幾春かけて老いゆかん

怠けた大学生ですので、朝6時に起きることはなかなか無い。
今日はそんな珍しい日だったので、前夜、6時に起きる!と意気込んで眠ったところ、5時に目覚まし時計の幻聴がして目が覚めたのであった。6時に設定していたアラームが鳴るまでもう一度微睡んだ。

怠けた大学生ですので、夏の朝を聴くことも久しぶりである。6時、既に日は高いが、景色は気持ち分だけ白く、蝉の泣き声が響いている。
ラジオ体操に通った朝を思い出した。
まだ涼しい。
頭が働いていないので、母が昨日観に行った映画の感想を話しているのを半分だけ聞きながらトーストを咀嚼して飲み込んだ。ごめんよう。


今日は川崎市アートセンターで『幾春かけて年老いゆかん 歌人馬場あき子の日々』を観る。
ゼミの先輩と先生が観にいくところに着いていく形である。現代短歌についてはほとんど無知ゆえ、自分では発見出来なかった類の映画だったけれど、結論としてとても楽しかった。

短歌っていいなぁと思った。
数々の短歌はわたしの脳裏に映像を浮かび上がらせ、感情を共有した。自分の受け取り方でしかないので「共有」というのは正しくないかもしれないが。
景色と心情を想像しては、ひとつの言葉で形容できない情景の滲みを尊く思った。

さくら花幾春かけて老いゆかん
身に水流の音ひびくなり

表題にもなっている歌である。
桜の散る様が命に例えられることは往々にしてあるが、この歌では何回と春が来て花を咲かせる桜の木に老いを見出している。空を埋め尽くさんとする白い花を眺めて、しみじみと自分が老いていくことも考える。桜が老いていくとは随分ゆっくりした時間の捉え方かと思いきや、我が身には「水流の音」が響いていて、まさに今、耳元の頸動脈に指が添えられたような心地がするのである。

今年見た桜が去年の桜よりも一年老いているのだということを、当たり前に意識したことがなかった。なんだか悲しくなってしまった。

馬場あき子の年齢にして、まるでそうは見えない若々しさがあった。
姿勢の良さとはっきりした喋り。足を悪くしていると言っていたけれど、地方にも赴き、精力的に活動していた。家にも多くの人が訪ねてきていて、95歳とは…となる。

「道成寺」の解説のなかで、なぜ女は蛇に変身するのか、という話があった。
「鬼の研究」の中で念頭に置かれた鬼とは何か。

馬場あき子は虫めづる姫であり、慈悲と破壊の混沌でもある。
きっと鬼でもあり、それを鎮める巫女になるのかもしれない。
愛しきもの、かなしきものへの温かさは無尽蔵のようで、一体どこから湧いているのだろうかと思う。


最近noteを書けていなかったので、とりあえず勢いで書いたものを公開してしまおうと思う。


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