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現代文の魔力──社会を生きる必須スキル

ぼくは、ある時突然社会に放り出された。
いや、厳密にはさまざまな複雑な要因が絡まって、大学を卒業して、4月からうっかりニートになってしまったのだ。
そんなうっかりと無職になってしまった人間が、現代文というスキルを用いて、この現代社会をサバイブした記録である。

人はうっかりニートにならないと思っている方にこそ読んでもらいたい記事なのだ。

断言しよう。人はうっかりニートになることがあるし、この話はけして他人事ではない。

これは、1人の発達障害者(ぼく)が、うっかりニートになってしまったが、現代文というスキルと出会って、1年間でカネを稼げるフリーランスになった話だ。



23歳の中卒ニート立志編

ぼくは、24歳から大学一年生になっている割とめずらしいルートを歩んだ人間だ。
23歳までは、高校を中退してから、ニートとしてフラフラ過ごしてきた。
親に頼ったり、誰かに頼ったり、
カネが必要ならコンビニや本屋でバイトをして、ニートとしてフラフラ生きてきた。


大学受験は考えないでもなかったが、とことん継続力がなく頭が悪いぼくには、そんなものは夢のまた夢だった。

とにかく毎日が退屈だった。
そんな退屈を埋めてくれたのが、YouTubeの違法アップロードの動画やサブスクリプションのサービスだった。

起きてから寝るまで、
考えれば不安なことしかないので、
常に何かをインプットしていなければ、不安で仕方なかった。
現実という化物は、いつもぼくの安心を脅かそうとしていた。

仕事は?結婚は?まわりはもう立派に働いてるけど?
お前は何してるの?何もしてないの?
いつまでそうしてるの?恥ずかしくないの?
死んだら?そうだよ、役に立ってないんだから死になよ。
中卒のお前が今さら何かを始めたってなんになるの?
もう死のう。いっそのこと死のう。
ねえ、死んだ方がお前の人生はよっぽどラクだよ。

現実は、常にぼくにこう囁きかけていた。
やることがなくなってしまえば、ぼくは死ぬことしか考えられなくなってしまうので、
それが怖くて自分だけの価値を探すための冒険をしていた。


それは開き直りでもあったし、インチキな自己正当化でもあった。
だから、ひたすら考えるべきことを放棄しながら、インプットの海に潜っていった。

もちろんこれは自己責任である。
自分が悪い。
高校を中退したのも自分だし、
そこから再起奮闘しようとしなかったのも自分だ。
そして、楽な方楽な方へ流されていったのも自分だ。
しかし、そんな正論に向き合えるほど、
ぼくは強くなかった。

それが、ぼくの読書経験の原点だ。
ぼくは、大学に入るまでと入ってからで合計1000冊以上は読んだというのが密かな自慢なのだが、それも現実という化物と目を合わせないようにするための生き延びる措置だったのだ。

それほど現実は、おっかないものだった。
社会で働き、生きるという普通のことが、
ぼくにはできなかったし、それから逃げ続けることによって脅かされる精神には耐えられなかった。
だから、本を積み上げて知識と理論で武装したのだ。
※この当時ぼくは、この経験がカネになるなんてまさか思っていない。

社会が、現実が、
ただひたすらに怖くて仕方がなかった。

おまけに、人当たりもいい方ではなかったので、
相手からいい印象を持たれることも少なかった。


積み上がっていく本の山は、ぼくの社会や仕事などの「正解の人生」からの現実逃避の証拠だったのだ。
図書館に足繁く通ったのも、難しそうな本にチャレンジしたのも全部、「正解の人生」から逃げるためだったのだ。

ぼくは、一般的な社会のレールで、成功しているわけではないので、自分を許してあげることがすごく難しかった。


大学を出て就職して、というルートの成功はぼくにはなかった。
一般的なライフコースによる成功できない以上、どこかから存在証明を借用するわけにはいかない。
つまり、社会の中での成功を自分の成功と重ねて自己肯定してあげる方法は、ぼくにはできなかったし、できそうになかった。
ぼくは、ぼくの幸せを自分で見つけるしかなかったのだ。
したがって、ぼくの幸せは、社会の中の競争で勝ち抜くレースの中からは得られないことを知った。

積み上がるキャリアと増え続ける預金残高の中には、幸せなんかないのだと、自分を説得する手続きがぼくには必要だった。

じゃあ、ぼくが幸せになるためにはどうしたらいいの?

その答えこそが、現代文だったのである。


幸せになるための現代文

幸せになるために、現代文が必要だ。
ぼくは、現代文講師として早稲田やらお茶の水女子やらの過去問と格闘し続けて思うことがある。
それは、現代文は幸せになるための必須スキルであると。

どういうことか。
現代文は、筆者の意見を客観的に読み正解を探す科目だ。
国立であっても私立であっても、答えは課題文中にかならずある。

この客観的に読むという行為がすごく大切で、
自分の意思やイデオロギーとは別のところにある主張を、「この人はとりあえずこう考える人なんだな」と受け取る作法はとても大切ということだ。
他人の意見を相対化し、客観的にそれを分類する力が読解力なのだ。

個人主義・新自由主義・リベラル・リベラル・全体主義など、世の中にはさまざまな考え方がある。

ある人は、

「自由が何よりも大切だ。何者にも囚われずに自由にどんどん稼ごうぜ!ガツガツ稼いだ先に、お前の幸せはある!だから強くなろう」と誘う。


しかし、ある人は、

「そんなところに幸せなんてないよ。もっとみんなと仲良くしなくちゃ。韓国人も中国人もゲイもレズもみんな平等。みんな等しく神の子だよ」と誘う。

でも、ある人は、

「幸せというのは、昔から決まっているのだ。変わらないこと。故郷を愛し、そこに住む人を愛する。これだけが幸せだ」

ところが、それが過剰になれば、

「国家という素晴らしく偉大なものの中に取り込まれてこそ幸せだ。それ以外に幸せなんてありえない」


こんな風にさまざまな意見がある。
これらの意見は、時には血生臭く反駁をしあったり、時には引用しあったりしているのだが、

要するに、さまざまな幸せへのルートが示されているのだ。
現代は、自分のセンスと価値観に合ってる幸せを選ぶ時代なのだ。

だから、右でも左でもなく、
あなたの感性にあった幸せを選択しなければならない。
そこには、さまざまな筆者の意見を相対化が不可欠だ。
「あの人はああ言ってるけど、この人はこう言ってる」と、絶対的に見える主張から少し距離を取る。

こういう作法が今の時代を生きるには不可欠なのだ。
ひろゆきやメンタリストDaiGoやホリエモンは、座標軸の中ではどこに位置する主張をする筆者なのかを知っておかなければいけない。
彼らの目指す方向に、自分の幸せがあるのかをどうかを一度立ち止まって考えなければならない。

現代はひどく忙しくて、立ち止まる隙を与えてくれない。
スマホをひらけば60秒のショート動画で、鋭利な論理でさまざまな主義主張が展開される時代だ。
昨日までの常識は今日には別の常識に塗り変わることだってある。
こうした時代に踏みとどまって、自分の幸せと関係があるのかを見極める時間は不可欠なのだ。
なぜなら、あなたの人生は60秒のショート動画なんかでは規定できないものだからだ。

だから、右や左ではなく、
さまざまな筆者の意見をあなたの中にインプットとして、それらをあなたの幸せに合うように組み合わせて、ファッションを楽しむようにイデオロギーを選べばいい
あなたの生き方やライフスタイルを選択すればいい。

しかし、そこを誰かに任せてしまったり、誰かに委ねてしまってはいけない。
そうすると、それはあなたの人生ではなくなってしまう。
誰かの人生の一部になってしまう。
新興宗教だろうが占いだろうがDaiGoだろうがひろゆきだろうが、
あなたという人間が生きる答えは、あなたの中にしかないのだ。


そういう距離の取り方と生き方を選ぶための作法が現代文なのだ。
つまり、幸せになるための現代文なのである。
幸せになることができたら、いよいよ社会に出られる。

スキルとしての現代文

現代文はカネになる。
はぁ?と思うかもしれない。

現代文は、筆者の主張を正確に客観的に汲み取る科目だ。
現代は、さまざまな情報で溢れかえっている時代でもある。
つまり、たいていのことは検索して根気強く食らいつけば身につけられる時代だ。

ネットにはさまざまなコンテンツで溢れている。
プログラミングやWEBデザインを覚えようと思えば、Udemyあたりで探してみれば最適な映像授業が見つかるだろう。
操作方法がわからないツールがあれば、YouTubeやGoogle検索をかければたいていのことは解決してくれる。
そして、chatGPTがそれをより高次元で可能にしてくれる。

ここで、筆者の意見を受け取るという現代文の作法が生きてくるのだ。
とりあえずその分野のプロっぽい人を探して、インプットを始める。
ある程度それが理解できるようになってきたら、実際にスキルとして使えるように磨いていく。

しかし、それを習得するまで時間も知らなければならない。
筆者がカンタンだということでも、ぼくにとっては難しいかもしれない。
逆も然りだ。
そこから、筆者を鞍替えしてしまうのだ。
自分にとってカンタンに攻略できるルートに乗り換えるのだ。

基礎の基礎くらいまでは、一番再生数を稼いでいる人の言っていることをそのまま実行していれば問題ない。

そこから発展系になった時、もっと効率がよくて自分の感性にフィットするやり方がどこかに転がっているのだ。
それを探すキーワードの選び方も現代文なのだ。
現代文には、穴埋め問題というものがある。
空欄になっている箇所に単語を埋めるのだ。

この穴埋め問題のように、自分がつまずいている部分に名前を探す。
そして、いち早く検索する。
するとたいていの場合は答えが出てくる。
答えが出ない場合は、英語で試す。
もし英語ができなかったら、Google翻訳でかまわない。
自分のハテナの名前を穴埋めして、そこを検索して補うのだ。
何がわからないかわからない時には、chatGPTに聞けばいい。

ただし、この時に必要なのが、正しい日本語を出力する力だ。
正しく日本語を打ち込めれば、たいていの疑問が解決する。

実は、自分が困っている状態を客観的に言語化できる人は思いのほか少ない。
それは、トレーニングの問題だ。つまり、現代文力の問題なのだ。

情報を分析して情報をインプットするために現代文は必要だし、
それにあたって困ったことになった時にも現代文は必要だし、
さらに、それを言語化するためにも現代文が必要だ。
つまり、現代文とは仕事に必要なプロセスをまるっと凝縮してくれている科目なのである。
したがって、教科書を読むことができるため現代文はカネになる。

まとめ

現代文の威力をわかってもらえただろうか。
ぼくは、現代文によって幸せになれたし、カネも稼げるようになった。









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