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第四章⑤:32歳~ 東日本大震災と なんだかんだ幸せだった10年、そして奈落の底へ 【 波瀾万丈な半生を歩んで、人生折り返し地点でようやく立ち上がるまでのお話 】

KINGです。おはこんばんちは。

さて、第四章も佳境に入って参りました!
大仰に『奈落の底へ』なんて書いてるけど、結局どうなるん?とお感じの方も居られるかも知れませんね。
(え? そんなに期待してないって!? ガーン。。笑)
ま、期待されていようが いまいが、続きを書いていきますね。

どうぞ駄文にお付き合いくださいませ。



◆ 休職と復職の繰り返し、息子のために出来ること

前節の終わりで、原付通勤時にもパニック発作に襲われるようになったことを書きました。
これって、会社員としての俺にとって、かなり致命的なコトだったんです。マトモに通勤できる手段がなくなってしまったわけですから。。

会社としての対応 というのは、まずは社長とサシで話し合い。
病院で処方してもらってる薬の種類や量については、既に色々と試行錯誤しながら調整済み。それでも発症してしまうパニック発作のせいで、度々遅刻したり、時には会社まで辿り着けずに欠勤するということが頻発しているのだと、しっかり説明。
そして、社長の出した結論は、

「一回、休職してみろ」

でした。。。
ですよね…、そうなりますよね…。

社長は、
1つの病気で休職する場合、最大で18ヶ月間は傷病手当が支給されるので、働いていない期間も収入がゼロになるわけではないこと(しかも、それは【給料】として会社が支払うものではないし、気にするな!と、カラカラ笑って 気遣ってくれて)を仰ったうえで、
まずは 1ヶ月休職して、1ヶ月後の状況を見て 可能そうなら復職して(とはいえ、扱いとしては休職を継続している形で。あくまでも、無理のない範囲での就業を再開するという意図で)、様子を見ていこう と、
親身になって ご提案くださいました。
それを 大変ありがたいことだと感じてもいたけど、
何より大きかったのは、申し訳ない…という気持ちでした。

『休職することになった…』
そう D子さんに報告したときには、さすがに 寄り添ってくれるというより
「マジで…? なんで そんなにパニック障害が酷くなっちゃうわけ?」
と、俺を責める姿勢の方が強く出ていました。。

D子さんは、前にも書いた通り 俺と同じくパニック障害持ちですが、
体質的に 薬などの副作用がとても強く出てしまう人で(以前に そのせいで死にかけたこともある)、パニック障害に対しても 一切の薬物療法を避け、独学の認知行動療法で かなり快復させてきている経緯があります。
それもあり、いつまでも薬物療法から抜け出すこともできず、更には悪化させている俺を見ていて、不甲斐ないと感じさせてしまっていたとは分かっています。

「なんで、パパ お仕事に行かないの?」
「少し お休みして、元気になるためだよ」
「そうなんだー。じゃあ、早く元気にならないとだね!」

家族がそう会話しているのを、家でも申し訳なさそうに聞いていることしかできないでいる自分が居ました。。。

家族に対しても 会社に対しても、申し訳ないという自責の念に駆られるばかりで、初めの休職期間の 1ヶ月はあっという間に終わりました。
特に『少しは良くなった』という感覚があったわけではないですが、
社長との会話を経て、(休職という扱いのままの)復職をしました。
休職しなければならなくなったことにより、
先述の 約5年常駐していたお客さんのところのプロジェクトからも外され、課長職も解かれていましたので、
事務所で雑務を担当しながら 事務所内で案件対応しているメンバーの作業を手伝ったり という感じで。

客先常駐プロジェクトから離れ、担当顧客も持たず、責任の薄い作業のみしか対応していないのですから、休職に入る直前の頃よりは 幾分かマシに仕事はできていました。
正式に休職も解かれ、ちゃんとお給料をいただく復職にもなりました。

しかし、そんな無理矢理な復職をしたところで根本解決などするはずもなく、数ヶ月と保たない内に 通勤困難が頻発し、また休職へ…。
それからは、休職 ⇔ 復職 を繰り返すようになっていきました。。


一方、E太郎くんの件ですが、
いよいよ もう手の打ちようが無いとなりまして、児童相談所へお世話になることに。
まずは、親のみで 相談員の方に一通りのことをお話ししまして、
次の機会に E太郎くんのみで相談員の方とお話をする という進行で。

児童相談所での相談って、先方から日時を指定されて、その日その時間に行かなきゃいけないんですね。こちらの都合は 基本的に関係なし。
なので、相談に行く日は 仕事に遅れて行く、あるいは 午前半休を取って、という対応になります。
それもあって、数回の相談の後 D子さんから
「児童相談所には私が行くから、貴方は仕事に行けるなら行ってきて?」
と 言われるようになりました。

今 思えば、恐らくですが、E太郎くんから聴取した内容から、
「家庭でのお父さんの存在」に 問題がある、と 仮定されたのだろうと思います。
その辺りは 詳しく聞いていないので、あくまで推測ですが。。

D子さんと E太郎くんで 何度か児童相談所に通う日々があり、
最終的に 俺の居ない場で出された結論は、

E太郎くんを 埼玉に居る祖父母の元へ送り、そっちで生活させる

というものでした。。。
ただでさえ休職続きで 家での居心地も悪くなっている中、
俺には それを承諾することしかできませんでした。

そうして、中学2年生の E太郎くんは、1人 新幹線で埼玉へと帰っていったのです。。
それを見送ってやることが、父親として 今の俺に出来る最善のことなんだと、信じることしかできませんでした。


◆ 10年の結婚生活の終焉

E太郎くんが埼玉へ帰ってしまい、家の中での俺へ向けられる D子さんからの冷たい視線は、より一層強くなっていきました。。。

それはそうです。
もともと、放射線被曝から避難するために広島に来たのです。子供達の将来のために、たったの少しも不安要素を抱えさせないために。
それなのに、(恐らく 俺のせいだと結論付けられた結果として)息子をまた埼玉に住まわせることになってしまったのですから。
そうでなくとも、家族が一つ屋根の下で一緒に暮らすことが出来なくなっているのですから、その頃には 俺に対して、もはや 愛情は持ち合わせていなかったのでしょう。

休職している期間、そんな居心地の悪い家に 1日中ただ居るのは、1人で居るのであっても居心地が良くなく、発作の出ていない調子の良い日は 外に出掛けるようにしていました。
そんな理由で家を空けているもんですから、
帰宅する時間も 段々と遅くなり、F子ちゃんが下校してくる時間に まだ帰宅していないという日が多くなっていきました。
当然、D子さんからは

「仕事に行ってないんだったら、
 せめて F子ちゃんが帰ってくるまでには 家に居るようにしてよ!」

「一日中時間があるんだから、出掛けてばっかいないで
 家事をもっとやってよ!」

「休職したり復職したりの繰り返しで、収入も安定しなくて、
 こんなんじゃ 家計が回らないよ…!」

「何かあったときに車を出すのも私、マトモに仕事してるのも私、
 貴方が大変なのは分かるけど、私も大変なの 分かってる?」

と、たまの会話さえも そんな【苦情】ばかりになっていきました。

そして、ついに重い腰を上げて、
きちんと話し合おうと D子さんに言いました。
忙しいから、いついつの日でないと無理 と日時指定され、
その日まで どう話そうかシミュレーションして過ごして。

で、いざ。その日です。

自分が感じていること、自分の考えていること、これからどうしていきたいのか、全部 話しました。
D子さんは 俺みたいに「口から生まれてきた」と揶揄されるほど話が上手いわけでもないので、俺から言いたいことを一頻り聞き終わって、
しばらく ジッ…と考え込んで、少しずつ口を開きました。

「正直に言って、もう貴方を愛していない。愛せない…」
「子供のために、このままの関係で【家族】という形だけ維持していく
 なんてのは、私にはできない。私は、私の人生をまだ潰したくない」
「もう、疲れました…」

そう、俺の目をまっすぐ見ながら、言いました。

シミュレーションしていた中には、もちろん【離婚を切り出される】ケースも想定していました。というか、むしろ それが濃厚だと思ってました。
でも 俺には、満足に家族を養うことも、良いお父さんで居ることも、良い夫であることも、何も出来ていない 俺には、言い返せる言葉は 何もありませんでした。。
離婚することを ただ承諾し、
そこからは、マイホームの処分について、今後の F子ちゃんとの面会について、養育費について、
そんな話を 淡々としました。

マイホームを維持していくのは、名義が 2人になっているので色々と面倒だし、毎月の住宅ローンの返済費用を考えると とても現実的ではなく、
手放すより仕方ありませんでした。
まだ購入してから 5年足らず。ローンの残債も ほぼ減っていないような状況で、オーバーローンにならないような売却先を見つけるのは 非常に困難で時間を要するものなので、すぐに離婚、すぐに引っ越し というわけにはいきません。

D子さんの当時の勤め先が たまたま不動産屋だったのもあり、
なんとか早いペースでコトを進めてもらえるような仲介をしてもらえ、
結局オーバーローンになってしまうのは受け入れるしかなく、売却額をできるだけ高く、それでいて なる早で買い取ってくれる業者を見つけて、
オーバー分を借り換えで 俺の単独名義のローンとして組み替えるところまで、お世話してくれました。

そこまでの段取りで 約3ヶ月は要して、
離婚することを決めてから 実際に届けを出して離婚し 引っ越しをして別居するまでの間の 同居期間は、
色々とバタバタと忙しく動いていたお陰もあって さほど悲観的にもならず、ただ淡々と、お互いに必要以上の干渉をしないで、過ごしました。

F子ちゃんと 2人だけで 少し遠くまで出掛けて、少しでも思い出作りをしたりもしました。

離婚して家を手放すことになったから と、その前に一度 E太郎くんが広島に来てもくれました。
一泊して埼玉にまた帰るのですが、その日の夜、俺と E太郎くんの 2人だけで話す時間をもらい、向かい合って話しました。
それまでの 俺の父親としての振る舞いについて、時に行き過ぎていたと自認していること、埼玉に戻ってからの E太郎くんは 人が変わったように良い子に戻り 一切の悪さをしなくなったこと、そういったことを振り返りながら、最後に手を付いて謝罪しました。
E太郎くんは、初めて会った 5歳のあの頃のような明るい笑顔で、
「良いよ!」
と 許してくれました。

そして、42歳の時、1月に離婚届を提出し 10年の結婚生活に終止符を打ち、2月にそれぞれの新居へと引っ越しをしたのでした。
TVでは、ダイヤモンド・プリンセス号の 新型コロナウィルス事件で騒がしくなっている頃でした。


◆ 無理矢理に完全復職、そして…

バツ3になり、久々の一人暮らしにも慣れてきた頃、
世の中は コロナでパンデミック状態になっていました。
緊急事態宣言発令、マスク着用・消毒必須、3密回避、不要不急の外出は控えること。
急ピッチで雰囲気が悪くなる中、F子ちゃんとの面会は 月に一度は必ず、と決めていた約束は、コロナのせいで一度も果たせませんでした。。

当時の F子ちゃんは、すみっコぐらしが好きで、
クリスマスに 大きなしろくまのぬいぐるみを買ってあげたこともありました。

F子ちゃんが泊まりに来たとき、あったら喜ぶかなぁ なんて考えて、
一人暮らしの新居には 大きなねこのぬいぐるみを買ってあったりもしたのに…。

『こんな状況だから、F子ちゃん、泊まりになんて来させられないよね?』
「当たり前でしょ。コロナ落ち着くまでは無理」

そんなやり取りに ため息を吐きながらも、
コロナに気を付けながら 日常は過ぎていくのです。


そんなこんなで、初めて休職した時から 1年半近くが過ぎていました。
その時は休職しているタイミングでしたが、社長から呼び出しが掛かり、
急遽 会社へと向かうことに。

話を聞いてみると、
「もうそろそろ、休職もできなくなる。これから、どうする?」
とのこと。
ちゃんと調べもせずにいた自分がアホなんです。
傷病手当というのは、通算18ヶ月分までは支給してもらえると勝手に思い込んでいたのですが、そうではなく、
その1つの病気での初めての休職から18ヶ月の間は、休職している期間に相当する分を支給される というものだったのです。
つまり、休職し始めて 1年半が経とうとしている以上、途中で何度も復職したりしていようが もう支給されなくなる と。。
会社としても、傷病手当が支給されていないのに休職している状態の社員を抱えていくこともできないので、
社長の言う「これからどうする?」は、無理矢理にでも復職して なんとか仕事をしながら快復に向けて頑張っていくか、…退職するか、を 問うていたのです。

『 復職します! 最後のチャンスをください! 』

そう懇願し、もう休職するという逃げ道の残されていない、完全復職をしたのです。

完全復職なのだから、会社としても大目に見る扱いはできない と、
すぐに 客先常駐のプロジェクトに参画することになりました。
職場の近くの バイクを停められる駐輪場を契約し、原付通勤で、なんとか現場復帰しました。

初めの 1週間ぐらいは、なんとかなってました。
しかし、やはり段々と、仕事中に発作が出てくるようになり、通勤中にも出てくるようになり、職場まで出勤できない日が出てくるようになるまで、
そう長くは保ちませんでした。。。
2日か 3日、連続で欠勤してしまったタイミングで、社長から 事務所まで来るように呼び出しが。。

「お客さんも、さすがに普通の風邪とかのお休みじゃないですよね?と
 勘付いておられるし、もう ちょっと、無理かも知れんな…」

当然 覚悟はしていましたが、解雇通告です。

「もう離婚して独り身なんだし、お子さんと離れるのは寂しいだろうけど、
 実家に帰って ゆっくり療養して、完治を目指すべきなんじゃないか?」

仰る通りだと思いました。
自分自身、それ以外の選択肢は思い付きませんでした。

それから直ぐに、色々と調べました。
実家に戻って パニック障害の完治に専念するということは、
中途半端に仕事に就いて ということではなく、仕事をしない(正確に言うと、通勤を伴う仕事に就かない)ことになる。
つまり、収入がなくなる。

…、生活保護受給者、に、、なるのか。。。

そして、生活保護の受給要件には、借金があってはならないともある。
元より、収入のない状況で オーバーローン分を借り換えたローンの返済を続けられるわけもない。

……、自己破産も、しなきゃいけないんだな。。。

法テラスに行き、弁護士さんとの無料相談の時間内で、広島で手続きすべきか 愛知で手続きすべきか、色々聞いてきて。
結局、さっさと愛知に帰って、自己破産することも伝えたうえで 生活保護の受給申込をして、愛知の法テラス経由で破産手続きを始めるのがベストだと結論が出ました。

実は、急な休職突入による傷病手当支給までのタイムラグに耐えられるよう、生活費に充てるためという名目で 会社から借金をしていました。
それだけでなく、離婚に伴う引っ越し費用で足らなかった分、オーバーローン分の借り換えローンで 限界まで借りても どうしても足らなかった金額補填でまで、会社から借りていました。
つまり、会社も【債権者】にあたるので、自己破産するとなると、その会社からの借金すらも 強制的にチャラにさせられてしまうのです。。

退職前の 社長との最後の面談の機会に、それらの調べて分かったこと、
会社に更に迷惑をお掛けしてしまうこともお伝えして、
「それはしょうがねぇよ。気にするな」と受け入れていただき、
退職しました。


駆け足で愛知への引っ越し準備を進めながら 心に引っ掛かるのは、
マイホームだったあの家を出た日から、F子ちゃんと一度も会えていなかったことでした。
コロナは一向に落ち着く気配も見せておらず、D子さんに ダメ元でお願いの連絡を入れました。

『愛知に行く前に、少しの時間で良いから会わせて欲しい。
 すみっコぐらしの ねこのぬいぐるみを、F子ちゃんに貰って欲しい』

ホントに少しだけだからね!と、渋々の了承を得て、
愛知に出立する前日の夕方に、D子さんと F子ちゃんの住むマンションへ向かいました。大きなねこのぬいぐるみを、原付のステップに載せて。
着いたと D子さんに連絡すると、程なく F子ちゃんが降りてきました。
久し振りに会った F子ちゃんは、パパが愛知に行ってしまうことも既に聞いており、寂しげな、それでも笑顔で駆け寄ってくれて。
手早くねこを渡して、そのねこをギュッと抱える F子ちゃんと 少しだけ話して、ごめんね と伝えて、また会えるからね!と念押しして。
時間にして 1分程度の再会をしてきました。

そうして、広島に避難してきて 10年弱にして、
単身 地元の愛知へと引っ越しをしたのでした。43歳の時でした。


ようやく、第四章を書き切れましたw
お次は

で、お会いしましょう。
続きはどうなることやら、、、

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