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何曜日に生まれたの

野島伸司はもう地上波の連ドラを書けないんじゃないかと思っていた。90年代トレンディドラマ全盛期に、鬱々とした展開を悉く紡いで我々をあれだけ熱中させた野島伸司。

1分1秒に釘付けになったあっと驚く展開と詩的な台詞回しが魅力の野島ドラマは、令和の世の中ではもう堪能できないのだと思っていた。

思えば「理想の息子」辺りから様子がおかしくなってきた。具体的に言うと、かつてテレビの前で正座して待機したようなワクワク感が薄れてしまったのだ。殊更「OUR HOUSE」など見れたもんじゃなかった。

どこかアンニュイな昔の洋楽を主題歌に据えて、独特な詩的表現をベースに敷いた自身の世界観を彩ったあの野島ワールド。結論から言うと、「何曜日に生まれたの」で、少しだけ蘇ってくれたのだ。

コロナ禍で行動規制を強いられた若者たちに向けたドラマを描きたかったとインタビュー記事で読んだ。往年の野島ファンに向けてのドラマではなく、若者たちに向けての。

そうであれば、腑に落ちる。野島伸司とはこういうドラマを描ける作家なのだとコロナ禍を経た子どもたちに伝えたかったのだろう。はっきり言って、野島ドラマをずっと観てきたファンからすれば、驚きの展開などひとつもなかった。

アレのアレは「ラブシャッフル」と同じだし、アレのアレは「薔薇のない花屋」で観た。アレのアレも「未成年」のあのシーンそのままで、基本的にこのドラマのベースには、過去の自作がある。

あのとき視聴者を驚かせた手法をもう一度やっている。なぜか。往年のファンに向けたドラマではなく、新規顧客獲得のためのドラマだからである。

野島伸司がかつてのアイデアを再利用するという手法は今に始まったことではない。泣いたことがない、というモチーフで進めた「あいくるしい」のアイデアを、翌年の「薔薇のない花屋」で再び使うという荒業を平気でやってのける脚本家である。

つまり、平成の過去作の焼き直しを令和でやろうと思っても何の不思議もないわけだ。結果、冒頭に記したように、どこかアンニュイな昔の洋楽を主題歌に据えて、独特な詩的表現をベースに敷いた自身の世界観を彩ったあの野島ワールドが少しだけ蘇ったという結果になった。

これは皮肉ではなく賞賛である。キャラクターが主役であるはずのドラマという分野で、野島伸司はしばしばキャラクターより台詞を優先させる。

その結果、「OUR HOUSE」の芦田愛菜しかり、「高嶺の花」1話の石原さとみのような地に足付かないフワフワした幽霊みたいな存在が出来上がってしまう。それはもうドラマとしては失敗なのだ。

かつての野島ドラマは脚本とキャラクターが見事に調和していた。桜井幸子や広末涼子、酒井法子らヒロインたちも往々にしてそうであったし、江口洋介や三上博史も詩を咀嚼して深みを出していた。

詩的な表現を血の通った人間がやるから野島ドラマは成立していたのだ。

「高嶺の花」に話を戻すと、1話の時代錯誤の台詞の連続には鼻白んで絶望した。2話以降だいぶマシになったが1話に限定して言うと完全にドラマとしては失敗していた。脚本とキャラクターが調和しなくなった。

そんな野島さんが、過去の焼き直しであれ何であれ、ようやく戻ってきてくれたのだから歓喜以外の何物でもない。漫画原作やアニメを観れていないので、彼のドラマ復帰は本当にありがたい。

だが、ここは敢えて、今度は若者たちではなく、往年のファンに向けて書いてくれ、とは言わない。また「理想の息子」や「OUR HOUSE」みたいなことになると大変困る。

時代やコンプライアンスのせいで、あの頃の金曜ドラマみたいなものはもう作れないことは確かである。ただ、野島ワールドを全開にした「世紀末の詩」みたいなドラマをもう一度観たいなぁなんて言うのは欲深いことだろうか。

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