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人の気持ちってむずすぎ!(5/13)

フランスに来てから一週間が経過したらしい。まだ一週間しか経ってないの?というほどに、前の自分の暮らしがどんな感じだったのか、もう思い出せない。

結局のところ、消えずに残る大切なものはどこまで行っても"人"だけなのかもしれない。自分の日々の暮らしがどんな感じで、前の家がどんなだったか、たったの一週間前のことなのに頑張らないと思い出せないし、思い出せても懐かしい気もするが、他人事のような視線で見てしまう。

でも、自分が好きな人たち、友人のことは古びたりしないし、懐かしくなったりしない。だって、過去になって忘れたりしていないから。

今日はそんな大好きな中のひとりが初めて執筆をしたという原稿を読み始めた。なかなか出版が決まらないのだが一度読んでみてほしい、とのこと。日本から180頁くらいある原稿を持ってきたのだった。

「これのせいで手荷物が重くって仕方ないですね!」と嫌味っぽくジョークを添えて、空港からの写真を作者に送りつけた。

文章のド素人に何か言われて嬉しいのかどうか本心は分かり得ないが、私は想像力が豊かなわりに(豊かだからこそ?)人の言葉を額面通りに受け取ってしまうところがあり、この作品のイントロ(序章)の技巧的すぎる描写が、本章からぐぐっと凝縮されて熱を帯びてゆく物語を幾許か邪魔してしまっているのかな?と思ったので、それをそのまま伝えることにした。

誰かに相談される時もそうなんだけど「本当は意見なんて欲しいんじゃない。ただただ話を聞いて肯定して欲しいだけ!」というのは、もう聞き飽きたってくらい有名な人間心理の代表例かと思うが、私はそこのさじ加減が下手なのだ。人の裏をかくという行為は疲れるので、意識的に避けたいという思考が働いている部分もあろう。
ただでさえ、人の表情から色んなことを汲み取りすぎてしまうので、自己の精神衛生ならびに保護の意味合いもあると思う。

実際に忌憚なき意見を受け入れる覚悟ができている人というのはとても少なくて、忌憚なき意見を"随分まろやかにして"述べていても、なお、辛辣だと揶揄される事もある。
「忌憚なき意見」を辞書で引いてみては如何か?と思うが、会話をそこに引き戻してしまうと屁理屈っぽくなってしまうので言わないように気をつけている。腑に落ちないまま不条理に弄ばれているような気分だ。

きっと、今回の作者は、本気の意見を聞きたいと思っている。編集者以外の誰にも見せた事がないからって、広島で最後に会うって時に原稿を渡してきた表情は本気だった。
そもそもこの人は、いつでも本気だし、あらゆる困難の波を努力で乗り越えてきたサーファーなのだ。私は私でその人を信用しているから、あえて忌憚なく堂々と思いを伝えられる。

お前は実直だ辛辣だとよく言われるが、本当に何の気配りもなく意見することはないんだけどね。実直、辛辣に聞こえる言葉でも、色んな尾鰭をつけて水流を見て発言している。ただ、自分が想像しているよりも人は、実直とか辛辣以前に意見そのものに慣れていないのと、そこまで本気でリスクを背負ってまで他者に向き合う人が多くないのかも知れない。

なんだか私だけが素晴らしい人格者で、皆のものを責めているような構図になってしまったが、全くそんな事はない。私もあなたのように一生懸命生きているし、あなたもきっと、私と同じように一生懸命生きているんだろうなと思う。こんなにもややこしい人間世界、実はそれだけの話なのだ。理屈上では。

今日は、アルジェリア家系の男性とboire un verre(って、日本語でピッタリな言い回しってなんだろうね?一杯飲む、みたいな感じかな?飲んだのはペリエだけど)から夜ご飯を食べ、パリの夜道を散歩して色々と話をしていた。

その人が抱えている健康の問題(大きな腎臓移植を数年前にして、死ぬまで薬での治療が必要なこととか、それにまつわる色々な難しさ)、家族の問題(アルジェリアは基本的にイスラムの国なのだが、家族の中でも熱心な信者とそうでもない者の間で常に軋轢があるとか)、近隣国との諍い(モロッコ、アルジェリア、チュニジアはそれぞれに敵対していることなど)を聞いていて、私自身の生き方と刷り合わせながら、日本ではあまり感じる機会のない類の難しさを感じていた。

チュニジアの人はクスクスに魚を入れたりするのだが、アルジェリアの人から見るとそんな外道なことは許されない!と言う。

モロッコの人は、ある建築のデザインがモロッコ発祥のものだというが、アルジェリアの人は、それは自分たちの文化的財産である!と言う。

そういう無数の話を聞いていて、どうして色んな宗教の良いところをそれぞれ褒め合う世界が作れないのか?だから私は宗教が嫌いだ、と彼にぶつけてみた。

チュニジア人はクスクスに魚入れるんだね!と認められるからこそ、自分たちがクスクスにお肉を入れることを肯定され、豚肉を食べないことを非難されない世界に生きられるのではないのか?と私は思うよ、と。

これは色んな神様を肯定している(?)仏教が根っこにある日本で育ったからかも知れないけれど、もし私の認識が間違っていなければ、この点においては日本で生まれ育って本当によかったと思う。

あらゆる映画の趣味、音楽の趣味、笑いのツボ、仕事への情熱、話すテンポ、(おそらく)知能指数の具合も近いものがある人だったが、人間社会の複雑さをぶつけられて平和ボケしていた脳みそが少し揺れる思いだった。

いつまで経っても真っ暗にならないパリの夜空の何キロも下を歩きながら「だけど、私たちはみんな必死で生きてるんだよなぁ....」と思った次の瞬間、アイス食べたいなぁ〜そういえばヨーグルトアイス系のお店とかないんかな〜と、結局平和ボケしたままの脳みそが私を甘い誘惑へと連れ出すのだった。

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