それでは次の選挙に勝てません

池平コショウ

 

 市役所通りの押しボタン信号を赤信号のまま渡っていくのが樋山徹四十八才で、押しボタンをせわしなくグリグリと押しながら樋山を必死に呼び戻そうとしているのが田代知生だ。

「市長、市長。信号は守ってください」

 田代は周囲を気にしながら声を押し殺して何度も叫んでいる。

「大丈夫だよ。車、来てないから」

 樋山はすでに道路を渡り切って、涼しい顔で振り返った。

 信号が緑に変わった瞬間にダッシュした田代は、ここ発山市の総務部長でことし五十七才になる。元気だ。

「動画なんか撮られてSNSにアップされたら大騒動ですよ」

「大丈夫だよ。信号無視は現行犯じゃないと検挙されないし」

「そういうことじゃないです。市民の規範となるべき市長なんですよ。あなたは」

「なんか、田代さんってバカ殿に仕える側用人みたいだね」

 自分でもそう思ったらしく田代が忍び笑いした。

「今、車来てないでしょ。それなのに押しボタン押したらどうなる?」

 意味を測りかねた田代が樋山の顔を見る。

「ここの信号、一回ボタンを押すと車側の信号は黄色と赤で約一分間続くの。この間、市長室から計ったから正確」

 田代は市役所の最上階を見上げた。

「僕は今、十秒で渡り切ったでしょ。つまり車は五十秒間、無駄なアイドリングを強いられるわけ」

 何かいいたげな田代を制して樋山がつづける。

「トラックが一回ブレーキを踏むとブレーキパッドの摩耗やら、再発進、再加速につかう燃料やらで五十円かかるらしいのね。まあ、金額の信ぴょう性は怪しいけど、とにかくタダではないよね」

 樋山の説明を田代が遮った。

「分かりました。なるべく押しボタン信号は押さないで渡りましょうということですね。でもですね、市長の行動としては非常に不適切です」

 樋山は後ろ歩きしながら田代を見る。

「不適切な正義ってやっぱりあるよね」

「とにかく、そういう態度では次の選挙に勝てま……」

 言いかけてやめた。矛先を変える。

「ケガや障害で速く歩けない人がボタンを押すのをためらったために事故に遭ったらどうします?」

「それは本人が考えるんだよ。その人のその日の体調なんか他人には分からない。さっさと渡り切る自信があるならボタンを押さない。自信がなければ押す」

樋山は付け加えた。

「そんでボタンを押して渡った人が車に向かってサンキューって手の一つも揚げたら運転手もオッケーってことになるんじゃないの」

 

 樋山が発山市長になったのはつい三週間前。

 電気屋のケーブルテレビでたまたま市議会中継を見てあまりの生産性のなさに一念発起した。

樋山の選挙公約はたった一つ。「一期でやめます」だった。

「任期の四年で十年後の発山市が進むべき方向づけをする」という公約は意外にも有権者の支持を得た。

 

 初登庁の日、市長室に実質的トップである田代があいさつにやってきた。

「樋山市長は行政についてまだ勉強中でしょうから私がフォローします」

「お前は黙ってあやつり人形になっていなさい、という意味ですか」

 田代の顔にサッと怒気が刺したが作り笑いを崩さずに話題を変えた。

「さっそくですが」と打ち合わせが始まる。

「まず、副市長を決めなければなりません。市役所職員のOBから選ぶのが通例です。職員の人心掌握に長けた人材を配置しましょう」

「通例は要りません。過疎化や少子高齢化がここまで悪化したのは、その通例にしたがった結果じゃないですか?」

「でも……」

「当分は副市長を置かずに様子を見ます。そうすれば副市長の給料も払わなくて済みますからね」

「通例を無視すると困ったことになりませんか?」

「例えば?」

「次の選挙に勝てなくなります」

 樋山が「あれ?」と首をかしげた。

「僕、次の選挙には出ませんから。公約でそう言っちゃってますから」

 今度は田代が驚いた。

「本気だったんですか? 公約なんてあとでなんとでも言い直せるのに?」

「選挙公約を言い直すのも通例なんですか? それとも、次の選挙がないと不都合があるとか?」

「ク、ククッ」田代が突然、笑い出した。「樋山さん、おもしろいよ。気に入った」

「は?」

「おっしゃる通り。次の選挙って言うと市長だろうが市議会議員だろうが怖気付くんですよ。この一言で行政側は彼らを牛耳ってきたんです。一期しかやらない市長にその切り札が通じない」

 田代はサッと居住まいを正した。

「私もあと四年で定年です。樋山市長の任期と一緒です。乗りかかった樋山丸という船でなら水平線の向こうが見れるかもしれない」

 

 数日後のこと、田代が市長室にやってきた。

「市長、ふるさと林業道路の地質調査が終わり、あとは着工するだけになっていますが」

「あれは中止です」樋山がこともなげに言う。

「いかに市長でもそれは無茶ですよ」

田代が説明を始めた。

その道路は補助金を受けるために林業道路と名乗っているが林業活用の予定はないが、地元経済団体を中心に期成同盟会なる組織が作られ工事の請負業者はすでに談合で決まっていると噂されている。

「あれは中止です」

 樋山は繰り返した。「今なら調査費の八億円だけで済みますが、開通後の維持費は何十年と市の財政を圧迫しますからね」

「市長! そんなことをしたら次の選挙に勝てませんよ、と言いたいところですが……」

 ニンマリ笑った田代が真顔で言った。

「ただし、可及的速やかにボディーガードはつけましょうね」〈了〉