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ACT.13『Blow away,going to Red Line』

動き出せ!!

 いよいよ、フォトランの時刻になった。京急1000形がついに始動する。人間で言えばスーツをビシッ!と決め、ネクタイの歪みもなく万端の姿となった赤い電車。公開フォトランに向けて、準備は万端であった。
 最初は公開…というより、撮影案内にも出ていた伏石駅での撮影に向かう事にした。伏石駅は先の「ことでん」複線化事業と同時に開業した新駅であり、その駅の全貌は地方私鉄と侮ってはいけないレベルに近代的であった。以下、その伏石駅での記録を掲載していこう。

一体コレは何なんだ??

 伏石での到着シーンを撮影した1幕である。
 この駅では告知があった影響か撮影に多くのファンが来ており、ホームはまばらに埋まった状態であった。
 この写真は練習と土産の記録にと撮影した1080形の記録である。しかし伏石の高架駅構造と相まってその雰囲気は京急時代。譲渡前の活躍を彷彿とさせる空気に満ちており、正に
「大手私鉄」
に存在していた空気と威厳すら感じさせている。
 この駅の誕生は鉄道ファンに大きな影響を与えた。また、レトロ電車引退間際の開業であった事から
「近代的な高架駅にレトロ電車が入線する」
という珍光景も駅開業しばらくは繰り広げられ、鉄道ファン内での話題にもなっていた駅である。
 しかしながら関東戦士を引き立てるのには充分すぎるステージだろう。写真としては個人的にもう少し…を感じさせるものになってしまった。が、この後の本命で挽回できるかがこの時は不安になっていた。
 さて。駅には「回送」の表示が高松築港方面に表示されている。いよいよ赤い電車が坂を上ってやってくるのだ。

戦士の登場

 緊張感と高揚感が渦巻く伏石駅に、その電車は現れた。
 1300形1306編成、追憶の赤い電車。いや、1300形と呼ぶのは何か勿体無い気分にもなってしまうか…。京急1000形の装いで現れたその姿は、紛れなくあの日の輝きを保っていた。
 しかも本線時代を思わせる特急の表示。この撮影場所が神奈川県だと間違うくらいには仕上がりが良過ぎる。往年の長編成時代を思わせ、威厳と満ちた風格もたっぷりにして伏石の駅を去っていった。

 プロジェクトの皆さんが仰っていたように、今回は「ここで完結しない」撮影に挑んだ。
「ことちゃんが乗車していますので」
の言葉を自分は忘れなかった。
 ことちゃんは幸い、自分が撮影していた方向に乗車していた。「このキャラクターを撮影してこそ」と自分の中では思っていたので、通過しながらも見えた瞬間には少しの安堵を覚えたのを忘れられない。ヒレを振りながら、2匹のイルカは高松のお城へ去っていった。
 京急の電車の中に乗り込んでいると、本当に京急と「ことでん」が友好提携を結んでいる公式的なイベントのように見えてしまうが、このイベントは個人開催の全く関係がないイベント…というのだから行動力の高さに驚かされてしまう。
 1000形ならではの側面が伏石の高架から遠ざかっていった。

 高架を下りて、瓦町を目指す赤い電車。
 この半面光線になるヶ所については成功させておきたかったのだが、自分の立つポジからはレンズズームが届かず失敗に終わってしまった。
 しかし、高架橋。街を背にして下る赤い電車は「ことでん」の1300形ではなく「京急」の1000形になっていた。改め。そして何度もこの作中で述べている事ではあるが、此処を走り去っていったのは間違う事なき「京急1000形」であった。
 このプロジェクトを会社ではなく、京急電車。1000形。そして赤い電車が大好きだという熱意の旗の下企画し実行された皆様に、改めて敬愛と拍手をしたい。しかし、喜び快哉を叫ぶのはまだまだ先の話だったのだ。

赤い電車を捕捉しろ!

 さて、公開フォトランとしての撮影は終了した事になる。実質上、「支援者」のみには公開されているらしいがこの日に四国入国した自分にとっては即興撮影即興トライの「ミステリートレイン」状態。
 実際、40〜50代の撮影経験者から様々な話を聞いたが、「ネットなき撮影」とはきっとこのように閉鎖され閉ざされた記録だったのかもしれない。
 しかし。そんな悩む中で自分の心残りがある。
「伏石で順光線状態の記録を残しておく事」
だった。
 撮影時の快晴を個人的にどうも逃したくない気持ちが強かった。その時間を悩む自分に充てる…ではないが、気を紛らわすために1枚撮影。
 その記録がこの記録となった。「赤い電車」を求めての四国入国ではあったが、「琴平線色」の1080形…京急車についてはこの記録が個人的に最も満足のいく形態となった。
 高架を上り、快晴の光線を浴びている…それだけでも活き活きとした大手私鉄らしさを残せた気分になり、充実ではないが杞憂が少し晴れた気持ちになった。さて、少しアクションを仕掛けていこう。

 ずっと移動中は腕組み…貧乏ゆすり寸前(していない)、顔は暗い顔…とあまり良い状態ではない。
 自分に出来る事といえば。自分に出来そうな移動と言えば、「撮り鉄を見つけてその背後を動く」事しかなかった。
 個人的にこの時まで考えていたのは、
「瓦町まで移動してどちらに分かれるかを謀る」
という作戦だったが、それは非常に無策な作戦だったと思い、三条付近で下車して琴電琴平へ方向ターン。
 この写真はそんな半分ショげた顔で撮影した記録だ。撮影駅は栗林だったような気もするが、非常に曖昧になってきた。
 そして、そのまま仏生山方面へ向かう事に。地元民や学生たちの中に、鉄道ファンや機材を抱えた撮り鉄たちの姿があった。どうやら琴平線で間違いないかもしれない。
 個人的予想だった「長尾線」の選択肢は消えた事になるが、それはそれで良かったのかもしれない。さて、このまま琴電琴平方面に向かう道中の間。とある小噺を挟んで皆さんをご案内しよう。

赤い電車の幕開け企画となった1081形の「還暦」の赤い電車。

京急発展までの基礎歴史を見る

 さて、ここでは少し話の間合い企画…としてとある歴史を見ていこう。
 「ことでん」に譲渡された京急車の一部。1080形などの一派を見ていくと非常に紐解いていける事がある…のだが、それは皆さんご存知だろうか。
 それは、
「京急普通車(各駅停車用車両)発展の基礎史を語る重要な語り部」
という事である。ここでは「赤い電車」復活の全体的な歴史も交える意味。そして、「赤い電車」復活に尽力して下さった皆さんの敬意を称える意味…も込めて、京急普通車発展の歴史をここまで「ことでん」にて撮影した写真で振り返っていこう。
 先に掲載したのは、「赤い電車」復活の幕開けとなった「還暦」の赤い電車だ。この還暦の赤い電車は1080形の1081編成に施行され、懐かしい京急電車が一時的に蘇るキッカケを作った。それでは見ていこう。

朝ラッシュ時間帯の普通運用に就業する現在の京急1000形(撮影は京急・金沢文庫)

 昭和の30〜40年代当時。京急沿線では非常に人口の増加した区間に悩まされていた。そして、この区間内で細かく乗客を輸送しなければならない「普通車」の運用に京急は悩まされていた。
 その当時、京急には500形という電車が在籍していた。当初はこの500形を4枚扉に改造して普通車(各駅停車)運用に投入していくという荒技…もといトンデモムーブをしていたが、後にこの状況を打開しようと京急はとある新造車両の製造に動き出した。

赤い電車企画第2弾。「情熱の」赤い電車。この企画はかつての京急700形、1200形に施行された。

 それが、700形の投入であった。700形は昭和42年に投入。乗降時間の短縮を狙った4枚扉での新造が自慢の電車だった。この「1両につき4枚の扉を持つ」車両の投入は、京急では700形が初の投入であった。
 700形の編成は京急の電車としては「M+T+T+M」の順番に車両が並ぶ、京急では電動車比率が揃った編成。しかし、この電動車比率の均等さが後に仇となって700形を襲ってしまう。
 昭和40年代。京急の普通車陣容は改造された500形。新造された700形という2勢力によって運用がなされており、しばらくは順風満帆な装い…かと思われた、が。
 蓋を開けてその成果を確かめてみると。実際には上手くいかなかった。T車を挟んだ700形の加速性能に問題があったのだ。
 そこで、京急は700形の編成再編を実施していく事になる。それが昭和49年。
 700形の編成を「M+T+M」とし、T車を編成から外して事実上の休車扱いにしたのだ。そしてこの3両編成の状態で、京急線で最も混雑の激しいラッシュ時の列車に投入を試みた…が、上手く成功しない。ちなみに、外したT車の代わりには1000形の中間車としてM車を挿入したが、扉数の違いが邪魔をする。
 当初の予定では、ここに新たなM車の製造が検討されていたようだが、M車の製造には電気配線や複雑な制御機器…などの面で製造コストが掛かる。このコスト面から頓挫してしまった700形はここで製造が打ち切られ、夢へと消えてしまった。
 700形の製造が打ち切られたのは昭和46年。この夢は早くも白昼夢の彼方へ消えてしまったようで、この時点で京急迷走の歴史を感じる事ができる。

赤い電車企画第1弾。「還暦の」赤い電車。現在は「ことでん」にて1080形を冠するが、かつては京急で1000形を名乗った。

 そこで。京急は次なる一手を繰り出す。
 なんと、特急・急行・地下鉄都心乗り入れで使用していた1000形と。先程まで解説した普通用の700形をそっくり運用入れ替えしてしまったのだ。
 1000形は3枚扉。700形は4枚扉。しかし、この扉数を差し引いても惜しい特徴があった。1000形にしかない個性が存在しているのである。
 それが、1000形の最もな強みであった「全電動車」つまり、「全M」という状態である。
 M車が増える、という事は。最も大きな恩恵が得られる。それは
「加速力の向上」
だ。電動車を増やせば加速力が増す。そして、ダイヤと列車全体のサイクルを向上させ活性化に繋がる。
 しかし。1000形の3枚扉は「仇」になってしまった。ラッシュ時の700形・改造500形譲りで歩んできた4枚扉で捌く朝ラッシュも、1000形の3枚扉には重荷の仕事となった。
 3枚の扉では朝ラッシュの満杯の乗客を捌くことは出来ず、「ドアの1枚減少」が大きな問題を招いていたのだ。
 1000形の加速力。そして700形のドア捌き。コレは昭和京急を代表する「代名詞」のような存在であり、現在でもこの香川県で活躍を見る事によってその努力を垣間見る事が出来る。「ことでん」に旅立った京急戦士は強靭な通勤輸送の立役者でもあるのだ。

「還暦の」赤い電車より。3枚と片開きに開くこの姿は日野原が貫いた美学だったのだ

 この話の終了…と同時に、昭和京急を代表する男。「日野原保」の残した設計美学を残しておこう。
 日野原保はこんな言葉を電車設計において残している。
「乗降時分の短縮は扉の数で決まる。扉の開閉の僅かな差によるものではなく、むしろ両開き扉にした際の保守負担などを避けるべきだ」
この日野原の設計思想は、1000形の加速力。そして700形で培ったラッシュ輸送の躓きなどで新造された新型普通車である、後に鉄道ファンから「だるま」の愛称を付けられ親しまれた800形の設計思想にも引き継がれた。
 そして、日野原が残したこの設計思想というのは昭和生まれの京急車を眺めるのに「最も大事」な言葉ではないかと自分は考えている。
 日野原保は戦前・戦時中から電車の部品取り付け等で下積みを重ねた「技術畑」出身の男だ。後に京急では「副社長」の役職にまで進出したが、日野原は伝統と革新。そして発展を守り京急を強く時代の波に乗せた立役者だ。
 「赤い電車」プロジェクトにて魅せられた片開きドアの美しく並ぶ様は正に「日野原イズム」を象徴するものであり、日野原が遺した「美」を後の世に語り継ぐに相応しいものであった。
 日野原はこの世を去ってしまったが、日野原先生にこのプロジェクトの足跡が。軌跡が届いている事を記事終了ではないが1人の京急ファンとして祈るばかりだ。
 そうこうしているうちに、ある場所に到着した。ココで赤い電車を待つ事にしよう。

【今更ながら用語解説】
M…モーター車のM。電動車を指す。
T…トレーラー車のT。付随車を指す。動力を持たない。

ココを横浜だとキミ達は信じるか?

 写真は全く関係がない。
 いきなりの出オチになってしまったが、撮影ポイントで下車した駅での記録をすっかり読み込み忘れたのでココでは仏生山で撮影した京王の写真を掲載しておく事にする。(なんでだよ)
 下車した駅は撮影地との距離も非常に近く、また非常時や食糧調達にも優れた駅の周辺だった。下車してからすぐ。(だったろうか)踏切が鳴った。どうやら電車が来るようだ。構図をハイかローか迷っているうちだったが、シャッター速度に困っているうちに電車は来た。黄色くない。黒と僅かな白線が見える。赤い電車だ!

 その時間は急にやって来た。捕捉したのは、陶〜綾川での区間。イオン綾川の付近であり、駅に寄った方角の踏切での撮影である。
 後ろには架線柱の砲列。そして完璧な晴天に照らされた赤い電車。運転士の指差しも決まり、自分としては満足のゆく仕上がりの記録を残す事が出来た。
 この記録だけで自分は本当に満足行ったと思っている。こちらの大師線仕様になっている顔については、個人的な思想もあったが
「なんとか順光線だったので沿線で記録したかった」
との思いで食らいついた。その思いが何とかカタチに出て、自分の我武者羅さが表に?ではないが何とか捕捉できたのは非常に四国入国を決意した良い契機だった。
 車掌にも手を振り、列車を琴電琴平まで見送った。
 琴平線仕様の電車が走っている最中に京急仕様の電車が急に迷い込んでくる。しかも映画の撮影でもなければコレは有志の企画したイベントだ。熱意だけでココまでの企画が成り立ったのだから、本当に何とも言えない。本当にもし、この電車が予告なく扉を開けてお客を乗せ。グングン加速して行ったらそれこそ京急…ひいては横浜へと誘われて行きそうである。
 快哉を叫び自分は綾川を引き返していくのであった。

 手探りはまだ続く。正直諦めだって浮かぶし、このまま関西へ引き上げても良かった。
 今となってはそんな諦め時間も「在来車」の記録に費やした時間になった。長崎でもそうだったし、広島なんかでもそうだったが地方私鉄ではこうした「ガス抜き」のような時間が写真を見返して貴重な気持ちに浸れる瞬間である。
 さて、綾川からの移動時間。赤い電車を見た家族と話をした。
「あの電車今日で最後らしいんです…」
と言ってしまった恥ずかしさが無念に残るが、それは「お披露目走行」としての走行が最後になるだけであって長尾線での本職はあと3日ほど残っていた。
 家族と
「赤い電車を見る為に京都から来ました」
等色んな話をしていると、自分が旅人である事を驚かれたりその熱意や赤い電車の残す経済効果に感動されたり、赤い電車との時間について…など様々な時間が浮かんだ。
 あっという間に電車がやってきた。そのまま自分は香東川橋梁に挑戦してみようとした。
 が、結局諦めて近くの鳥居付近に移ったのがこの写真だ。ここからはしばらく時間の分からない四苦八苦する苦闘が続く。
「まだか…」「くっそぉ…」
ネガティブワードが時に漏れる。自分の中では満身創痍手前だった。

 しかし、そんなネガティブな暗雲ばかりだった訳でもない。こうしてファンタンゴ復刻の1発目回収にも成功し、個人的には大事な初戦成功を収めた。
 赤い電車が検査に入って終了すると、このファンタンゴのみが公式リバイバルの語り部になる。看板車の時代から方向幕車への転換を見据えた貴重な時代の生き証人を我々がどう記録し、どう扱い、どうその栄光を称えていくか。ここから先の地方私鉄ファンの真価が問われる重要な一石を打つ事に成功した。
 この成果を不意に残す事が出来ただけでも、この田園での記録は何となく成功のように今は感じている。次回からはどのように出会い、どのように記録をしていくか少し精神的な余裕が生まれた。

 結局、何にも…と思って駅に帰る最中の記録だ。京王車の流しを不意にしたモノになる。
 この区画は歩くには狭かったような気はするが、香東川の茂み付近には電車を覗く事の出来る開けた区間が幾つも存在しており非常にウォッチング…ないし徒歩鉄などには良いかもしれない。
 撮影区間はこの写真も含めて一宮〜円座である。機会があれば皆さんも是非午後の時間帯に下車されていただきたい。

開封結果・そしてサヨナラ

 円座駅の方が結局近かったので円座駅に引き返した。
「このまま移動しようか…」
と思った矢先に不定期な時間に列車行灯が点灯。
「あ」
結局、こうして蓋を開けてみると赤い電車がやって来た。この結果なら途中駅で無難に待ってみる方向でも良かったかもなぁ…と今では非常に悔いている。
「はい貸切電車で〜す。ご乗車できませ〜ん」
の声が無情に響く円座駅。もう少し粘れば良かった自分を責めてもしょうがなかった。

 住宅の傍を、赤い電車は加速していく。
「ありがとぉぉぉおおおおおお!!!!」
そんな思いで自分は駅の外に出て少し小走りに撮影。
 結局特急側は最初から光の当たらない状況だったし、最初からこの「大師線」側だけを考えていた自分にはこれで良かったのかもしれない。
 夕陽に幌枠を輝かせ、赤い電車は去っていった。自分が讃岐の大地で赤い電車と出会うのは。赤い電車が「ことでん」に映え駆けて行く姿を見るのは、何が何でもこの撮影が最後になってしまうのだろう。
 笑っても、泣いても。足掻いても。この西陽が包み夕日が背を押したこの姿が最後の赤い電車の走行撮影になってしまった。
 最後の走行撮影は、自分にとって「地方私鉄らしさ」と「1000形」らしさを兼ね備えた写真に仕上がったのではないかと思っている。
 地方私鉄に存在する急峻な線路の状態。そして、その中を自分が思い描いていた1000形のイメージである黒地に白抜き文字の「普通」幕で終着駅へ目指す姿。それは結局、見返した時に
「コレでいいじゃあないか」
と何故か納得出来そうな記録だった。
 高松口を訪れた不意な時間でしか撮れなかったけれど。赤い電車よ。さようなら。ありがとう。赤い電車。歩みを見届け、自分は円座駅に戻った。

これから

 赤い電車が一宮・仏生山方面に戻るのを見届けた自分はそのまま高松築港行きの電車に乗車した。
 乗車するのは四国の企業ラッピングがなされた1200形だ。京急時代には考えも付かなかった青系のラッピングがされている。ウクライナ国旗装飾を見れていない自分にとっては未だに見慣れないが…
 そのまま乗り込み、4枚扉が生み出した内装のスカスカさに驚きながらも北上していく。やはりどうも地方の電車において「4枚」の扉というのはどうも違和感があり、慣れないというか開きすぎな感触が否めないのだ。
 夕景の沿線を眺めながら、撮影地や平野の下見などをする。次回のファンタンゴの際にはこの場所が良いな…などの考えを張っていた。
 2000系南風が走っていた時期は「ことでん」撮影も忙しない状態だった感があるが、どうも2000系が高知・松山に集約された後になると高松での活動は自然と軽くなる。「ことでん」に熱が今なら入ってしまいそうだ。

 仏生山駅に到着した。
 この駅では下車せず、赤い電車を車内から見送った。今更下車してまで見送る必要などないかとケジメを付けてそのまま瓦町へ向かう事にし、今度こそ今生の別れを腹に括る。
 さらば。赤い電車よ。
 そして個人的には「琴平線色」が良い味を出せているように思う。
 2つの京急1000形が向き合い、それぞれの思い出に浸っているようにもその姿は感じられた。
 何度もお礼を言っても足りないか。どれだけの感謝をすれば逆に足りるんだろうか。最初は2000系間際の暇潰し…感覚だった赤い電車も。気付けば自分の新たな楽しみになっていた。
 長尾線では全然遭遇できなかったのがとにかく心残りだったけれど、自分にとっては
「長尾線に行ってみよう」
と再び思い返す新たなキッカケになったように感じる。
 そして最後に。
 Twitter凍結前にも書き記したような気がするが、この企画は「地方譲渡車」の世界に於いて多大なる影響を与えた事は絶対的に間違いではないと思われる。この企画が羽を伸ばして飛び立ち、
「ウィンザーイエロー復活」
「純白の京王琴平線」
など、何か新たなるイベントや他社の地方譲渡車が譲渡前の経歴に触れられ飛躍し懐かしまれる企画が出世する事を祈りたい。

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