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「あてがえ論」という言葉がどこから出てきたか

いわゆる"アンチフェミ"が統一教会の集団結婚に似ているから関係あるに違いない」なる主張があり、それに付け加える形で「"あてがえ系"のインセルについて言及する必要があるのではないか」という話があったようである。

それに対し、いわゆる「あてがえ論」と最初に呼ばれていた議論は、「保育園落ちた日本死ね」に端を発する、左派サイドの少子化対策・子育て支援策にまつわる議論から出てきた話である。統一教会などとは全く関係がない、ということを言及しておく。

子育て支援策に内在する逆進性とその緩和策

保育園への援助を含む子育て支援・少子化対策をするにあたり、子無し世帯に"懲罰的"課税をして、それを子供のいる世帯へ所得移転するという制度を設けたとして、自らの選択で子供をもたない人はともかく、家庭や子供を持ちたくても持てず苦しんでいる人にさらに追い打ちになる懲罰的課税を行うのはいかがなものか、という議論があった。

最初に問題になったのは所得が低く結婚に踏み切れない人(統計的には男性が多い)や所得のせいで子供を産む決断ができていない人(年間世帯所得300万以下で統計的に1夫婦あたり産児数が減る)について、「金がなくて結婚や出産に踏み切れないのに、それを理由としてさらに懲罰的課税を食らって富裕層の子育てのために金を支払うことになるのは、逆進性が強く倫理的に許されないのではないか」という議論であった。

さらに、派生的に「生まれつき顔が悪い」というのも家庭や子供を持ちたくても持てず苦しむ要因になりうるものであり、生まれつきの要素であるからセンのケイパビリティ・アプローチで回収できるのかとか、そういった福祉の議論をしていたのが当初である。

こういった逆進性ある子育て支援策をあえて行うのならば、婚姻を希望するができていない人に支援策を提供して逆進性をカバーする必要があるのではないか?という議論も行われた。

ただ、これは自由恋愛に政府が介入するという暴論にもなりうるわけで、直球に実装すれば恋愛弱者に対する国策お見合いのようなものが出てくるわけだが、これは議論した側と外野の双方が「あてがえ論」と呼んでいた。これについては議論していた側も暴論という認識はあり、子育て支援の持つ逆進性という悪さとの間でデッドロックの状態にある、というのが当時の認識であった。

なお、可能性だけ議論するとドぎついものもあり、一定レベル以下の醜貌に対して美容整形を保険適用にしてしまう、などというものも思考実験としては議論の端に上っていた。

ここでいう「あいつら」とはショーンKY、島本、一柳などのクラスタのことを指しており、このクラスタは《われら弱者男性を救え》というような立場ではないので、ちょっと線引きされたグループではあった。

ともあれ、ここで「すべての人は家庭・子供を持つべきだ」という議論はしていない。あくまで「子育て支援の財源として子供を持たない人に懲罰的課税をするのは、子供を持ちたくても持てず苦しんでいる人に二重の枷を嵌めて非倫理的なので迂回が必要だ」とという議論であり、経緯としては「保育園落ちた日本死ね」から派生した議論であり、統一教会などとは全く関係がない。これが統一教会の主張に似ているというのなら、そもそも「子育て支援をすれば少子化が解決する」という主張自体が「産めよ増やせよ」というキリスト教原理主義に似ているのであって、「保育園落ちた日本死ね」がそもそもキリスト教原理主義っぽいという暴論をやっているだけである。

また、あえて言えば「恋愛弱者論」であり、性別すらも関係がない。それについて男性のほうがクラスタとして可視化されていたにすぎない。

自称社会学者のクソ雑レッテル張り

なお、「あてがえ論」という言葉は上の事情とは別に、ネット上で社会学者を自称していたとある人物が自分の気に食わない意見に対してレッテル張りとして多用していた。

その中には、ジェンダーギャップ指数の改善=女性のバリキャリ化を目指すなら、仕事内容上「仕事と家庭の両立」は困難なので、NZのアーダーン首相などのようにパートナーを主夫にしたほうが良い、というバリバリのフェミニズムの立場に立った主張もあった。

以上のように、アンチフェミどころかフェミニズムど真ん中の内容にすらも、社会学者を自称していた連中が「ばっちいw」程度の感覚で「あてがえ論」なるレッテルを気軽に貼っていた、というのが私から見た事情である。

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