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自己紹介

みなさん、こんにちは。

合同会社Free Bird代表取締役の山田沙耶です。

note100記事を超えました!

と、いうことで今更ながら自己紹介をしようと思います。

私は、大阪府吹田市出身で、結婚をするまでずっと実家で過ごしました。

父は高校の英語の教師、母は商社で翻訳の仕事をしておりバリバリ仕事をする両親のもとで育ちました。

5つ上の兄と二人兄弟で、兄は昔から要領がよくそして面倒見もいい妹想いな兄です。(※幼い頃はたくさんいじめられましたが笑)

そして、母方の祖母と同居し幼少期は祖母が私の母代わりでした。

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平日は仕事で忙しい両親でしたが、土日は必ず家族で外食をしたりする時間をとっていました。

そして、長期休暇には決まって海外旅行に連れて行ってくれた両親。

私は昔から家族との時間が大好きでした。

父が高校の教師ということもあり、門限やルールが他の家庭に比べると厳しい方だったのかな?と思います。そんなルールをフル無視して反抗してきた私。

『門限は破るもの』『ルールは自分でつくるもの』が口癖だった私は、反抗期は相当荒れていたような気がします。

ただ、勉強に関してはあまり何も言われたことはなく「自分の人生だから自分で責任を持って歩みなさい」が父のモットーでした。

よく、『お父さんが英語の教師だったら教えてもらえるからいいね!』と言われることがありましたが、家では勉強を教えない主義の父。「自分で勉強しなさい」が口癖でした。この教えから、早い段階で【自立することの重要性】を理解していたのかもしれません。

学生時代は、小中と地元の学校に通い、高校の時に地元と少し離れた学校に通いました。

どこに行ってもすぐに友だちができる私は、友だちとの時間を何よりも優先してきました。土日は友だちとの時間を過ごすことに命をかけていましたね。よく母には「この家はホテルじゃないからね」と言われるほど家に帰らない日が多かったです。

そして、高校3年生の時に「あんた、留学してみるか?」という母の一言でアメリカ留学を決意しました。

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当時は、高校3年生の受験の時期に、留学をする人は一人もいなく、担任の先生にも猛反対をくらったことを覚えています。

この時、人と違う道を選ぶことは、こんなにも反対意見をくらうということを学んだように思います。

それでも自分で決めた選択は絶対に正解にすると決めた頑固な私は、アメリカで猛勉強をしました。日本人が一人もいない場所で、ことばも通じない、誰も知り合いがいない状態からスタートしました。

アメリカにいた時に支えてくれたのは、日本にいる友人と家族でした。毎月必ず手紙を送ってくれた友人たちと家族。たくさんの人の支えがあり乗り越えられた留学時代。

留学時代にお世話になったホストファミリーは、1年間無償で私を家族として迎えてくれました。パパとママ、同じ歳のホストブラザーと、年下のホストシスターが2人。そして犬2匹。とても愉快な家庭でした。本当の家族のように受け入れてくれたホストファミリー。

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ホストファミリーは、クリスチャンだったため週末には礼拝に行くことが習慣でした。その教会は、耳の不自由な方や目の不自由な方が通う教会。

ママが手話通訳をする仕事をしていたので、英語の手話を学ぶ機会もたくさんありました。そして、障害をもつ方々と触れ合う機会がたくさんありました。

アメリカのホストファミリーとの時間を通して、『人は全員平等である』ということ、人種や国籍、性別は関係なく人の命は平等であるということを教えていただきました。

アメリカでの経験は、またの機会に記事にします。たくさんの衝撃経験が多すぎて長くなりそうなので!

幼少期から学生時代まで、たくさんの経験ができたのも両親のおかげ。留学は、母が高校時代に経験していたこともあり「絶対行った方がいい」と背中を押してくれたことが大きなきっかけとなりました。

親がどれだけたくさんの経験を踏んでいるかで、子どものチャレンジできる幅も広がる!私は両親の子どもに生まれたことに誇りを持っています。

仕事に精を出し、命懸けで生徒の成長を支える父の姿は私にとって社会人の鏡。

負けず嫌いで、与えられた仕事は完璧にこなす母の姿は私にとって憧れの存在。

そんな両親の元に生まれたことに感謝し、今日も最大限チャレンジし仕事に励みます。

自己紹介、意外と長くなってしまったので続きはまた後日。

読んでいただきありがとうございました。

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