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CALLING [小説] (3/3)

第3章

5.


 母さんの作った食べ物が、『料理の記憶』を持っていたのかもしれないということに気づいたからといって僕の暮らしが大きく変わるようなことはない。ただほんのちょっと、弁当の時間が嫌いではなくなった。それだけだ。僕が母さんの弁当を喜んで食べようと食べまいと、毎日は変わらずやってくる。つまり、中間考査が目前だった。

 テストが明日に迫り、放課後の教室はにわかに活気づく。僕はなぜこうなったのか、相変わらず事情を飲み込めないまま、空き教室で今井と机を並べていた。

「先週は『3rd kitchen』にこなかったけど、家で誰かと食べたの?」
「火曜の早い時間に行ったよ。だけど色々あって、春子さんに妹と食べるように言われて帰った」
「ふぅん…」

 今井がなんだか物言いたげな目をしている。母親が店に来ていたこと、だんだん腹が立ってきて、春子さんに母親の愚痴を聞いてもらったこと、「おいしい」食事をするように言われたこと、久々に妹と夕食をともにして、母さんの話をしたこと、僕にとっては怒涛の展開だった先週をひとつずつ丁寧に説明したつもりだったが、今井は終始不機嫌だった。

「今井は2日とも行ったんだ?」

「そうよ、わざわざ部活終わりに寄ったんだから。知らない人も何人かきてたけど、颯太くんと日下部さんと、日下部さんの彼氏さんにしか会わなかったわ」
 彼女の言い草を聞いて、僕はやっと今井が怒っていることに気づいた。

「えっと、もしかして、違ってたらかなり恥ずかしんだけど、僕のために行ってくれた?」

「自意識過剰なんじゃない?」
 わかりやすく目をそらして、今井はしっかり即答した。

「…だよね」
「で、今週はどうするの」
 問題集をペラペラとめくりながら彼女が僕に尋ねる。

「実はさ、妹と話して気づいたんだけど、母さんの冷凍おかずって、自分都合にやってきただけじゃなくて、僕たちを思う気持ちがあってこそだったのかなって思ったんだ」

「でも、冷凍おかずと、毎日ご飯をひとりで食べるのは別問題でしょ?」

「そうなんだよね。どう思おうと、ちょっとさみしいのには変わりない。でも、母さんなりの試行錯誤の結果だったって考えるようになってからは、だいぶん気持ちが楽になって、ほかのことにも気を回せるようになった」

「ほかのことって?」
「僕たち、明日から中間考査だ…」
「いまさらすぎない?」

 今井の呆れたツッコミに、ぐうの音も出ない。それでも、僕にとっては今更ではないのだ。

「いつもめんどくさい補習を回避できればいいぐらいにしか思ってなかったけど、なんだか今回はやる気があるんだ。それに特別課題をやってないことを思い出して焦ってる」
「なんの課題?」
「進路のこと全然考えてなかったから、その探究課題。本当はたぶん今日までに提出」

 今井は処置なしとでも言いたげな顔でため息をついた。そもそも、僕にやる気というものがあったということが、青天の霹靂なのに、いつも卒なくこなす今井のように、スムーズにことが進んでいると思ったら大間違いだ。

「だから、春子さんのところには行こうと思う」
「なんでそうなるのか理解できないんですけど」

「進路の課題が、身近な大人に話を聞くっていうのなんだ。あと、しばらく通って今回はちゃんとテスト勉強してみようかなって」
「小学生みたいな課題やらされてるのね。いんじゃない、たまにはカフェタイムにお邪魔するのも。明日は2限で終わりだから、11時に『better half』集合ね」

 流石の僕も、このタイミングで一緒に行くのか、とは思っても言わない。僕は黙って頷いた。



 火曜の生物と世界史の試験は、すぐに終わった。たいして勉強ができていていない暗記科目の試験なんてそんなもので、埋められる解答欄だけ必死に埋めて、あとは瞑想の時間だ。僕の意識はこの後のことにもって行かれていた。一ヶ月前、うっすらと緊張しながら今井と『3rd kitchen』に向かったのがすでに懐かしくなるほど、僕たちはよく話すようになった。今井はどこの大学に進学するんだろう。英語が得意だと言っていたから、外大とかに行くのかもしれない。自分のことも考えてみたけれど、相変わらず得意なものも、好きなものも思い浮かばない。ここ最近の自分の関心ごとといえば、食べることだ。なぜ『料理の記憶』が見えるのか。僕は久しぶりにこの問いを思い出していた。

 昼を食べてからテスト勉強をしようと誘ってくれるサチローに断りをいれて、校舎を出る。校門の周りには、桜の木に芽吹いた新緑から眩い光が漏れ出していた。考査1日目にも関わらず、グラウンドからは大会前の部活のかけ声が響いている。4月に聞いたのと同じ声のはずなのに、もう無意味なことをしているとは思わない。


 『ひとと焼き菓子 better half』
 はじめてこの店の前に来たときに目にした木製の立て看板が、軒先に出ている。カフェタイムだからだろうか、あのチラシは貼られていなかった。箔押しされた店名と波打つように縮んだ板面がきらめいている。

 カランコロン

 ウィンドチャイムがいつもと同じ音を鳴らすのを聞きながらドアを引くと、甘い香りがわっと僕を包んだ。ショーケースには数種類の焼菓子が並び、ハンバーガーほどもありそうな大きなクッキーがガラスの瓶に詰められている。春子さんの小さな子どもたちが、疲れた誰かを癒してあげたい、甘いものを食べて喜んで欲しいと口々に言う。


「春子さんこんにちは。この間はありがとうございました」
「由貴くん!少し心配してたんだけど、杞憂だったみたいだね」

春子さんは、僕をまじまじと見て「前より随分スッキリした顔してる」と言った。僕は何を伝えるべきか迷いながら、「ご心配おかけしました」と少し他人行儀な返事をしてしまう。

「杏花ちゃんはもう来てるよ。食べるものは一緒に選ぶって言ってたから声をかけてあげてね」

 カフェスペースを見れば、『3rd kitchen』の大きなテーブルがばらけて、2人掛け、4人掛けのテーブルに分かれていた。夕方には、メインテーブルに集合している椅子もそれぞれの配置につき、奥のカウンター席には5つ椅子が並んでいる。壁を向いて座っていた今井が振り返った。僕はほかのお客さんの迷惑にならないように、ちょいちょいっと手招きしてショーケースに向き直る。

「お疲れ。2科目とも早々に机に突っ伏してたでしょ」
「暗記科目は覚えてないと書けることないから」
「何食べようかなぁ。甘いのもいいけど、キッシュとか、チキンクリームパイとかもあるみたい」

「ふたりはテスト勉強するのよね?しばらく滞在するなら、これにしない?」

 春子さんが、見せてくれたのはいつもおにぎりセットが紹介されている黒板だ。ひと休みセットと書かれていた。


ひと休みセット ¥850
▫︎ ドリンク…2杯目以降も100円引
▫︎ 軽食…カウンター上のトレーからお選びください
▫︎ 焼き菓子…ショーケースの中からお選びください


なるほど、長時間滞在のお客さんに向けたメニューらしい。

「いいですね。今日のピザパンとアイスティーにします。焼菓子はプレーンのパウンドケーキで」
「わたしもアイスティーと、キッシュと、抹茶のフィナンシェで」
「はい、かしこまりました。カウンター横でお待ちください」

 フィナンシェ、パウンドケーキ、マドレーヌ、ブラウニー、焼きドーナツ

 ショーケースのなかのプライスカードを順に目で追う。フィナンシェとマドレーヌは何が違うんだろう。僕にはチョコやナッツが混ぜ込まれているかどうかの違いしかわからないが、元気な焼菓子たちが、それぞれの名前を持って整列しているのを観察した。

「夕方とお店の雰囲気全然違うね」

 今井が店内を見回しながらしみじみとつぶやく。確かに雰囲気は違う。大きなテーブルがないのが少しさみしいようにも感じるし、パソコンを広げて仕事をしている人、静かに読書を楽しんでいる人、ふたりでお茶をしている女性たち、それぞれのテーブルで別々のことをしている。それなのに、僕にはこの空間を共有して同じものを食べることで、ゆるくつながっているようにも見えた。

「はい、どうそ!ゆっくりしていってね」
 春子さんがカウンターからふたつのトレーを差し出す。

「ありがとうございます。あの、手が空いているときでいいので、いくつか質問させてもらいたいことがあるんですけど」
「私に?」

「はい、学校の課題で仕事のことを聞きたくて」
「今日じゃなくて、木曜の4時ごろでもいいかな?」

『3rd kitchen』の時間のほうがゆっくりできるのだろう。春子さんが提案した日時に僕は頷いた。

「はい、よろしくお願いします」

 席に着くと今井が「いいの?」と首を傾げる。

「期限過ぎてるんでしょ」
「どうせまだ白紙だし、ちゃんとやってみようと思って。池江に待ってもらうように言っておいた」
「そうなんだ。春子さん以外にも聞くの?」

「母さんに、聞こうかな」

 自分のこれまでの葛藤が、独りよがりの勝手な思い込みだったと突きつけられるのは怖い。だからといって、僕が期待しているようなことは、都合のいい妄想で、母さんの頭には仕事しかなかったっていう結末も怖い。どう転がっても僕の負うダメージは大きく、母さん本人の口から話を聞きたいと思ってからというもの、ずっと足踏みしてしまっている。

「いいじゃない。浅野から聞いた話では仕事に生きてるって感じの人だもんね」
「うん。今井は進路決まった?」
「わたし専門だよ。美容系の」
「えっ」
 僕と今井は顔を見合わせた。

「てっきり大学行くのかと思ってた」
「池江以外の先生たちはみんな大学行けっていうね」
「今井は勉強の成績かなりいいから」
「やりたいことをやるのが一番だって」

 僕はじっと今井を見た。爪が照明の光を受けてピカピカと艶めいている。癖のない長い黒髪はストンと背中に垂れていて、枝毛のひとつもない。身だしなみに気を遣っているのが僕にでもわかった。おしゃれが好きで、新しいコスメだとか、服だとか、そんな話を女子としている姿もよく見る。今井は、美容関係の仕事をやりたいのだろう。

「やりたいことか、」
「特にないの?」
「そう、だから適当に大学書いてたけど、やり直しさせられてる」
「気になってる分野とかは?」
「うーん、これまで、食べることとかどうでも良かったし、進んで関心を持とうともしてなかったけど、この店に出会ってちょっと変わったかもしれない。でも調理師とか、そっち系は全然行きたいと思わない」
「料理はしないんだ」
「しないね。そこはまだめんどくさいが勝ってる」
「食べ物系か、案外似合ってるかもね。おいしいご飯を求めてこの店に来たわけだし、飲食関係ってどんな仕事があるのか春子さんに聞いてみたら?」

 僕は今井に相槌を打ってからピザパンにかぶりつく。春子さんが焼き直してくれたようだ。まだほんのりあたたかく、なんとも食欲を刺激する匂いがする。春子さんらしい、5月の花壇みたいなピザだ。薄く塗られたトマトソースの上に、名前のわからない葉っぱや、ピンク色の薄い大根のようなものがのっている。ひかえめなチーズとバジルソースがかけられて、少し塩気のあるさわやかな風味がした。パンのようでパンでないピザ生地が、絶妙な食べごたえを演出している。

 耳まで一気に食べ切って、きぃんと冷えたアイスティーで口と頭をスッキリさせる。緩慢な動きでカバンからノートを取り出し、高校受験以来の真剣さでテスト対策に取り掛かった。



 better halfでの勉強の成果か、今井の張ってくれた山が大当たりだったから、数学のテストはなかなかの手応えだった。3科目の試験が終わり、真っ直ぐに帰路へついたものの僕は何度も学校へ引き返してしまおうかと足を止めた。台所のカレンダーには母さんのシフトがざっくり書かれていて、今日は夜勤明けの母さんが、昼からしばらく家に居るのがわかっていた。考査中に話を聞くなら今日しかないと分かりながら、急ぎたくなくてとろとろと歩く。石でも食べんたんじゃないかというくらい腹の底が重い。母さんの気持ちに向き合いたくない自分と、今井に言ってしまった手前、引き下がるにも引き下がれないだろうと叱咤する自分に苛まれ続けている。

…着いてしまった。
僕は大きく息を吸い込んで玄関のドアを引いた。

『3rd kitchen』に似た匂いが僕をふわりと囲む。まさか、母さんが台所にいるのだろうか。

「おかえりー、中間考査だっけ?」
「ただいま」

 母さんが包丁を動かし、まな板いっぱいのキャベツを切っている。かと思えば、忙しなくコンロに移動してフライパンを揺すった。テーブルの上には、何品ものおかずが集合している。ざわめくおかずたちを押しのけて、空いたスペースにさらに出来たばかりのサバの味噌煮が置かれた。それぞれが透明の四角い器に盛られて、小さなカップに取り分けられるのを今か今かと待っている。今まで僕は何度この光景から目を逸らしていたんだろう。

やっぱり、『料理の記憶』にも鮮度があったんだ。人の記憶が時間とともに失われるように、『料理の記憶』も時間の経過に伴って薄れていくのか。

「これ、食べていい?」

サバの味噌煮を指さした。
『今日は臭みとりまでする余裕があってよかった。おいしく食べてもらえるかしら』

「もうお腹すいたの?どれでも好きなのとっていいわよ」

 母さんが嬉しそうに笑った。今まで見ていなかったものが、確かにそこにあるのを感じた。僕の家の台所が僕の家じゃないみたいに賑わっている。
 僕の冷凍弁当にも母さんは気持ちを詰めていた。それを見ないようにしていたのは僕で、気づかせてくれたのは『料理の記憶』だ。僕ははじめてこの力に感謝して、ずっと受け取り損ねていた母さんのぬくもりを腹いっぱいにため込んだ。

「おいしいよ」
 母さんが目をまんまるにして僕を見る。

「由貴はお母さんのご飯好きじゃないと思ってたけど、どんな心境の変化かなぁ?」 
 仕事ばかりしていると思っていた母さんは、僕たちのことをよく見ていた。

『考査中は弁当のほう詰めなくていいから助かる』
『明日のシフトもう一回確認しなきゃ』
『なんでも選べるように肉料理も、魚料理もたっぷり置いておこう』
『しっかり食べてテスト頑張ってるといいな』

 母さんらしい『料理の記憶』だ。時折仕事の雑念が混じり、料理に集中しないで思考があっちこっちに飛び移っている。

「母さん、料理しながらでいいからいくつか聞いていい?」

 僕はカバンの奥底に沈んでいたレポート用紙を引っ張り出した。もう帰り道に感じたような憂鬱さはない。

【今の仕事選んだきっかけを聞いて、そこから3つ追質問しましょう】

 母さんはコンロとシンクを行ったり来たりしながら仕事のことを語った。しばらく続いていた、まな板を打つリズミカルな音が突然途切れる。

どうしたんだろう。
レポートから顔を上げると、母さんがじっと僕を見ていた。

「あなたたちのこと、ずっとほったらかしにしてしまってごめんなさい。由貴が由佳を見てくれて、ふたりで留守番をしてくれるようになったとき、フルタイムで復職するのを躊躇いもしなかった」

 母さんへの文句はたくさんあったはずなのに、僕はなにも言えなかった。

「由貴に言うことじゃないのかもしれないけど、聞いて欲しいの」
 パチンとガスコンロの火が消えて、母さんが正面に座る。

「長い間仕事から離れて子どもを育てていると、世界から取り残されたみたいにどうしようもなく寂しかったの。あの人の地元に越してきたとはいえ、当の本人はすぐに転勤になってしまったし、こっちには私の友人はいなかったしね。誰にも会わずに、話もよく通じない幼い子ども2人と家に缶詰状態。気持ちがどんどん暗くなってイライラすることも増えて、一刻も早く家を出ないと、って焦ってた」

 皮肉にも、母さんの寂しさが僕には理解できた。自分の話を聞いてくれる人のいないテーブル、ぬるいおかずを前にぽつんと座る僕は、果てしなくひとりぼっちだった。

「今思えば、もっと周りに助けを求めたら良かったんだろうけど、当時の私には難しくて。どんなに言い訳しても、由貴にいろんな我慢をさせたことはなくならないわ。本当にごめんなさい」

「母さんの気持ち、聞けてよかった。僕も…ひとりで食べるご飯が寂しいのはよく知ってるんだ」

 外に踏み出すことで、母さんの感じた孤独が紛れたというなら、謝ってほしいとは思わない。けれど、僕の感じてきた寂しさがなかったことになるわけでもない。大人になりきれない僕が余計なひと言を付け足す。

 母さんが次の言葉を探すように視線をさまよわせた。居たたまれなくなった僕は、俯いたまま口を開く。

「課題もできたし、母さんもいまご飯食べたら?」
 小さな声だった。

「…そうね。一緒に昼ごはんを食べるなんていつぶりかしら」
 母さんが眉尻を下げて笑った。




 春子さんとの約束の木曜日、僕はテストが終わってすぐに『better half』に向かった。大通りを歩けば、日の光が肩に乗りかかり風がさらりと肌をなでて初夏の香りがする。少し熱を帯びた肌にひんやりとした路地が心地よい。

「こんにちは。ひと休みセットお願いします」
「こんにちは。由貴くん、いらっしゃい」

 僕は前回今井が食べていたキッシュに、いちごのマフィンを注文した。端によって待っていると、カランコロン、と音が鳴って今井が現れる。

「おつかれー!テスト、やっとあと1日だね」
「おつかれ。ほんと長かった。僕、前と同じの頼んだよ」
「了解。先座ってていいよ」

 春子さんは僕にトレーを差し出してから今井のほうへ戻った。今井はショーケースをみて唸っている。スイーツが決まらないらしい。思い立ったらすぐに行動してきた彼女の、意外にも優柔不断な一面を見た気がする。カフェタイムが過ぎて店内のお客さんがひとり、またひとりと店を出ていく。僕たちはカウンター席に並び、黙々とペンを走らせた。しばらくして、春子さんが僕のところにやってくる。

「由貴くん、仕込み終わったから今話しようか」
「わたしも聞いてていいですか?」

今井が僕の後ろから顔を覗かせた。春子さんが笑顔で頷く。

「ありがとうございます。じゃあ早速」

 僕はもう一枚のレポート用紙を広げ、昨日の質問を春子さんに繰り返した。

「春子さんがこの仕事を選んだきっかけを教えてください」

 春子さんは間をおかずに話し出した。

「私、昔から誰かのために料理をしてるとすごくわくわくして、大切な人のプレゼントを選んでるみたいな気分になれるの」

「素敵ですね」
 春子さんが照れくさそうにはにかむ。

 私の焼いたお菓子が、誰かの人生のおともになってくれたらいいなって願いを込めて『better half』って名付けたわ。もともと食べることが好きで、甘いものを食べると、いつも頑張ろうって思えたし、おにぎりとみそ汁の組み合わせには、あぁ生かされてるなってすごくパワーをもらってた。でも一番の動機は、ひとりでも多くの人に、おいしいものを食べるって、こんなに楽しくて幸せなことなんだって知ってほしい!ってとこかな。

「ある意味、推しの布教活動って感じですね」
 今井がしみじみと頷いた。『better half』の焼菓子はいつもお客さんに誘いかけるようなおしゃべりをする。春子さんの心の奥底にある気持ちに感化されているんだろう。

「そう!まさにそれだわ。『3rd kitchen』はその延長線上みたいなことかな。食べることは生きることっていうのが私の信条だから、誰にでも誰かと生きる場所があって欲しいと思ってできたところだよ」

「食べることは生きること、今の僕にはすごくしっくりきます」

 きっと2ヶ月前の自分では、春子さんの言葉をまったく理解できなかっただろう。誰かと生きる場所があって欲しい、その願いに僕は救われたのだ。

「でも、なんで3rdなの?」

 春子さんは今井の質問に、「持論だけど」と前置きして続けた。

「人生には台所が2つあるのよ。ひとつめは、自分の家族、わかりやすくいうと実家の台所で、原風景っていうのかしね。ふたつめは、実家の次の台所。一人暮らしの手狭なキッチンかもしれないし、友だち、恋人、夫、誰かと過ごすキッチンかもしれない。実家を出ない人も、一緒に立つ人が変われば、その台所の景色も変わると思うの。ライフステージの変化に伴って、生活基盤はガラッと変わってしまう。だからこそ、ここだけはいつも変わらないって安心できる第3の居場所になりたくて『3rd 』、3番目の台所にしたの」

「僕は最近まで、食べることに関心も持たないようにしてました。でも、今井に誘ってもらってこの店に来て、大げさじゃなくて人生が変わりました。ここで一緒に食べてくれる人ができてから、いろんなことに気づけて、食べることは生活の核だったんだって今は思うんです」

 僕は笑ってふたりを見た。今井はまるで「わたしのおかげね」とでも言うように誇らしげに口角を上げる。春子さんも顔をほころばせた。

「由貴くんや杏花ちゃんがおいしそうに食べている姿を見ると、自分までおいしいものを食べたみたいに幸せな気持ちになれるわ。このお店を選んでくれて、ありがとうね」

 そうか、僕は店の前を通れば食べ物の声が聞こえて、店主の思いを知ることができる。けどそれは、それは僕が日常的に食べ物の声を聞いて、『料理の記憶』をのぞいているからだ。『3rd kitchen』も『better half』も、今井やほかのお客さんにとっては、数ある飲食店のひとつで、通う動機も、外観や客層、接客、コスパ、そんな表面的な部分からしか見つけられないのか。それはなんだか、すこしもったいない気がした。

「ここに来るようになってから、食に興味が湧いてきたんですけど、飲食関係の仕事ってどんなのがありますか?」

「そりゃもう、名店のシェフから名前のつかない仕事まで数えきれないくらいあるわ」

 春子さんは、シェフやパティシエのような調理系、サービスや営業に係る飲食店系、管理栄養士やフードコーディネーターのような栄養・管理・プロデュース系、マーケティングや商品開発などの食品メーカーと、指を折りながら大まかに教えてくれた。どれもなんとなくイメージのつく仕事ではあったが、これだ!と思うものもない。僕はもうひとつ、気になっていたことを聞いた。

「ここは『こども食堂』なんですか?」
「この場所を必要としているだれにでも来てもらいたいと思ってるから、そうであっても、なくてもいいと思う」

 この答えじゃだめかな、と春子さんが困ったように言う。僕はずっと感じていた違和感が晴れていくのを感じた。

「いえ、むしろいいと思います!」

 こどもも、大人も、母親も、どんな境界も関係なく、『3rd kitchen』を必要としている人に来てもらいたい。僕は、あのチラシからも、春子さんが伝えたかった気持ちを感じとっていたんだ。春子さんが作りたかったのは、ただこどもが親の帰りを待つための場所ではない。人が人と食卓を囲んで繋がる場所だった。

「たくさん話してくださって、ありがとうございました」
「わたしも、進路のことやる気出てきました。やっぱり好きなことで生きるっていいですね」

「そうね。私も、いろんな思いを聞いてもらって嬉しかったわ。お店をやっていても、お客さんに気持ちを伝えられる機会ってあんまりないから。こちらこそ、ありがとう」

 僕は手早くレポートをまとめた。僕のやりたいことがなんとなく見えたような気がする。ドクンと心臓がはねて、血が沸き立つように体が熱くなった。得体の知れない何かに突き動かされて、焦りのようなものを感じる。頭の片隅で、どこか冷静な自分が水をさすも、火はすでに消せないほど燃え立っていた。

これは僕だからできることだ

 テスト勉強も早々に切り上げて、軽やかな興奮をおさめられないままに店を飛び出した。今井とは明日のお昼を学校で食べる約束をしている。『3rd kitchen』を出てからは、スパコンでも頭に飼っていたのかと言うほど、思考がぐるぐると巡った。

 ひとの思いは目に見えない。食べ物の声が聞こえたとしても、僕には見えていないものがたくさんあった。誰にも届かないまま埋もれてしまっている思いを届けたい。僕が母さんや春子さんの思いに救われたように、僕も誰かを救えるかも知れない。

6.


 金曜日午前6時、中間考査最終日

 僕はぱっちりと目を覚ました。手も足もまだ眠っているようにあたたかいのに、意識だけは随分前から起きていたようにはっきりとしている。身支度をすまして台所に向かう。これまでなら、弁当のストックがない日は、コンビニのおにぎりとみそ汁で完結していただろうに、僕は人生で初めての弁当作りに取りかかった。

 まずは冷蔵庫を開けて、目当てのものを探す。観音扉の右上に赤いラベルのボトルがひときわ存在感を放っているように見えた。焼肉のタレだ。卵、キャベツ、ほうれん草、ウィンナー、豚肉、目についた食材をテーブルの上に取り出す。豚肉を切って、包丁を洗って、手も洗って、野菜も洗って切って、ウィンナーを切って、また包丁を洗って…どう考えても効率が悪い。まるで初心者だ。

スマホで調べた感じでは、焼肉のタレがあればどうにかなりそうだと思ったんだが…僕は早くも投げ出したくなった。野菜と肉にワタワタさせられているうちに、先に焼きはじめた卵が焦げだした。卵焼きは諦めよう。残りの卵をフライパンに流し込めば、じゅわっと音がして一瞬でかたまり始めた。菜箸!なんで先に用意してないだよ!

ガリガリとフライパンの底から卵をこそげ取って、茶色っぽいスクランブルエッグができあがる。年季が入ったフライパンには焦げが残っていて、普段は大した洗い物をしない僕にすら、相当やっかいな相手だとわかった。このまま使おう。

焦げの上から油を垂らし、さらに焦げついていく卵だったものを見守りながら豚肉と野菜を投入する。肉の色が変わったのを見て焼肉のタレをかけると、また急に火の通りが速くなった気がして、慌てて皿にあげた。

流石にこのままウィンナーを焼けば、タレだけがどんどん焦げていくのはわかるぞ。頭に浮かんだ「めんどくさい」を全力で押しのけて、僕はフライパンを水で流した。洗剤をつけたスポンジでごしごしこする。

たかが弁当一食分にこんなに手間がかかるとは、僕は完全に料理を舐めていた。記憶の中で妹の非難の視線が突き刺さる。どれくらい焼けばいいのかわからないウィンナーに後ろ髪を引かれながら見切りをつけて、弁当は完成した。

 早起きしたはずが、なんとかギリギリ間に合う時間になってしまった。いつもの1.5倍速で通学路を進み、チャイムが鳴り終えてから教室に入る。考査期間中はホームルームがないからセーフだ。サチローが驚いた顔で話しかけてきた。

「いや、ギリギすぎじゃね?由貴休みかと思ったわ」
「弁当作ってた」
「はぁ?」
「だから、弁当作ってた」
「もしかして明日雪降るんかね、由貴だけに…」
「うるさいよ」

 サチローがうまくものを飲み込めないような、変な顔をしている。

「食べられたらなんでもいいぐらいのノリだった由貴が弁当ねぇ、どういう心境の変化デスカ?」

 最近よく言われるセリフだが、心持ちが変わったと言うよりは、本来の欲求に素直に従うようになったのだ。その結果のことだろう。

「たぶんエネルギー総量が増えた」
「よくわかんねぇけど、よかったな」

 いつもは腹立たしく感じていたサチローの笑みに、僕は笑い返した。



 テストを終えて、お祭り騒ぎの教室を抜け出す。職員室に向かえば、池江はすでに座っていて、朝提出したレポートを読んでいるようだった。隣に座ると、池江が自信ありげににやりと口角を上げた。

「どうだった」

 ただめんどうだと思っていた池江の課題に、まんまと助けられてしまった。掌で転がされているようで、なんだか癪だと思いながらも、僕は昨日考えたことを話した。

「人の思いを言葉にする仕事がしたいなと思いました」

 それがどんな仕事なのか、僕にはまだわからない。でも「思いを言葉にする」と言うことが、僕の原点になる気がしたのだ。

「思い?」
「人の思いは目で見えません。見えていなかったものを目に見える形でレポートにまとめるっていう課題そのものが僕に楽しかったです。母さんがどんな気持ちで働いていたか、どうしてそんなに仕事が好きなのか、僕は全然知りませんでした。もう1人、春子さんの仕事やお店への思いも、もっとたくさんの人に知ってほしいと思ったんです。ただ、具体的にどんな仕事があるのかは思いつきませんでした」

 池江が少し考える素振りをみせる。

「そうだな、編集者なんかはどうだ」
「…編集者」

 僕は、まだしっくりこないその言葉を復唱する。

「漫画家とか、小説家の締切の催促をする人ですか?」

「そういう編集者じゃなくて、情報誌の編集者が向いてると思ったんだ。浅野がどんな思いを届けたいと思っているのかはわからんが、誰かの言葉をまとめて世に出す媒体としては雑誌や新聞、Web記事が主流だろう」

 雑誌の編集者…。確かに、それなら自分の関心のある分野に集中することもできる。自分ではまったく思い至らなかった仕事だ。

「もちろんライターや、小説家、広告業界、言葉を扱う仕事は他にもある。ひとまず進路は大学進学で、最初に言っていた通りK大でいいだろう」

「何学部ですか?」

「就職するとき、多くの仕事が学部は不問だ。医学や薬学みたいな特定の分野でなければならない職業もあるが、その一部を除けばどんな学部で学ぼうと関係ない。一番大切なのは、そこで学んだことが就職先でどう活かせるか。人の思いを言葉にしたいという浅野の動機を鑑みるに、言葉について学びたいなら文学部が妥当だが、哲学、経済、教育、理工、何学部でも構わない。そこはもう少し時間をとって考えてみよう」

 そう言われて素直に「考えよう」と思った自分に驚く。やっぱり、おいしく食べるようになってからの僕はどうにかしているかもしれない。

「正直、動機が定まるだけで、こんなに違うとは思いませんでした」
「そうだろう。だから、やりたいことがあるやつは強い。受験も、就職もな」

 池江はまっすぐ僕の目を見て言った。



 今井はこの間と同じ教室の窓からグラウンドを眺めていた。運動部のはつらつとした声が飛び込んでくる。穏やかな風が教室を吹き抜けて、新緑の匂いが一段と濃く香った。

「昨日はすごく考えてるみたいだったけど、進路は定まったの?」
「とりあえず、進学先はK大を第一志望にした。やりたいことが見つかったんだ。長くなるけど聞いてくれる?」

「もちろん、今日はそれを聞くためにわざわざ学校に残ったんだし」

 今井は窓際の椅子を引いて腰掛ける。

「人の思いを言葉にする仕事がしたいんだ。池江は編集者とかはどうかって言ってたけど、まだわからない」

「なんか意外ね。飲食系じゃなくてよかったの?」

「いや、いろんな飲食店を見て回って、お店の人に話を聞くのはおもしろいだろうなと思うよ」
 僕は池江がした説明と同じようなことを今井に伝えた。

「そういう感じかぁ。食べる側でも、食べてもらう側でもなくて、もっと直接おいしいご飯を布教して行きたいってことね」
 今井の言葉を聞いて、春子さんに教えてもらった仕事がピンとこなかった訳がわかった。

「食べることに関心がないふりをしてきただけで、僕はたぶん本当はすごく食べることに貪欲なんだ。今井と弁当のことを話さなかったら一生それに気づかなかったかも」

「わたしのお弁当のこと?そういえばあたたかいとかなんとか言ってたっけ」

「今井は何が詰められてても、弁当はあったかいって気づくきっかけをくれた。手作りでも、そうじゃなくても、そこに母さんたちの思いはちゃんと詰められてたんだ」

 いつだって、彼女は僕が見えていないものを見せてくれる。特別な能力がなくても、すべては受け取る人の心持ち次第だ。手作りじゃない弁当にも思いやりはある。

「僕は誰の気持ちも見えてなかったからこそ、見える形で、必要としている人に届いてほしいと思う。『3rd kitchen』のチラシを見たとき、『みんなでワイワイがたのしい』って言葉に引かれたって言ってただろ?」

 省エネ主義でめんどくさがりの僕を最初に動かしたのがそのたったひと言、春子さんの食事への思いだった。

「春子さんの言葉が僕の力になったみたいに、誰かの思いが毎日退屈している人や、疲れている人の力になるかもしれない」

 僕が言葉を重ねるたびに、今井が深く頷いた。

「なんか、納得した。初めて『3rd kitchen』にいったときとは別人みたいね」
「自分でも驚いてる。生まれ変わったかと思うぐらい、いまはやる気に溢れてるから」
「編集者、意外だと思ったけど、経験したからこそ語れる言葉が浅野にはあるんだって今わかった。ぴったりだと思う。大人になったら『3rd kitchen HARU』に正式に取材に行かないとね」

「うん、それがすごく大きな目標になりそう」


 僕たちは、どちらからともなくふたつの机を寄せ合った。あたたかな食事を燃料に、腹の底から気炎が上がる。生きることは食べること。よく食べることは、よく生きることを肯定してくれる。おいしく食べることができるようになったからこそ、明日を喜んで迎えられるようになった。もし、編集者にならなかったとしても、僕は、この春を一生忘れないだろう。

エピローグ 


20XX年 5月X日火曜日 午前6時 

 今年のゴールデンウィークは、3連休と4連休のあいだに3日間の平日をはさむ。由貴は、初めの連休に地元に帰り、休み明けの火曜日、『3rd kitchen』の営業日を狙って半年休をとった。幸い、由貴の実家である茨城県と職場のある東京は電車で1時間半ほどの距離だ。『3rd kitchen』で朝ごはんを食べてから出社するつもりで、スーツを着て開店時間ちょうどに店のドアを引く。通勤前に『3rd kitchen』で朝ごはんが食べられるなんて最高だ。

「おはようございます」

「おかえりなさい、由貴くん!忙しいのにわざわざ顔を見せにきてくれてうれしいわ」

 カウンターの上には先月号のLiveがディスプレイされている。付箋が貼られているのは、この店のインタビュー記事だろう。お客さんが手に取ってくれたのか、表紙は少しくたびれて皺ができていた。

今日のおにぎりセット
・お豆ご飯 だし巻き卵のせ
・のりたまおにぎり
・新玉ねぎとみょうがのみそ汁

「連休明けたらまたばりばり働きたいんで、春子さんのおにぎりでエネルギー充電しにきました」
「連絡もらってたから、ばっちり今日はお豆ご飯よ!」

 由貴は照れたように笑ってテーブルについた。

 おにぎりとみそ汁はすぐにやってきた。鰹出汁の香りが、みそ汁からたちのぼる湯気にのって由貴の鼻腔をくすぐる。すぅっと吸い込むと、鰹だけではない、なにかべつの匂いがした。深い森の中にいるような、どっしりとした存在感があるのに、なぜかすっきりとする匂いだ。

「あれ、出汁かえましたか?」
「みょうがの匂いかしら。すーっとするでしょ?みょうがにはマツやヒノキと同じ香り成分があって、興奮やストレスを落ち着かせてくれる効果もあるみたい」

 由貴はひとくち、こくり、とみそ汁を飲んだ。鼻から抜けるさわやかな匂いが食欲を刺激する。いつものみそ汁に香味野菜が入るだけで、こんなに変わるものか。続いて豆ご飯にかぶりつく。太った豆のねっとりした甘さに、塩気の効いたご飯が絡んでたまらない塩梅だ。じゅわっとだしが染み出す卵焼きを一緒に口に運べば、一段とまろやかになった。懐かしい、でも高校のときに食べたよりもずっと味わい深いと感じる。

 由貴は心の落ち着くやさしい味に、みるみる体が元気になるのがわかる。体の中心からぽかぽかとしてきて、体の力みが自然ととれていくのだ。

「雑誌が出てから、お店は忙しくなりましたか?」
 由貴は気かがりだったことを聞いた。

「そうね、3rd kitchenのほうは近所のひとが興味を持ってくれて、畑で作った野菜なんかをくださるようにもなったし、関西のほうの米農家さんがうちの米使いませんかってわざわざ電話をかけてきてくださって」

 嬉しそうな声に、由貴はほっと胸を撫で下ろす。この店の穏やかな空気が失われてしまってはいないかと心配していたのだ。

 最後の一粒まで丁寧に掬い上げ、由貴は手を合わせる。

「ごちそうさまでした!また来ます」
「今週も頑張りましょうね!いってらっしゃい」
 明るい笑顔に見送られて由貴はドアを押した。


カランコロン

 ぬくもりを感じる音が記憶のなかで重なる。入口から少し離れたところに、懐かしい制服を着た少年が立っていた。こちらをぼうっと見ている様子に、由貴は少し近づいて『3rd kitchen』を指さす。

「ここ、すごくおいしいよ。よかったら」
「…今日は、時間がないので、また…、来ます」

話しかけられると思っていなかったのだろう。少年が言葉を詰まらせながらも、ぺこりと頭を下げて去っていった。

 5月の青い風がそよぐ。
 由貴は足取りも軽やかに、駅へ向かって歩き出した。

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