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続 実践、50歳で退職してみました。   

「30代でのもう一つの退職願い」

この写真は2023年5月沖縄日航アリビラでの一枚。残念ながらハワイではない。ビールはオリオンビールである。沖縄のホテルはこれしかおいてないようだ。プレモル飲みたいのに。これはこれでおいしかったが。天気が悪くて少なくなった髪が乱れた。アラアラ。

 まず。なぜ「続」なのかという話からすると、二年半前に出した「実践 50歳で退職してみました」に、しばらくすると追加でもう少し言いたい事が出てきてどうしようかと考えてきた。前作は、世間で老後2000万円問題が話題になり、またFIREという流行語もでてきて、そんな中自分は50歳で早期退職したのになぜその問題について悩む状況にないのか考える上で、一度「自分の資産形成などについて」まとめてみたら「回想録」のようなものになった。今、年齢も65歳になり年金も満額もらえることになり、その後の生活実態なども含めて追加で言いたかったことをまとめたみた。

  高校生だった頃、テレビで「マカロニウエスタン」というジャンルのイタリア制西部劇の映画が放映され人気をはくした時期があり、クリントイーストウッドやジュリアーノジェンマというスターが活躍していた。その映画は人気が高いと続編がいつも作られ、そのタイトルは「続 。。。」であった。ストーリは全然続きでないのに「続 荒野の用心棒」「続 夕日のガンマン」など。それが好きで今でも再放送があると録画して10回以上見ているほどのファンである私にとって、今回の作は、やはり「続 。。。」となったわけである。ちなみに「続 荒野の用心棒」のラストは墓場で主演のフランコネロが両手をつぶされたぼろぼろの体で、墓石に置いた銃を撃ちまくって一気に悪者7人をやつけるという衝撃で終わり、ジャンゴー。。。という主題歌が流れる。そんな馬鹿なという結末が高校生だった私にはかっこよくて感動した。(私と同年代しか分からない話だけれど:Djangoをユーチューブで見てください。名曲です、荒野の用心棒のテーマ曲のさすらいの口笛もいい曲です。ラストの決闘で鉄板を胸に隠し持っていたシーンも衝撃でした。カッコイー)
 ではなぜ前回のようにトップの写真がハワイのホテル(シェラトンのスイートルーム)のバルコニーでビールを飲む写真でないかということになるが、それはコロナによる入国制限、円安、インフレによる人件費高による旅行費の高騰によりハワイがとてつもなく遠い夢の島になってしまったことによる。と言うか外国が全て遠くなった(新聞広告を見てもらえば分かるが旅行費用が極めて高くなった)。前作で老後は毎年、ハワイに行って、朝から海を見ながらビールだとほざいていたが、上記の理由で憧れの島ハワイは遠い島となり私の年100万のハワイ予算では行けなくなってしまったのだ。一人60~70万は必要らしい。家族で行く(娘を一人連れて3人でいくので。もう一人は結婚して世帯から外れた)には200万は必要だ。さらに細かいことを言うと、家族でラーメンを食べても1万かかるらしい。馬鹿な話だ。そのようなわけで自分の価値観からは外れる旅行先となってしまった。ということで沖縄でいいやという安易な方向転換となった。(ハワイ大好きの妻は不満なようだ。また円高になって気軽にいけるようになるといいが)

 前作で述べた老後2000万円問題に関する話としては、個人の金融資産も、最近日本株の値上がりが著しく、原発問題、燃料費高騰で相変わらず赤字経営の電力株を除いて他の株は総じて値上がりしていて、それなりの含み益が出ている。なによりも「日経マネー」などの記事を見ると、今投資の王道は「配当の良い日本株を長期にもつことだ」との考えが投資家の間で広まっているという。ひと昔前の、「投資するなら米国株、新興国株」ではなくなりつつあるようだ。自分がやってきた投資が、そのように評価されていることが少しうれしいこの頃である。まあ時代の趨勢でいい時もあれば悪い時もある。しかし長期にもって配当をもらうのが目的なので売らないのだ。(追記:2024年、新NISAがスタートして、多くの資金はやはり米国株やS&P500主体の投資信託などに向かっていて国内株はわずかなようだ。)
実際今売れば1000数百万は売買益が見込めるが、売買益にたいする所得税、住民税が増えるのが怖いという変な理由もあり、売れない。(年金と合わせて2000万の年収に対する税金は数百万になる)こつこつ配当をもらって、そこそこの税金の範囲におさめようと思っている。

今回、続編を書こうと考えた理由は、副題に「30代でのもう一つの退職願い」とつけたように、50歳での退職とは別に、かつてそれ以前に一度退職しようとした過去があり、それをやっていたら今の経済的に安定した老後生活はありえなかったということで、回想録としては語っておかないと片手落ちだと考えていたからだ。この歳(今年2023年4月で65歳)になると、前期高齢者などというありがたくない分類に入り、肺炎ワクチン接種や、介護保険料アップという、いよいよ年寄りの仲間入りだということを意識させられることが出てきて、しばしば人生を振り返ることもある。そういう人は本来なら自費で回想録など出版して友人や家族にばらまくものだが、ケチな私としてはそこまでやりたいとは思わない。たまたまこの投稿サイトはただで自分の思いを掲載できるので利用させてもらったのが前作「実践、50歳で退職してみました。」だ。頭の中にある色々な思い、自分がどう生きてきたかを振り返って形としてアウトプットしたくなるのは年寄りの、割と多い要望かもしれない。まあ、今回の内容は総じてかつての仕事に対する不満をぶちまけた内容なので、そんな愚痴は聞きたくない人は読まないほうが良いかもしれない。いきなり「おわりに」まで飛ばして老後に向けての金融資産をどう増やして、維持しているかを読んでもらってもいい。

1.はじめに

2.入社時の部署から新組織への移動 26歳

3.新しい部署での満足できない仕事

4.関係会社との組織統合と自分の置かれた位置への不安

5.もう一つの退職願い

6.仮に退職願いが通っていたら

7.他人との出世比較

8.退職せずに現状の継続

9.他部署への移動を受け入れ

10.会社同期との断絶

11.顧客サポート部門での新たな出発

12.おわりに


1.はじめに

 本書は「実践、50歳で退職してみました」の続編である。
前作を読んだ人には、私が順風満帆な人生を歩んできたと思った人もいるかと思う。大手IT企業に就職し、家庭と戸建を持ち、一応幹部社員にもなり、それなりの給料と多額の退職金をもらい、資産運用もそれなりに上手くいって50歳で早期退職割増の退職金を入れて1億円の金融資産を築いて早期退職したのだから。(仕事のストレスで退職したんだから順風満帆ではないだろう言われるかもしれないが)悠々自適の暮らしを楽しんでいると。大筋はそうかもしれないが、他の人もそうかもしれないが人生いいことばかりだけではないのだ。それなりの紆余曲折はあるもので、一歩間違っていたら別の泥沼人生を歩むことになっていたかもしれない。30代に経験したその仕事上の挫折について人生を振り返る意味でまとめてみた。回想録第二弾である。前作のように資産形成や老後の過ごし方の話ではない、仕事上の挫折の話である。人は皆、大なり小なり仕事で困難を経験しているか、将来経験すると思うので迷った時の参考になればと思ってまとめてみた。少々長くてくどい、ここまで自分の恥を書くかという思いもある。くどければ途中で止めてもらっていい。要は、挫折して道を誤っていたら、今のゆとりの生活も失っていただろうという話だ。

2.入社時の部署から新組織への移動 26歳

 私は大手IT企業に入社後、その会社で製品化しているオフィスで使われるコンピュータAの通信処理を行うプログラム開発をまかされた。通信処理を行うプログラムとは他のコンピュータとデータをやり取りする役割を果たす。通信を行うには手順というものがあってそれに従う。手順もどんどん進化していくが私の担当したものは昔からある手順でどちらかというと古い部類に入る。しかし普通に、使われるところでは依然としてまだ使われていた。ちなみにこのころの通信速度は電話回線で通信を行う場合2400bps(ビットパーセカンドと読む、一秒間に2400ビットのデータを送信する)で、今話題の5Gは下りの速度で最大3.4Gbps(ギガは10億)なのでいかに低速度通信の時代だったかわかる。このころはデータといえば文字データという時代だった(映像などはコンピュータの扱う対象ではなかった)。さらにいうと今のインターネットで使われる通信手順はTCP・IP手順というものでデータが送受信されている。さらに余談になるがこのころのプログラム開発はアセンブラという言語で行っていた。いまから考えると非常に原始的な開発言語での開発だった。

 ある日、上司から別の部署で新たなコンピュータBの事業を立ち上げるのでそちらに移ってくれと言われた。なんで俺がと思ったがノーとは言えないから従った。必要な人材なら他の部署にだしたりしないだろうと不満だった記憶がある。別に大きな失敗をした覚えもないし作った通信プログラムは問題なく動作していた。社会にでて3年半で初めて会社組織のやや非情な部分を経験した。部署の移動などどこにでもあることだが、やはり当人にとってはなぜ自分がと思うものだ。組織に対してもった最初の不満だった。

3.新しい部署での満足できない仕事

 それでも新しい組織で必要とされているのだと自分に言い聞かせて移った。そこで与えられた仕事はやはり前の組織で担当していた古い部類の通信プログラムの開発担当だった。それ以外に類似のプログラムも担当したが、これからの時代の先端プログラムの担当にはなれなった。自然、部下は少なく、2人いたが他のグループと比較するとさえない感があった。システムで多く使われる重要なプログラムは同年代のKさんが担当していた。そちらのグループは部下の数も多く部署の中では先端を行っているように見えた。そして次第に自分の担当製品に誇りを感じられなくなり仕事に面白みが持てなくなっていった。なんで俺はこんな古臭い手順の通信プログラムしか担当させてもらえないのかと徐々に不満もたまっていった。

主流の仕事を任されたKさんと、さえない仕事しか任されない自分という、妬みのかたまりのような、どこの職場にもある状況となった。Kさんは仕事をこなす力もあったのは事実で認めざるをえなかった。それでもおかれた状況を悪い方にとってしまう自分がいた。どんな仕事でも胸をはって一所懸命取り組むなどという、そんな立派な「自信」が私には欠けていた。それでも不満に思いながら仕事は続けていった。

4.関係会社との組織統合と自分の置かれた位置への不安

 会社というものは必要とあれば個人の都合など考えないで、がらりと変えてまで新しい組織を作る。個人はそれに従うしかない。30代前半それが行われた。関係会社で似たコンピュータを開発する組織を取り込んで一体としたのだ。会社としては効率化など色々考えがあって行ったことだと思うが。私の課には関係会社の課長が10人からの部下を連れて移動してきて新しい課長となった。我々はその課にとりこまれる形となった。

この課の仕事のメイン製品は当時グループウェアと呼ばれる電子メールなどの機能を持つプログラムで、自然、関係会社から来た人たちが担うような形となった。この組織のなかで自分の置かれた立場がしだいに分からなくなり、一緒にやっていく自信がもてなくなっていった。本来なら30代ともなれは自分のグループをもって何か一つ重要なプログラムの開発にあたりたいところだが、そのグループの一つの「駒」になった自分の置かれた位置を不満に思った。自分はいったいどうしたらいいのか?関係会社から来た人たちの組織にはきちんとした順列がありそこに組み込まれた自分の不安定さは、ただただ不安の原因となった。「適応力」が無いと言われるかもしれないが。

 自分がそんなことで悩む中、Kさんは組織統合など関係なしに主流の重要プルグラム開発で自分の地位を築いていきゆるぎないリーダになっていった。それに比べて関係会社のグループに組み込まれた1つの「駒」として自分は何をやっているのか?自分より年上の関係会社からきたリーダのもと淡々と仕事をこなしていったが不満が増幅していった。

5.もう一つの退職願い
 
 不満は会社を辞めたいという考えに変わっていった。前作に書いた49歳で1年かけて退職を検討したような熟考したものではなかったので何歳の時だったかさえ覚えていない。30代半ばだったように思う。ある日、ただ不満が爆発した。きっかけがなんだったかも覚えていない、ただただベースにあるのは仕事への不満と将来への不安だった。関係会社から来た課長(仮にF課長とする)に話がありますと面談を申し込み、「会社を辞めたいです」と申し入れた。理由は何と言ったかもあまり覚えていないが今の組織でなにをやったらいいのか分からん・・・。みたいなことを言ったのか?ようは不満の延長での申し込みなので、なにを言ったかさえ覚えていないのだ。悲しみだけがあった。妻や家族にも相談しないでいきなりの行動だった。会社を辞めて何をするのかなど、何も考えていなかった。ただ、ただここにいたら組織に埋もれて将来が明るくないとしか思えなかった。

結局、この行動の結末はどうだったかはっきり覚えていない。F課長が「まあ、じっくり相談して考えていこう」と言ったか、「まあ、良く考えろ」と言ったかも覚えていない。それほど覚悟の無い行動だった。覚悟があるならF課長にとことん詰め寄って「退職」を推し進めたはずだ。しかし、結局、うやむやのまま会社に居座る形になった。

6.仮に退職願いが通っていたら

 会社を辞めて何をするかなど何も考えていなかったから、仮に同業他社に中途で採用されても、もうプログラムなど作れない年寄りは、同じようにいる場所が無く続かなかっただろうし、バブル崩壊後の90年代だったからそもそも採用してくれる会社がなかったかも知れない。結果、家も子供もない頃なので、家庭崩壊、離婚ということになっていたかもしれない。その、先は???想像しても分からない。今のような暮らしがなかったことは確かだ。「実践、50歳で退職してみました」「仕事を辞めて朝からビールでも飲もう」などというのんきな話にはなっていなかったことは確かだ。人生は一歩間違うと、全然違ったものになっているということだろう。一時の怒りの感情で道を踏み外した人はニュースを見ていても枚挙にいとまがない。F課長がどう処理して上のどこまで話が通ったかも知らされていないが、結果としてはそれ以上話は進まなかった。F課長は穏やかな性格の人でめったに怒ることのない人だった。しばらくして私の会社の別部署から来た人が課長になり、F課長はもとの関係会社にもどっていった。結局私はF課長のおかげで退職しなくて済んだ。F課長はその後、何年か後に病気で亡くなったと噂に聞いた。その訃報に悲しみが込み上げてきたのを覚えている。

7.他人との出世比較
 
 Kさんは主流の重要プログラムの開発で、やがて課長に昇進していった。私は、相変わらず組織の中でもがきながら我慢して会社に通った。唯一救いとなったのは関係会社から来た人たちとは別のグループとして、海外の他社の製品をOEMする仕事を任され、自分の居場所と思うようにして勤められたことだ。このころになると入社時に一緒だった同期の中からも課長に昇進するものがでてきて、また肩身が狭くなってきた。

 課長に昇進することの意味とは何か?今の若い人はアンケートなどで、課長になどならないでのんびり会社勤めしたい。などという考えがそれなりにあるようだ。だが我々の時代は、それなりの年齢になったら課長ぐらいにはならないといけないみたいな考えがあったように思う。自分がそう考えていただけかもしれないが。同期で課長になれなかった人を見るとやはり同期会にはほとんど来ないし来たくないだろうなと考えてしまう。自分も一時期、課長に昇進した同期の友人3人との付き合いをやめて絶縁したことがあった。一人平社員で一緒に飲みに行くことは耐えられなかった。それほど私は思い詰めていたのだ。(40代で一応課長になり付き合いを再開したが)課長昇進とは私の中ではそれほど重要事項だった。退職した今となってはそんな肩書なんてなんの意味もないが、それがとても大事なものように思えていた。自分に自信のある人はそんな肩書など無くても飄々とやっている人もいると思う。しかし私は自分に「自信」がなくて自分の「存在」の意義、「存在」の証明として肩書が欲しかったのかもしれない。もう遠い過去の単なる肩書になってしまったが。

8.退職せずに現状の継続
 
 その後海外製品のOEM担当として仕事は継続したが、出世の遅れなどからくるいら立ちは時々不満として家庭でも爆発させて荒れることが何度もあった。壁を殴って穴を空けたり、ソファを殴って柔らかいと思ったら鉄骨まで到達し指間の筋を傷めそれは1年間ぐらいしびれとして残ったり、また椅子を蹴り飛ばして1か月ぐらい足の甲に痛みとして残るなどひどい荒れようだった。(妻や他人に暴力は振るわなかった。当然だが。それでは人間失格だ)

 38歳の時、家を建てている最中で妻が妊娠中にも関わらず、OEM製品の関連仕事のためUS出張の話があり、普通だったらそのような大事な時期にそのような選択をしないのに行くことを選んだ。私でなくても良い仕事だったのに。その裏には海外主張して少しでも「できる人」に見せようという思いや、昇進の役にたてようなどという下心があった。妻の大事な時期にまったく馬鹿な選択をしたものだ。

そんな中、課長試験を受けさせるかという話が部長から降りてきた。ついに来たかと喜んだら、しばらくしてその話は無しになったと言われた。統括部長からダメが出たとのことだった。これで私のこの開発部門での昇進は絶望となった。私の30代は、家も建て、子供もできたのに、仕事の上では最悪の10年となった。

9.他部署への移動を受け入れ

 課長に昇進できないやつをいつまでもここに置いておけないということもあったかと思うが、顧客サポート部門に移動してそこでもう一度課長職を目指せということで部署移動の話が来た。もうどうでもいいやと思っていたので従った。そしてソフトウェア開発部門でのキャリアは終了した。顧客サポート部門が開発部門より下であるなどとは思っていないし、そこで仕事している人は皆、顧客のために一所懸命仕事をしている。しかしやはり入社以来のソフトウェア開発というキャリアが終わることは悲しかった。なぜオレがここを去らなければならないのかと上司を恨んだ。自分の実力の無さが原因なのだと理解していても感情はそう思ってしまう寂しい移動だった。

 同じことを言うが、課長という肩書は大学を出て会社に勤めた自分にとって、自分に価値があるかのように自分に思わせてくれるもので、これが無い場合、自分の社会での価値は不確かなものになると思って恐れていた。別の言い方をすると自分に「自信」がないから肩書を持つことで「自分には価値があるのだ」と安心したいと思っていたのだ。本当に自分に自信のある人はそんなことにとらわれないで自分に与えられた仕事を一所懸命こなしていくものだと思う。その結果として肩書も後から自然とついてくるものなのだろう。しかしこんなふうに冷静に考えられるのは一応幹部社員になることもできて退職して全ては過去になったからかもしれない。

10.会社同期との断絶

 前作の「実践、50歳で退職してみました」で退職後も付き合いのある友達として紹介した3人は全て課長に昇進していた。彼らと今まで通り普通に酒を飲みに行く付き合いを続けることは我慢できなかったので、自分から今まで通りの付き合いはできないと申し出た。皆さんはこんな場合、普通に付き合えますか?自分一人が平社員で。自分が遅れてなんとか課長に昇進して付き合いを再開するまでつらい時期が続いた。
今思うに、あのまま課長に昇進できなかったら多分、交友関係を元にもどすことなく孤独な老後になっていた可能性はある。まあ時間が解決してもとにもどしていたかもしれないが。

11.顧客サポート部門での新たな出発

 顧客サポート部門というのは、顧客に納めたシステムに不具合があった場合、原因究明して修理、修正し、最終的には報告して終わる。ソフトウェア、ハードウェアの色白なトラブルを迅速に対応しなければならず、基幹にかかわるシステムなどでは早急な対応が要求され、必要なら休日でも徹夜でも対応しなければならない。重大なトラブルではお客様から酷いお叱りを受ける場合もある。面罵されたり、報告書を投げつけられたり大変な状況が起きうる。ストレスも半端ないのだ。それが仕事だから仕方ない。人によっては軽く受け流せる人と、まともに考えて悩む人といる。後者はこの仕事には向かない。私もどちらかというと後者だ。人間がとてもエモーショナルにできているのだ。特に幹部社員は顧客報告の前面に立たされるから辛い。私は入社以来ソフトウェア開発だったのでソフトウェアのトラブルなら、まだ専門でもあるのだが、課長になったのはなぜかハードウェア担当の課長であった。付け焼刃でハードウェアの基礎知識を学び、開発部門に教えてもらいながら顧客報告するという綱渡りでやっていった。それもでもなんとか50歳まで続けることができて、最終的には退職という選択を選ぶことになったが、家族を食べさせていけるベースは一応築くことができた。

12.おわりに

 あらためてこの続編で何を言いたかったかというと、資産1億円をもとにしたFIRE生活で、のんきにハワイで朝からビールでも飲もうなどと書いた私も、仕事への不満の感情で「会社をやめたい」と叫んで、転落の人生にはまり込むところだったこということ。幸いにもF課長が握りつぶしてくれたおかげでそれを避けられた。「退職」を選択するということは、その先のことまで見据えて十分考えて行うべきものだということをあらためて感じている。今いる職場が安定したものであるなら感情にまかせて危うい道を選ぶべきかよく考えるべきだ。まして次が決まってないのに飛び出すなんてやってはいけないこと、だと今になって考える。皆さんも、仕事に不満があって「退職」などと考えることがあったらこの私の経験をよく考えてほしい。50歳で退職してハワイで朝からビールか(沖縄で朝からビールになってしまったが)、家庭崩壊し悲しく寂しい一人暮らしが良いかを。

 尚、スキルをもっていてステップアップや新しいことへのチャレンジのために、転職を考えている人に今の職場に残ることを勧めるものでは無いことを付け加えておきたい。力のある人はどんどん転職して自分の進むべき道を見つけて行けばいいのだ。ここで書いたことはそういう前向きな若者の前進を否定するものでは無いことを断っておきたい。一時の仕事に対する不満や怒りの感情での退職はあまりいいことはないだろうと思う一事例と考えてもらいたく書いた。まあ、そうはいってもどうしても自分に向かない場合は辞めるのもありなのかもしれない。なにが良いかは結局、最後は自分が決めることだから。歳をとったとき、その判断が自分にとって良かったかどうかはわかるだろう。

 最後に、30代、40代に色々仕事のうえで我慢して得た今の、私65歳の生活は以下。経済的にはまずまずゆとりを持って暮らせていると思っている。
昔、ばあちゃんが「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」というようなことをよく言っていた記憶があるが、その通りだと思うこの頃。
 お金は必要以上に必要ではない(何億も)が、快適に過ごすのに必要なだけあるのは大事な事だと考える。実際、最近、浴室、洗面所、リビングの壁紙張替えをした。きれいなところでの暮らしは快適だ。妻の欲しかったブランドのピアノ(Shigeu KAWAI )を2月に注文しこの秋納入される。37年の結婚生活で初めて妻に欲しいものを買ってやれる。しかし経済的にゆとりがなければそれもできなかった。人生を快適に暮らすことは大事なことだ。(リゾートマンションも高級外車もいらないが。あとは台所のリフォームと外壁と屋根の修理が残っている)

 公的年金以外の金融資産
  株時価:6524万(2023年6月29日、日経平均33413円)
     購入原価は5277万
     父の所有する株を相続したので前作で報告の所有株原価より多い
                  (2024年3月追記:日経平均が4万を超え、自分の株の大き
     なウェイトを占めるメガバンクが大幅値上がりし8800万まで
     いった。それでも税金が怖くて売らない。どうこの投資を閉める
     か難しさを感じている。)
  個人年金残金:400万(10年保証範囲で70歳まで5年×80万)
         終身なので生きただけもらえる。
  退職金年金残金:1380万(74歳まであと10年×138万)
  預貯金:XXXX
  計:XXXX

 金融資産5千万から1億は「準富裕層」といって325万世帯もあるらしい。それに入ることはそれで嬉しいものだ。別にだから偉いというわけではないが。
 50歳で金融資産1億を持って退職して無職15年。50代には子供の教育費などで10年間で7000万円を消費したのに、今、老後スタート時の資産が1億に戻ろうとしている。自分でも不思議だ。その大きな原動力は株への投資だったと思う。全て預貯金なら単純に目減りするたけだった。投資は難しい、しかし今は若い人もいろいろ勉強して自分で資産を増やすことを考えているらしい。政府も金融リテラシーの重要性を社会に訴えているほどだ。
 私の場合は、ディフェンシブ株の電力とガスに投資して配当をコンスタントにもらっていた父の姿を見ていたので、すんなり株の世界に入っていき今の実績につながっている。そういう意味では父に大いに感謝している。40歳頃から1000株単位で少しずつ投資し、少しずつ株について学んだ。暴落も何度も味わい(アー、含み損が2千万超えた、ワーどうしようなどと怯えながら、でも損切りしないで持ち続け)配当のいい日本株で長期に投資を続けた結果が今につながっていると思っている。一朝一夕にはいかないのだ。

 トータルの株収益(40代で株を初めてからの配当と売買益累計)
  2023年12月の配当を含めて、3903万円になる予定。
  (最近ではUSの投資家ウォーレンバフェットの買いで高騰した商社
  株:住友商事の売買益185万の利益など含む。この動きで海外投資家
  の注目を集め、日本株が大きく動いたという見方もあり。不思議だ、株
  は。思惑で動く)
 
 年収
  1階:老齢基礎年金:73万     
  2階:老齢厚生年金:111万
  3階:企業年金:58万
  4階:個人年金(朝日生命保険):80万
  5階:退職金年金:138万
  6階:株式配当:231万(2022年実績)
  7階:加給年金:39万 (妻が65歳で年金もらえるまでのつなぎ)
  計:730万

  公的年金以外の4階、5階、6階の「威力」を改めて感じている。皆さんもメディアが年金だけでは老後は苦しいという2000万円問題をあらためて考えてみてほしい。300万ではゆとりの暮らしをするのは難しいかもしれない。その通り。今私の生活には400万は必要かな。現役時代にいくら高給をもらっても年金には上限があることを知っていますか。300何十万ぐらいらしい。ゆとりの老後を過ごすにはゆとり資金(2000万?)を準備して取り崩すか、もしくは年金以外の補助収入を準備することが大事になる。自分独自の年金を4階、5階・・と準備するなど。

 ちなみに退職後生活は15年目に突入したが、相変わらずルーティーンを守って生活していて、日々の生活に退屈することはない。
退職後始めた、ピアノ、ラジオ漢詩、ラジオ英会話、1日3回の運動(ヨガ、ストレッチ、筋トレ、ウォーキングなど)は続けていて体重も57kg、BMI19を維持。ピアノは今、「マイ、ハート、ウィル、ゴーオン」を練習中。
 今の日々の楽しみは、ユーチューブでロックバンドなどの演奏映像や山下達郎などの青春ポップスを聴き、ハワイ、モルジブ、サントリーニ島などの海の4K風景映像や若いきれいなお姉さんのダンス映像など見ながら晩酌にプレモルを飲むこと。たまに来日する、ふるーいロックバンドのコンサート、最近ではYES、KISS:高校生のころライブアルバム[KISS ALIVE]がかっこよくて欲しかったが高くて買えなかったバンドにこの歳でライブに行くなんて信じられない、スティングに行った。11月のコールドプレイはチケットがとれなかった。チケット欲しい!:2023/11月追記:偶然チケット入手できていってきた。最高のコンサートだった。東京ドームが3階まで満員)にいくこと。また知らなかったロックグループをあらためて知ってファンになれることがうれしい。最近知ったグループでは90年代に活躍したクランベリーズは良い。ドリームスなど名曲。(リンガー、ゾンビ、プロミセズなども最高の名曲。一度聴いてみて下さい。90年代は30代で、仕事に四苦八苦していて音楽をあまり聴くゆとりもなかった。エンヤの曲に慰められていた時代。リアルタイムで聴けなかったのが残念だ。)

 最近、TVでは、昭和によく出ていた俳優や歌手を見かけなくなって、知らない人が多くなった現実に、昭和も過去になり、自分も歳をとったことを実感するこのごろ。淡々と人生の大事な時間が過ぎていく。何をするでもなく。でも、これは全ての人に共通していることなんだと納得して、それでも何とか健康を維持するよう努めて、年一回の健康診断では結果通知を恐れながら、なに事もないとまた来年受診しようと思い日々過ごしている。帰省すると、子供のころ知っていた故郷の人はほとんどいなくなり、母も父もいなくなった。実家の前の海の上を変わらず風が渡っていき、静かな水面にさざ波がたち雲が静かに流れていく。高校時代、屋根の上に登って何とは無しに海を見ながら見た同じ雲が。我が娘はこの秋結婚して新しい家庭を築く。37年前に自分がそうしたように。式で父が新郎の父としてあいさつしていた記憶がよみがえるこのごろ。ノスタルジーな雰囲気になってきたので回想録第二弾はこのくらいにしておこう。人生は思うようにいかないことが沢山ある。後悔することも多い。Ups and downs, highs and lows, good times and bad times色々ある。それでもまあ、俺の人生はこんなもんだったんだなぁ、と歳をとってから回想できるのは幸せなことなのかも知れない。

もし最後まで読んでくれた人がいたら感謝します。

エンディングに流れる曲は「クランベリーズのドリームス」がいいな。

 Oh, my life is changing everyday in every possible way
And oh, my dreams  It’s never quite as it seems
Never quite as it seems……… 

The Cranberries - Dreams (Dir: Peter Scammell) (Official Music Video)より (ドローレスが2018年に亡くなっていたなんて。ショック。もう最高のグループで最高の女性ボーカル。泣きそうになる。ベストアルバムを聴きながら思う)
 



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