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プチ聖徳太子、焼肉屋さんの小競り合いをいなす(2/15)

とにかく恐ろしいほどのスピードで24時間が経過する日々が続いている。たいてい一月とか二月って永遠みたいに果てしなかったり、途方に暮れたりする印象があるのだが、今年はひとあじ違うようだ。

23時になって慌てて"note"を開く。さて、と日記を書く時に自分に問うてしまう「で、さっきまで私何してたんだっけ?」。

一番最後の記憶しか即座に思い出せないのだから、時間に弄ばれているとしか言いようがない。忙しいと言ってもたかだか程度は知れているのにこの有り様である。会社員時代はマルチタスクが売りの、同時に幾つかの会話がこなせるプチ聖徳太子・世武裕子として「仕事ができる」と言われてきたものだが、残念ながら現在は、"化石化した武勇伝百科"でしかその姿は見られないほど、別人のようなシングルタスカーである。

言い訳くさいが(と断りを入れる時は大抵、自分自身が「言い訳くさいな」と思っている時だ)同じ忙しくても、本業(作曲や編曲や練習)ならば溌剌としている。
マシーンのように次から次へと映画の音楽を書いている時など膀胱炎寸前までトイレに行く時間も惜しくて作業に没頭しがちだが、特に焦ることもストレスを抱えることもなく、忙しいという意識もあまりなく、ただ燃える炎のように「そこにガソリンがあるから」燃えているだけの物質的な塊になる。

それがどうだろう。本業そのものでなく、そこにまつわる仕事(資料を集める、経理的な作業をする、メールを書く、読む、人に会う etc...)による忙しさ、もしくは全くそれ以外のこととなるとキャパシティーはグッと小さくなる。元・プチ聖徳太子も現在はただの世武裕子なもので、途端に忙殺されてしまうのだ。加えて神経質なので、自らストレスをせっせと作り出す始末。元々プチ聖徳太子だったこともかなり疑わしく思われているのではないか。わかる。私もあれは、若さゆえの他者からの温情つき過大評価だった気がしてきた。

そんな人間にとって、食べたものを写真に撮るというのはかなり有効で、食事からその周辺で何をしていたかを思い出すことができる。まさに写真とは記録なのだろう。日本人はすぐに食事の写真を撮る、と常々海外勢から馬鹿にされがちであるが、このような使い方もありますよ、と一言添えたい気持ちになった。

そんな本日だが、夜は爺とクィーンと三人で焼肉を食べに行った。爺は「高級な肉を買ってきて、うちですき焼き」とずっと言っていたし、基本的に家が大好きなタチなのだが、クィーンは外食がしたい、出かけるのが大好きな好奇心旺盛なタイプで(爺も好奇心は旺盛だが、質が違うという感じ)私が落ち合う前に二人は小競り合いをしていたらしい。

結局レクトに焼肉を食べに行くことで話は落ち着いたのだが、幾つになっても結婚前のカップルと同じような内容の小競り合いに「カップルはどこまで行ってもカップルなんだなぁ」と一人でしみじみと感じ入った。世の中の多くの人がカップルになりたがったり、"二人"をデフォルトにして生きているのを見る度に「みんな不思議な生き物だ」と思う。
焼肉屋さんで小競り合ってる姿を見て、この場を穏便に丸く収めようとする娘みたいになっている自分の、その50cmくらい後ろから見た背中に段々と愉快になって、何度も笑いそうになった。

以前、二人の息子が同じように車内で助手席と小競り合いを繰り広げていた時、後部座席の私は彼らを穏便に丸く収めようとする娘のようになっていて、息子から「世武ちゃん、わざと明るく振る舞って気を遣わせてしまって申し訳ないね」と言われたことがある。(それに気づくところは彼のすごいところだが)

世の中のあらゆる二人組に「やれやれ、まあ!」と軽い溜め息をつきながら、大抵自分が少し乗り出して座っている"後部座席"が生き方を象徴しているようで、またクスッと笑えるのであった。

2、3は同時に話を聞けるようにしておかないと、双方の主張を同時には聞けるまい。"化石化した武勇伝百科"を引っ張り出してきて、私の中の聖徳太子を呼び起こさなければならぬ。(語尾、聖徳太子風)(イメージ)

食後のTULLY'Sは、爺の奢り!

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