ナンシー関『信仰の現場 〜すっとこどっこいにヨロシク〜』の紹介

2024年4月2日、fujiさん主催のオンライン読書会「平日夜の読書ふじ」に参加しました。

それぞれ20分の持ち時間で本を紹介する、という会で、fujiさんと私の他には、ニセ関根潤三さん、アッサムさん、伊坂さん、星野流人さんが参加。様々な本が紹介され、かなり楽しい時間を過ごせました。

その紹介の際、手元に何もない状態で発表するのが不安だった私は、事前に原稿を作成しておりました。せっかくなので、その原稿を元にこちらでも本の紹介をしてみようと思います。

紹介する本

この度私が紹介する本は、ナンシー関『信仰の現場 〜すっとこどっこいにヨロシク〜』(角川文庫、絶版)です。

ナンシー関とは何者か?

著者のナンシー関はコラムニスト。消しゴムで作った芸能人の似顔絵のハンコを用いた、テレビ批評のコラムで人気を博しました。代表作に、『小耳にはさもう』シリーズ(朝日新聞出版)と『テレビ消灯時間』シリーズ(文藝春秋)があります。

1990年代から2000年代初頭にかけて人気を博しましたが、残念ながら2002年に39歳の若さで亡くなってしまいます。
私は2003年生まれなので、私が生まれた時点で既にナンシーはこの世にいなかったわけです。

ナンシーを知ったきっかけ

では、何故私がナンシー関を知るに至ったか。きっかけは2019年、平成が終わり令和が始まる頃の新聞でした。

「平成の顔○○人」のような企画で、時代を彩った人々の顔がたくさん並んだ紙面に、ナンシー関の姿がありました。肩書きは「消しゴム版画家」。
消しゴム版画家? 何その珍しい肩書き。興味を持った私は、好んで集めている文庫目録を読み漁り、やがて2冊の著書を購入するに至ります。それが、『小耳にはさもう』シリーズの最終作『耳のこり』と、リリー・フランキーとの対談集『小さなスナック』でした。

これが2冊とも面白かったんです。一気に惹かれた私は、まるまる1冊ナンシー関を特集した、『文藝別冊 増補新版 ナンシー関』も購入します。

その中に収録されていた図書目録に記載があったのが、今回ご紹介する『信仰の現場』。かなり興味を持った私は意を決して、人生で初めて古本を購入しました。

どんな本なのか

ナンシーは、テレビで見たことをコラムにするのが基本的なスタイルでしたが、この本は珍しく自ら外に出向いて記したルポルタージュなんです。

その取材対象は多岐にわたりますが、いずれにも共通しているのは「日常からちょっとズレた環境」。例えば、矢沢永吉の熱烈なファンが集うライブ、『笑っていいとも!』の公開収録、「テレフォンショッピング・ショールーム」なる時代を感じさせる店舗、はたまた「平成4年4月4日4時44分四ツ谷駅でゾロ目の切符を買う人」という奇抜なものから、謎のおじさんによる怪しげなピアノコンサートなど。そういった現場に赴いて記したルポが、24本収録されています。

ここが面白い

ナンシー関の文章の何がすごいか。それは「文章が一向に古びない」点、これに尽きます。
それは何故か。ナンシーは物事を俯瞰で捉え、その本質を見抜いていたからだと思っています。

ナンシーが得意としたテレビ批評のコラムは、扱う芸能人や番組がどれだけ古くても、未だに全く色褪せておらず、当時を全く知らない私でも面白く読むことができました。それは、批判の対象が表面的なものではなく、もっと深層を捉えているから。芸能人を馬鹿にしてこき下ろすことなら正直誰でもできますが、ナンシーはその一挙手一投足を定点観測し、そこに潜む違和感をつぶさに捉えて言語化することに長けていました。

そして、それは対象が芸能人から一般人になっても、全く変わりません。
この本に収録された1本目の記事、矢沢永吉のコンサートに潜入した『Big! Great! 永ちゃんライブ』の冒頭の文章から、ナンシーはキレキレです。ざっくり要約すると。

何かを盲信する人にはスキがある。自分の状態が見えていないからだ。そのスキは日常生活においては隠されているが、同志が集まる場所では露わになる。全員が同じスキを持っている安心感、世間においては「傾いている」とされるバランスが「正」になる解放感から、そのスキが無防備になる。

p.9の記述を要約

その、タガが外れてしまった人たちの集まる現場に潜入する、というのがこの本の趣旨です。
正直、大喜利の界隈に身を置く自分にとっては、いくらか耳の痛い話ではあるのですが、さておき。この本の初刊は1994年、今から30年前なのですが、その時点でナンシーはそういうことを完全に見抜いていたんですね。

この鋭さは本編でも度々見られるのですが、中でも特筆すべきだと思ったのが、宝くじ抽選会への潜入レポート『愛と幻想の宝くじ抽選会』における記述。わざわざ大きなルーレットを用意し、オペラグラスを使って確認させるといった流れに、どれだけ芝居じみていても、どれだけマヌケでも「形」を踏襲するところに、ナンシーは滑稽さを見出します。

実はこれ、19世紀のフランス哲学者であるベルクソンも同じようなことを言っているんですね。著書『笑い』の中で、ベルクソンは「儀式」のおかしさに言及していて、「儀式と厳粛な対象物を切り離して、儀式そのものに意識を集中させた途端、それはおかしなものになる」(要約)といったことを書いています。フランス哲学者と同じような考えに辿り着いているところに、ナンシーの凄みを感じます。

そして前述した通り、ナンシーの視線はあくまでフェアなんです。偏見を述べたかと思えば即座にセルフツッコミするなど、あくまで冷静な姿勢が随所に見られます。

その極致は、令和天皇が皇太子だったころに行われた御成婚パレードについて記された『御成婚パレードの人波にもまれて』に見られます。沿道で日の丸の旗を振る人々と、近くの広場で反天皇制を掲げる人々を比較して、取材じゃなければパレードなんて見に行かないという「ニュートラル」な立場のナンシーは「正と負の違いだけで同じ数値に見える」という感想を抱き、何だか暗い気持ちになってしまいます。しかし、すぐさま「こういう暗いというか嫌な気持ちになっているということは、私は本当にニュートラルなのか」と、すぐさま自問します。どこまでも俯瞰で、冷徹というより冷静な視線が向けられているのがよく分かるシーンです。

この本の最終的なまとめとして、ナンシーは『閉じた小世界の異常な常識は、白日のもとにさらされるとやっぱり理解し難い「謎」なのであり、その「異常な常識」を「異常」と自覚できない住人たちの危いバランスはやっぱりモロい。つけ入るスキだらけ』(p.200)と述べています。
これは我々にとってかなり教訓となり得ますが、教訓的な側面を抜きにしても、この本は純粋にエンタメとしてかなり楽しめる本になっています。

ナンシー関の著作を読みたくなった人へ

ここ数年にかけて、ナンシー関に関連する著作が少しずつ出ています。『信仰の現場』は絶版ですが、それも含め、よかったら是非読んでみてください。


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