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戻ってくる日々

書きはじめたのは2023年の3月頃。まとまっていない備忘録、雑記。

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先日、狸穴の友人たちとニュースレターをはじめた。
先日といっても3月のことである。

ニュースレターをやろうという大きな理由というようなものは特にはなく、気づくとやることになっていた。そういうことにしておきたい。

友人がニュースレターを読んでくれた。時間は一方向に流れるわけでもないし、起きた出来事の順番を我々は正しく把握していないよねという旨の話を友人とする。これは3月の中頃のことだっただろうか。

時間はふとしたときに戻ってくる。一度何かの出来事が起こったということは、出来事が起こったその瞬間、その出来事をその場で体験すると同時に、どこかでまたそれが思い起こされるという潜在的な可能性を得ることとなる。
そして、その出来事が思い出される瞬間には思い出される時の出来事だったり感情やそこまでに過ごした時間などがベッタリとそこに付着していて、以前経験した出来事とは明らかに違うものになっていることがある。
その物事自体が起きた時よりも、ふと思い起こされたときの方が鮮明である、鮮明であるというのは正しくないかもしれないが、より深く刻まれるような、そんなこともあるように思う。

これは直接的には関係のない話であるかもしれないが、現在完了系や過去完了系、未来完了系を英語の授業で習ったことを思い起こす。出来事はその場でも完結しうるし、それ以外でも完結しうる。そして、そのどこでも完結し得ない可能性がある。

5月の上旬、父親が亡くなる。
確か1月末、夜の23時ごろだっただろうか、突然に、余命が書かれた紙をみる。確かにそこには残りの命がそう長くないことが書いてあった。
僕の記憶の中ではニュースレターをはじめたのは、父の一件のはるか前であったように感じるが、どうやらそうではなかったと書きながら気づく。

7月上旬、友人と演劇をやる。
父親の葬式を行い、現実では友人が結婚し、劇中では友人が戦地に行き、冠婚葬祭がひとしきりやってきた。
去年に引き続き演劇をできたことはひとしおの喜びで、感謝しかない。
友人ズの手記は相変わらずどれも最高なので、こちらに貼っておく。
どどん。



何かしらの形で残るもの。
-書いた文章、撮った写真、チラシ、動画などなどの森羅万象-
単に記憶のみでなく何かしらのメディアに記録された形で存在するものは、それが生まれた瞬間に未来に向かっていき、過去へ向かっていく。

そして、またどこかで出会ったりするのだが、そのときには、未来/過去に向かって飛び出したその瞬間とは少し異なったものになっている。

紙飛行機とか、ブーメランとか、惑星の公転とか、色んな動きはあるが、手を離れるその瞬間に、その手にあったものとはもう出会えないというのが、寂しくもあり、嬉しくもある。



高校の花壇のどこかには、卒業するときのタイムカプセルが埋まっている。成人式の後に友人と掘り出しに行ったときには見つからなかった。
タイムカプセルの中には撮りかけの「写ルンです」が残されている。
高校の卒業アルバムには、写真を楽しみにしているね、とムラオカくんがマッキーで書いてくれていた。
ごめん、ムラオカくん。まだ見つけられていない。
「写ルンです」の他に何を入れたの覚えていないタイムカプセル、そろそろ見つけてあげたいなと思うのである。

8月、フジロックに行く。
完全に友人のおかげでいくことができた。ひどく感謝している。来年もおそらく行くし、その次もおそらくいくのだろう。今年からの自分には、フジロックがある。大変に喜ばしく、強いことである。疑いながらも、だからこそ信じて日々をやっていくのである。戻っても来れるし、行けもするように。

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