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CALLING [小説] (2/3)

第2章

3.

 今井と店を訪れてから、外食はめんどくさいと思っていたのが嘘のように、3週連続で店に通い続けている。まるで中毒を起こしたみたいに、あたたかいおにぎりと具沢山のみそ汁が欲しくなって、そのあたたかいのを食べると、不思議なくらい自分の体が軽くなるのだ。
 僕がちょうど『3rd kitchen』から帰ってすぐのことだ。普通の勤め人なら帰宅するはずの時間に、これから出勤だという母さんに呼び止められた。

「由貴ー?最近おかずがあんまり減ってないけど、どこかで食べてるの?」
「2号線の北側にできた食堂で食べてる」
「なんていうお店なの?」

「…3rd kitchen HARUってとこ」
 僕は一瞬答えに迷った。『3rd kitchen』を「こども食堂」だと言った今井の言葉がよぎったからだ。僕が「こども食堂」に通っていると明言するのは、この家の現状を認めるみたいで嫌だった。

「あぁ、あのクッキーのお店ね」
「…知ってるんだ」
「机の上に置いてたでしょ?先月の初め頃だったかしら」

 母さんが「すごくおいしかったわ」と笑った。そりゃそうだろう。思いが込められた焼きたてクッキーだったはずだ。どんどん口が重たくなる僕に対して、母さんは笑顔だ。better halfのお菓子は、勤務先の病棟の看護師さんの間でも話題になっていたそうだ。

「あまり遅くならないようにね。もし時間が合えば、由佳ゆかも連れて行ってあげて」

 その一言に僕は思わずかっとなった。やっぱり、母さんは『3rd kitchen』にどんなこどもが集まっているのか知っているのだ。それで妹を連れて行けって、俺たちの夕飯を気にかけるなら、自分がもっと早く帰ってきたらいいじゃないか。僕は母さんを無責任だと思わずにはいられなかった。

 浅野家の食事はかなり昔から冷凍、もしくは冷蔵を温める仕様だった。妹と食事のタイミングが重なることは度々あるが、食べているものは別だし、母親と食卓を囲ったのがもういつだったかも思い出せない。派遣看護師をしている母親は、普段は病棟勤務で、シフトを調整してはツアーの添乗や、学校看護など、文字通り休む暇なく働いている。妹がひとりで留守番できるようになると、母親の仕事への熱意にさらに拍車がかかった。好きで忙しくしているんだから止めようもない。少しは家庭を省みてはどうかと諌めるはずの父親は単身赴任中で、家事は滞りがちだ。不規則な時間に帰宅しては台所に立ち、おかずをまとめて作って保存しているらしい。あのしゃべらない弁当だって、タッパーに一食分のおかずがセットされて冷凍庫に並んでいる。

 そもそも母さんには夕食に間に合うように帰れなくて悪い、という意識すらないのではないかと思う。そこまで考えて、僕は母親に「申し訳ない」と思ってほしいのかと気づいてしまい、どうも気持ち悪くなった。

 不意に、ぬるい唐揚げの味を思い出す。夕飯どき、冷凍されたおかずを電子レンジに放り込んでは、僕がオレンジの灯りをぼうっと見つめている。

 僕は、なぜ自分が『3rd kitchen』に引き寄せられたのわかった気がした。

 ♢

 ゴールデンウィークが明けたその次の日は、二者面談に呼び出されていた。職員室前に並べられたテーブルで、パイプ椅子に座って弁当を食べていると東側のドアから池江が顔を覗かせる。

「おっ、来てるな。じゃぁ、食べながらでいいから進めるぞ」

ひとり頷いた池江が机の上に何枚か資料を並べ、空欄だらけの進路調査票を指差す。

「学力的にはどの大学もあともう一歩というところだ。共通テストまでの対策次第で狙えないこともない。浅野の第1志望はK大だが、何か興味のある学部でもあったか?」
「特にありません」
「じゃあ将来的につきたい職種とかは?」
「特にありません」
「僕は受かった大学に行くつもりなので、面談とか進路指導とかなくてもいいですよ」

池江は困ったように笑う。

「大学選びだけが進路指導じゃないんだ。まあ、大人のうざい説教ぐらいに思って聞いてくれ…」


 俺が教師になったのは、両親が教師で馴染みのある職業だったからだ。教師になってすぐに、何のやりがいも感じられなくて後悔した。だからと言って、職を変えることには踏み切れなくて、でも教師を続けたいとも思えず、ずっと消化不良だったんだ。そんなときに、同じような思いを抱えていた同僚が教師を辞めてカフェを開くっていうんだ。何でかって聞いたら、自分が働くようになって、やっと社会が数えきれないくらいのたくさんの仕事で回ってることに気づいたって、やりたい仕事にいまさら出会えたって言う。それを聞いたとき、俺にも教師としてやりたいことができた。高校生の俺と同僚が知ろうとしなかった社会を、もっと今の高校生に見せてやりたい。君らにはこんなに可能性があって、できることもたくさんあるってことを知らしめてたい。大人になると、生きていくには働かなきゃいけないが、生きるために働くんじゃなくて、働くために生きてるって言えるぐらい、生きがいのある将来を選択してほしい。そう思ってから、教師の仕事が嫌じゃなくなったんだ。
 「豊かに生きる」って最初に言ったの覚えてるか。「好き」が身近にあれば、ただ同じ毎日を惰性で繰り返すんじゃなくて、いつも発見の連続で、1日が24時間じゃ到底足りないと思うんだ。


 母さんは働くために生きているんだろうなとぼんやり思った。母さんが仕事に向かう様子は、記憶の中で台所に立っているときよりも楽しそうだ。小学4年生ぐらいに、それを目の当たりにしてからは「早く帰ってきて」と言えなくなった。池江や、池江の元同僚、母さんが過ごしているという生きがいのある日常とやらは、そんなに素晴らしいものなのだろうか。

「生徒には俺なりに「よりよく生きる」方法をを勧めてきた。意味もなく働いて、給料をもらって、それでどうなる。そこで得た金になんの価値もない。自分の感情が揺さぶられる経験をするんだ。自分らしい、主体的な生き方を探してみろ」

池江は真剣な顔をして僕を見た。僕だって好きで惰性で生きてるわけじゃない。

「探すって言ったって、ほんとにやる気が出ないんです」
「まずは好きなことを見つけろ」
「何もしたくないときはどうすればいいですか?」
「何もしないのが好き、じゃないんだったら、最近気になってることとかその辺りからじっくり考えるんだ」

 じっくり考える、苦手だ。

「人生に迷える子羊には、特別課題をやろう。大丈夫お前だけじゃない、渡したやつは他にもいる。このレポート用紙の質問に沿って、身近な大人の話を聞いてこい。中間考査前に提出してくれ。そうだな、2人ぐらいが妥当だ」

 池江が2枚のレポート用紙を寄越した。僕は心底嫌そうな顔をしていたと思う。

「これはうちの奥さんの受け売りなんだが、つめたいものばかり食べている人は、どんどん冷えてパワーがでなくなる。あたたかいものをたくさん食べている人は、体の底から力が湧いて毎日を素敵に生きられる、らしい。弁当を食べてるお前は、ちゃあんと向き合う力があるさ」
「僕の弁当は冷たいですけど」
「どんな弁当もあたたかいもんだよ」

 弁当が僕のため息を受けとめた。面倒な課題を貰ってしまった。ネットから引っ張ってこようか。そういえば前もそんなことをした気がするな、特になんの感慨も湧かなかったから今があるんだろうけど。

4.

 面談の次の日の放課後、僕は今日も『3rd kitchen』に行くつもりで、放課後の時間を潰していた。

「ねぇ、杏花のお弁当ってさ、絶対手作りじゃないよね」
「そりゃそうでしょ、見たらわかるじゃん」
「いちいち買ってきたやつ詰め替えるとかキモすぎない?普通にそのまま持ってこればいいのに」

 聞こえてくる話し声に、僕は教室のドアを開ける手を止める。友人の弁当をそんなふうに貶すなんて、まったく女子とは残酷な生き物だ。『料理の記憶』が見えていない彼女たちにも今井の弁当は出来合いのものだとわかるのか。だとしたら今井は?今井も出来合いのものを口にしては冷たさを感じているんだろうか。普段の明るい様子からは想像もつかないことだ。でも僕は、心のどこかで「そうだといい」と思ってしまった。

 校舎を出れば、ぽつりと頬が濡れる。予報では夜からだったはずなのに、タイミングが悪いな。我ながら、傘を持っていくのをめんどくさがった朝の自分が憎い。細かい雨にじっとりと濡れて、『3rd kitchen』にたどり着いた頃にはカッターシャツが腕に張り付いていた。僕は寒さにふるりと体を震わせた。5月に入ったとはいえ、日が出ていない夕方は気温が下がる。

今日のおにぎりセット
・菜の花と桜エビのおにぎり
・サラミと炒り卵のおにぎり
・あさりのみそ汁 
※今日は豚汁もあります


『朝晩はまだまだ寒い!豚汁であたたまろ~』

 豚汁!タイミングが悪いなんて気のせいだったみたいだ。

「こんばんはー、おにぎりセットください。豚汁で」
「あら、由貴くん、雨に降られちゃった?すぐに出すね」

 何度か通ううちに、店主の春子はるこさんはすっかり近所のおばさんみたいになった。春子さんは僕のことを、由貴くんと呼ぶ。彼女はまさに、この店の『料理の記憶』を体現したみたいな人だ。お客さんが少ない日は、テーブルが寂しくないようにと、春子さんも一緒に夕飯を食べる。彼女はいつも出来立てのおにぎりとみそ汁で、冷えた僕たちの体を十分に温めてくれた。

 カランコロンと、ドアが鳴って今井が駆け込んできた。

「こんばんはーって、浅野じゃん。ひとりで来れたんだ」

 僕を見つけて今井がにやける。顔が熱くなるのを感じた。

「あれからもう何回も来てるよ」
「そうなんだ。私はまだ2回目ー」

 そっけなく言い返した言葉が妙に幼く聞こえる。今井はなにも思っていないように返事をした。カウンターの春子さんにおにぎりセットを注文し、一席開けて僕の隣に座る。

「ふたりとも、どうぞ!」

 菜の花の緑と、桜エビのピンク、たまごの黄色、テーブルが一気に明るく、賑やかになった。

「はぁ、しみるなぁ」
「やっぱり体にいい味がする」

「杏花ちゃんだったよね。旬の食材ってすごいパワーがあるからもりもり食べて!お汁はおかわりオッケーだからね!」

 最初に来たときにした自己紹介を、春子さんはちゃんと覚えていた。こういうところがすごいと思う。積極的に人と関わるのはめんどうだと思い続けてきた僕とは大違いだ。

 皿の上でも、おにぎりたちが旬を食べろ食べろと猛プッシュしてくるので、僕は思わず聞き返した。

「どんなパワーがあるんですか?」

「薬膳の考え方では、自然がその季節に用意してくれた野菜を摂れば、ひとの体もその季節に合うように切り替わっていくって言われているけれど。シンプルに、旬のものって、そのとき一番生き生きしてる食材だから、それを食べれば元気にならないわけがないじゃない?」

「だからか~。わたし、季節の変わり目ってよく体調崩すんですけど、ここのご飯食べて帰った日、すごく調子が良かったんです」

「気のせいかもしれないけど」と今井は付け足した。今井は春子さんの『料理の記憶』をしっかり受け取ったんじゃないだろうか。

「僕は正直、薬膳の話は迷信的なものだろって感想なんですけど、春子さんのご飯食べたら元気になるのは間違いないです」

「由貴くんらしいね。でも嬉しいなあ。あしたの仕込みも頑張れそう!ちょっとキッチンに戻るね」
「すみません。話し相手させちゃって」

 春子さんがカウンターの奥に引っ込んだのを見て、僕はつぎにこの店で今井と会ったら聞きたいと思っていたことを口にした。

「今井はさ、なんで僕をここに誘ったの」
「できたてを食べたかったの」
「できたて…」
「できたてって、絶対にあったかくて、フレッシュ感満載で弾ける美味しさでしょ」

 今井が言わんとすることは痛いほどわかった。

「あのチラシを読んだときに、ここならきっとあたたかいご飯が食べられるって思った。浅野はわたしの噂聞いたことある?」

 僕はなんと言うべきかわからなくて口を閉ざした。

「その顔、知ってるって顔だ。わたしもね、ママがお惣菜とか買ってきたサンドイッチをお弁当に詰めてるの知ってたんだ」

 今井はいつもより少しだけ落ち着いた声で続けた。僕が気づいたのは『料理の記憶』のおかげだし、今日たまたま女子の会話を耳にしたからでもある。彼女は僕の返事を待たず、呟くように話を続けた。

「お弁当だけじゃなくて、朝ごはんや夜ご飯もほとんど買ったもので、それをわざわざお皿に移し替えて並べてくる。昔はきっとそうじゃなかったのに、気づいたらいつのまにかそんなことになってた。本当は嫌だけど、親が取り繕ってることって指摘しづらいよね、良かれと思ってやってるから、なおさら」

「お惣菜使うのに、良かれもなにもなくない?」
 僕だったら、作るのがめんどうだから、という理由が真っ先に思いつく。

「ママなりの思いやり、だと思う。わたし、昔は偏食がひどくてあれもこれも嫌だって拒否してたんだけど、キャラ弁とか、飾り切りとか、とにかく見た目が楽しい料理なら食べてたんだって。ママは不器用だから、料理自体苦手で、出来合いのものに頼るようになっていったみたい。今も彩りがよくてきれいに盛り付けられたお惣菜とかを選んでくる。もうママの手料理でも食べられるのにね。お惣菜の楽さに慣れちゃったってのもあるとは思うけど、隠すってことは後ろめたいことしてる自覚もあるみたいだし、娘的には言いづらいよ」

 今井の弁当は今日も静かだったが、彼女はそれを自分のために作られた弁当だと言う。僕にとって、しゃべらない食べ物は、思いが込められていない食べ物だ。それなのに今井は『料理の記憶』を持たない弁当から、母親の思いやりを感じている。僕は池江の言葉を思い出した。

「…どんな弁当も温かいらしい。もしかして、僕の弁当もそうなのかな」
「いや、知らないけど」

 今井はもういつも通りだったが、やっぱり僕たちはこの店に来ると少ししゃべりすぎてしまうみたいだ。

「もうずっとママの嘘に付き合ってるの。だからたまに健康的で出来立てのご飯が恋しくなる。お惣菜ってさ、基本濃い味のはずなのに、急に味気なく感じる時あるんだよね。だからお小遣いの範囲で通えるお店をさがしてた」
「それで『こども食堂』?」
「そう、バランスのとれた出来立てご飯が安く食べられるかなって思って。ま、実際来てみたらかわいいカフェみたいな店で気に入っちゃった。焼菓子もすごくおいしいし」

 今井がこの店に来たがった理由はわかった。今井は、あのチラシの「こどもがひとりでこれる食堂」というところから『こども食堂』を連想し、そこなら自分の求めているご飯に出会えると考えたのだ。それでも、僕はまだ、今井がここを『こども食堂』と呼ぶことに、喉に小骨が刺さったみたいな違和感を感じて、うまく飲み込めずにいた。

「浅野はなんでここに来たの?」
「僕も、オープンのチラシを見て気になってたから」
「学校にまで持ってきてたもんね。おかげでいい店に出会えたけど」

「あれは、たまたましまったところが通学カバンだっただけだって」
「何が気になったの?意外と甘いもの好きとか?」
「何がって、」

 しばらくしてから気づいたことだが、あのチラシは『3rd kitchen』だけでなく、『better half』の紹介もされていた。最初に手に取ったときにざっと目を通したはずなのに、記憶から焼菓子のことが吹き飛ぶくらい、『3rd kitchen』の紹介文を読んだときの衝撃が大きかったのだ。ほかの文字よりも大きく、白抜きされた言葉が頭から離れなかった。

「…言ったら馬鹿にされそうだからやめとく」
「それはフェアじゃないじゃん。教えなよ」

 確かに彼女は、誰にも知られたくないだろう秘密を僕に打ち明けた。鋭い視線を浴びて、僕は何度か口を開けたり閉じたりすることを繰り返した。

「『みんなでワイワイが楽しい』って書いてあっただろ」
「あんまり記憶にないわね」
「あっそ、」
「それだけ?!なんにも分からなかったんだけど」

 僕の心を揺さぶったあの言葉は、彼女の頭の片隅にもひっかからなかったらしい。確かに簡素でありふれた表現だ。でもその凡庸さが、みんなで一緒にだべる食事を当たり前にしてくれるみたいで、いいな、と思った。きっとあの言葉は春子さんが書いたんだ、春子さんの真っ直ぐな気持ちが文字から飛び出して僕の胸に刺さった。

「つまり浅野はワイワイしたかったってこと?」
「そうだけど、そうじゃない」

 自分があえてぼんやりとしか認識していなかったことを、はっきりと言葉にされると、とてつもなく恥ずかしく感じる。

「僕の家、みんなご飯の時間がバラバラなんだ。食べるものも、だいたい作り置きの冷凍おかずでなんか寂しいと思ってたみたい」

 僕は誤魔化すように、へらっと笑った。

「みたいって、ずっとスマホおともにご飯食べてるってこと?そりゃ寂しいでしょ。その日ムカついたことを聞いてくれるひともいないし、楽しかったことを聞かせてくれるひともいないんだもん」
「僕、普通なのかな」
「はぁ?」
「こういう考え方、子どもっぽいって言われると思ってた」
「誰だって寂しんじゃない?ずっとひとりでご飯を食べるのは。いつか慣れたとしても、誰かと囲むテーブルの良さが失われるわけでもないし」

「そっか。僕今日は今井とご飯食べれてよかったよ」

 話に区切りがついたころ、ふたりとも手元のご飯はすっかり完食していた。



 次の週の火曜日は、朝から春子さんのところへ行くつもりで、うちでは朝ごはんを食べなかった。それなのに、夜勤のはずの母さんが店の中で春子さんと話しているのが見えて、僕は店に入るのをやめた。

 学校には朝練の生徒よりも早く学校に着いてしまった。母さんは、なんで『3rd kitchen』に居たんだ。やっぱり『3rd kitchen』がどんなところか知っているんじゃないだろうか、その考えがぐるぐると頭を行ったり来たりしていた。ホームルームが始まっても、いつも以上にいろんなことがめんどくさかった。中間考査1週間前だというのに、気がつけば授業中はずっと眠っていて、ぼんやりとする意識のなかで、放課後は絶対に『3rd kitchen』に行こうと決めた。


今日のおにぎりセット
・筍と油揚げの炊き込み おにぎり
・ふきとじゃこのまぜご飯 おにぎり
・新玉新じゃが、わかめのみそ汁


 奥のテーブルでは、子どもたちが算数や国語のドリルを開いている。しかしいつものように宿題に向き合うのではなく、目をキラキラさせて春子さんのほうを見ていた。

「こんばんは」
「あら、由貴くん、いらっしゃい。いいところに来たね!」

 春子さんが、こんがり焼き目のついたパウンドケーキを乗せたお皿を持っている。

「今日はこの子を出すのをすっかり忘れちゃって。せっかくだから、みんなのおやつに食べてもらおうと思って、ちょうど切っていたところなの。早いもの勝ちだから、由貴くんもよかったら食べてね」

 春子さんが、自分の焼いたパウンドケーキを「この子」と呼んだのを聞いて、僕はクスリと笑ってしまった。春子さんの焼くお菓子は、よくしゃべるし、食べる人の幸福をいつも真っ直ぐに祈っている。本当に春子さんの子どもみたいだ。
 テーブルの上に置かれたケーキを、フォークで一口すくった。しっとりとした口当たりにふんわりとバターが香る。甘い。

「あの、朝のことですけど、母が来てたのを見ました」
「そうなの?寄ってくれたらよかったのに!いつもありがとうございますって、挨拶して、丁寧に名乗ってくださったよ」
「何でわざわざ来たんでしょうか」
「由貴くんのことが心配だったんでしょ」

 まるでそれが当然だと言うように、大人は親の愛を押し付けてくる。でも自信を持ってそれを証明できるものを僕は何一つ与えられていない。母が僕を心配している、と言う春子さんの推測を、僕は否定も肯定もできなかった。代わりとばかりの文句がどんどんと溢れ出る。

「そうでしょうか。母はいつも仕事が一番なんです。家のことも最低限で、ご飯はいつも冷たい。ひとりでテーブルに座ると疲れがどっと押し寄せてきて、でも何度も文句を言ってやろうと思っても結局めんどくさくなって適当に流してしまう」

 僕は自分が何を言いたいのかもわからないで、思いついたまま春子さんに投げつけていた。

「たぶん由貴くんはもっと甘いものを食べたほうがいいと思う」
 春子さんは真面目な顔をして言った。春子さんは、スイーツを食べればどんなに疲れていても元気が出るらしい。

「僕はそこまで甘党じゃないですけど」
「私にとっては甘いものだけど、由貴くんにとってはなんだろう。どんなに食べ物に関心のない人でも、おいし〜って感じる瞬間がないと、生きていく力が出ないと思うの」

「由貴くんが、おいしいって思うものはなにかな」と言いながら、春子さんは首を傾げた。

 僕はテーブルを見渡す。向こう側に座るこどもたちが、嬉しそうにパウンドケーキを頬張っていた。暖色のダウンライトに照らされたメインテーブルは、いつもいろんな人に囲まれてさざめいている。近くの小学校に通う颯太そうたくんは火曜も、木曜もお母さんが迎えにくる20時まで、静かに宿題をやり続ける。火曜日の18時を過ぎるとやってくる北川さんは、菜の花が好きでこの前のおにぎりは彼のリクエストらしい。彼はいつも春子さんに仕事の愚痴を聞いてもらっている。僕の家の近くに住む木多きだのおじいさんは、おばあさんが先に亡くなってからずっと姿を見ていなかったけれど、この食堂に通い出してから、小学生の話し相手になっているのをよく見かける。一人暮らしをしている大学生の日下部くさかべさんは、この間、大学の先輩だといういい感じの男の人を連れてきていた。それから新参者の今井と僕も、ここに集まる人に囲まれながらお互いの日常の一部になった。

あたたかな『料理の記憶』を受け取って、誰かと一緒に食べるご飯はおいしい、と思う。

「じゃあ、今日は特別に2人分のおにぎりを握るから、持って帰って食べてみよう。たしか、妹さんがいたわよね」

 僕は春子さんに押し切られるかたちで店を出た。誰かと食べるご飯をおいしいと思えるのなら、なぜ弁当の時間が苦痛なのだろう。いや、本当はわかっていて考えないようにしてきた。僕は、『料理の記憶』に苦しめられているんだ。静かな弁当は自分が母親になおざりにされているということをはっきりと突きつけられているようで苦しかった。じゃあ妹は、『料理の記憶』が見えない由佳は、母さんのご飯をどう思っているんだろうか。

 僕が家に着くと、制服からジャージに着替えた由佳がキッチンに入ってきた。ちょうど今から夕飯のようで、冷凍庫を漁りながら今日のおかずを選んでいる。

「おかえりー。にいちゃんもなんか食べる?」
「いや、いい。あのさ、由佳は母さんの弁当、おいしいと思うか?」
「普通なんじゃない?弁当って冷たいからそもそもあんまり好きじゃないし」
「じゃあ、あっためられたらいいのか」
「あっためられたら、冷たいままよりはおいしいと思うよ」
「じゃあ、ほかのやつの弁当と比べてみてとどう思う?」
「なに、なにが言いたいの?」

 僕は、どんな答えが帰ってこれば満足なのか自分でもわからなかった。由佳が取り立てて不満を感じていることはないみたいだ。やはり、僕は『料理の記憶』に苦しめられているらしい。母さんの作り置きが『料理の記憶』を持たないことを知らなければ、まわりの弁当と母さんの弁当を比べられなければ、きっとなんの関心も抱かず冷たい弁当を食べられただろう。僕がなにも答えずにいると、由佳があからさまにため息を吐いた。

「自分で料理しないにいちゃんは知らないかもしれないけど、毎週分作り置きするのって結構大変なんだよ」
「じゃあ、作り置きせずにご飯の時間までに帰ってこればいいじゃないか」
「にいちゃんにはさ、母さんがどんなふうに見えてるの?」

「仕事にかまけて家のことを疎かにしている母親」

 自分の吐いた言葉がひどく幼稚に聞こえる。

「忙しくてもご飯を作っておいてくれる母さん、ていうふうには見れないのかな。母さんだって、やりたいことのひとつやふたつあるでしょ。それがたまたま仕事ってだけで」

 また「やりたいこと」だ。心臓のあたりがぎゅうっと絞られるように痛む。僕たちはそのための尊い犠牲だとでもいうのか。

「私も部活やりたいから、早く帰って家のことをするのは嫌だし。冷凍だろうとなんだろうとありがたいよ」

 妹は、『料理の記憶』が見えないから、あれをまともな家庭のご飯だと思っているんだ。何も聞こえない、何の温度もない冷たく凍っているのに。こんなにも、虚しい気持ちになっているのは、家族の中で自分だけなのだ。鼻の奥が熱くなって、僕はぐっと喉の奥に力を入れた。

 手元で春子さんのおにぎりが囁き合うのが聞こえる。

「…おにぎり、食べるか?」
 精一杯、冷静を装った声はわずかに震えていたような気がした。

「たまには気が利くじゃん!最近にいちゃんだけどっかで食べてきて、ちょっとずるいと思ってたんだ」

 僕は春子さんから預かったタッパーをテーブルの端に置いた。先週末に回収したはずの郵便物がまだ開封されずに置かれっぱなしになっている。この4人掛けテーブルが夕飯のおかずでいっぱいになることはない。朝も、夜も、代わり映えのしないおかずカップが並んで、冷蔵庫に一番近い椅子に一人で座る。今日はその定位置に由佳が座り、僕は由佳と向かい合う椅子を引いてみた。慣れない状況に若干の居心地の悪さを感じる。由佳は僕を気にする素振りもなく、勝手にタッパーをあけて、たけのこの炊き込みおにぎりにぱくついていた。

「んーー、おいし~!母さんのキャベ玉焼きも食べちゃう。作り置きもいいけど、やっぱ出来立てってなんか違うんだよねぇ」 

 僕は由佳の何気ない言葉に息を飲んだ。出来立ては「なにか」が違う。それはやっぱり、『料理の記憶』じゃないのか。春子さんのおにぎりと、母さんの作り置きの違いが由佳にもわかるのだ。僕ははやる気持ちを隠し、素知らぬ顔で尋ねた。

「…なんかって、なんだよ。出来立てって言っても、もうかなり冷めてるぞ」

おにぎりの具にしては大きめに切られたたけのこが、しゃっきりとした歯ごたえを残し、独特の旨味と香りを感じる。春子さんのおにぎりは、温度を失ってもあたたかい。

「わかんない。たしかにそうだけど。冷凍とか、あんまり長く保存してると鮮度が落ちちゃうんじゃない?」

 鮮度…、僕は由佳の言葉にはっとした。頭の中の霧が吹き飛ばされるように晴れていく。そうだ、僕も冷めてしまったおにぎりをおいしいと感じた。出来立てのぬくもりは案外すぐに失われる。その後を追うようにして、ほかにも失われていくものがあるとしたらそれは…。

「それよりさあ」と、由佳が部活の先輩の雰囲気が悪い話をはじめた。僕は会話に集中しきれず「へぇ」とか、「そう」だとか、適当な相槌を打つ。

「キャベ玉焼き、一枚くれないか」
「えぇ、自分で温めなよ」

 文句を言いながらも、由佳が僕のお皿にキャベ玉焼きを移した。薄いたまご生地に、きみどりのキャベツがたっぷり挟みこまれている。

 なぜこんなにも簡単なことに思い至らなかったんだろう。感情がジェットコースターみたいに目まぐるしく揺れ動く。頭の中で、横を歩く今井の声が聞こえた。「見えてるものしか見てなさそう」。その通りだ、僕は「見えない」から「ない」と勝手に決めつけてきた。見えてるものしか見てこなかったから、母さんは楽をするために冷凍に頼っていると思っていた。

 遠の昔に捨てたはずの淡い期待がじわっと胸に広がる。僕がいままで食べてきたすべてに、柔らかな火が点った瞬間だった。

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