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地域キャラクターの多様性について

これはご当地キャラクターとかの話ではないです。

まちづくりの事例を調べる中で1本の軸を決めることがありますよね。「○○の町」みたいな感じで。
地域の強みを自覚し、それを最大限に活かすために規制を設けると、強みを感じられる空間ができて、それが観光などにつながっていきます。

珍しい例ではないし、それによって雇用や誇りを創出することにつながることもあるでしょう。

でも、その空間を作り出すためには条例や規制が設けられます。自然の町を謳うところで、バンバン工場を建てるわけにはいきません。景観や食べ物にも統一性を求められます。

極端な話ですが、町の軸を決めるというのは住民の自由を縛るということにも繋がるのかなと思います。
地方の時代として町が自立を目指すようになったことで、地域のナショナリズムを強める形になったと言えるかもしれません。

日本人+地域のナショナリズム形成。
これが強まったら気持ち的にも日本内の差が大きくなるのかななんて想像しています。地域性を大事にしすぎるのも良くないのではないかと思います。

隣あう地域とかだったら同じ「りんごの町」となってもおかしくないですが、それがパクリとなったらなんか変ですよね。間違いじゃ無いけど、マネされるのやだみたいな。

それで、研究に活かせるかなと考えていたのが地域住民のキャラクターの多様性についてです。軸を決めてしまったらそれだけ多様性はなくなるのだろうと思います。

色々なキャラクターがいなければ方向転換が難しいんじゃないか、地域内の意識が密になりすぎてよそ者が近づけないんじゃないか。そんな心配があります。

自立はしすぎるものではなく、協力関係を築く必要があって、その協力関係を公にすることも必要かなと思います。
意識を内に向けすぎなくてもいいのかもしれません。

地域って人に置き換えられるんだろうなと感じる時があります。孤立してもいいことないし、色々な感情を持っている。
「○○の町」という軸はいわば専門家みたいなものであって、でも専門家は1つの物事だけの知識で成り立っているわけではなく、あらゆる知識の上で成り立っています。

言いたいことが伝わるだろうか。
「○○の町」みたいなものに違和感があって、その1つの答えがこれって感じです。何か町を表すキーワードは必要だとしても、それは誰かを縛ることではないし、他地域を敵対することでもない。

だからどうしろってわけではないのですが、まちの自立が根付くと同時に転換期がやってくると思います。二拠点生活、テレワークが進む中で地域性ではなくて、人間性に焦点を当てた何かが生まれるかもなと想像中です。

「住民が温かい」って紹介よくあるじゃないですが、それにもっと差が出てくるかもしれません。「自然の町」とかじゃなくて、「第一次産業従事者が多い町」っていう表記も農業やる気になりません?

以上は全部想像です。
読んでいただき、ありがとうございました。

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