、自分とはかかわりあうことがないはずだった人々も、自分と同じように生きている存在、一人一人の人間であるということが繰り返し描かれていく。時間や場所が異なることで関わりあうことのない人でさえも、そうであることを、思い起こさせられる。

そしてその人々のおかげで、今の、そしてこれからの自分たちが出会っていく困難にも立ち向かっていける、という希望に満ちたメッセージが語られていく。まさに未来のすずめが、常世を通じて過去の自分に語り掛けたことで、やっと「いってきます」を言えるようになったように。

だからこそ新海誠監督は「今でなければ間に合わないと思った」とこの作品を指して言ったのだろうと思う。
3.11の記憶が多くの人々にとって過去になりつつある中で、過去にできない人と、過去にしてしまった人々とのギャップが広がっていく中で、また繰り返し様々な自然災害に悩まされる今の私たちもいる。コロナ禍における人と人とのつながりの断絶も、それに拍車をかけていったように思う。

私たちは忘れていないだろうか、と開いたままの後戸が語り掛けてくる。予期せぬ形で、私たちはそのつながりを絶たれる瞬間がやってくるかもしれない恐ろしさが、この世界にはあるということ。それでも私たちは手を取り合い、協力し合い、支えあっていくことが出来るということ。

そのような大切なものを忘れないようにするために、ちゃんと過去を見つめ、受け止め、ことあるごとに振り返るべき過去にしていく──戸締りをしていく大切さを、この映画は改めて教えてくれるのではないか。

◆おわりに

こういうわけで、災害三部作とも称される新海誠作品を振り返ると、「人の力でコントロールすることは出来ない災害をどのように受け止めるか」という通奏低音が響いていることがわかる。

「君の名は。」では人の力をもって抗い、突破をしていく。
「天気の子」では人の力ではどうしようもないことを受け入れ、自分のために祈っていく。
そして「すずめの戸締り」においては、どうしようもないことだと受け入れるだけでなく、それを忘却せず、過去と現在における関わりの中に自分も生かされていることをおぼえ、それを踏まえて(戸締りをして)、未来へと歩き出していくという到達点に至っている。

これらのテーマをボーイミーツガールとSFというエンターテインメントのオブラートに包み込みながら、私たちが生きていくうえで大切なメッセージを「ただ暗いだけにならず、悲しみだけにならず、人を楽しませながら描く」パッケージングに、惜しみない拍手を送りたい。

すずめの戸締り、確かに新海誠の最高傑作でした。次回作も期待してます。

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