人を悲しませるのは「批判」ではなく「無理解」

 わたしはシニカルなネタやブラックユーモアが好きだ。でももちろん許せないネタや面白くないと感じるいじりもたくさんある。その違いを考えた結果出た結論のひとつは、「理解度の高さ」だった。

 たとえばM-1グランプリ2019で優勝した漫才師・ミルクボーイ。「コーンフレーク」のネタが大ウケしたが、あのミルクボーイ名物「偏見のかたまり漫才」が世間から大きく受け入れられたのは、間違いなくミルクボーイの「コーンフレークへの理解度の高さ」が理由だ。

 彼らはこのネタを作るにあたって、おそらくコーンフレークをめちゃくちゃ研究して、コーンフレークを実際に意識して何度も食べたうえで受けた印象を丁寧にネタに落とし込んでいるはずだ。「過去に食べたな~」程度の知識や経験でここまで精度の高いものはまず作れない(※その程度の知識と経験でここまでのネタを作れるとしたらそれはそれで天才)。

 もしこれがネットなどで得たり、なんとなくの浅い知識――たとえば「牛乳でふにゃふにゃになったら気持ち悪い」くらいのレベルだったら、「コーンフレークを作る人に失礼」「あれが美味しいのに」なんて苦情で持ちきりになるだろう。その前にその程度のことで決勝には行けない。

 彼らの「毒」が受け入れられたもうひとつの理由は、本気でコーンフレークをdisっているわけではないからだろう。なぜ本気でdisっているように見えないのか。それはツッコミの内海さんが笑わないからだ。

 内海さんが「コーンフレークは生産者さんの顔が浮かばへんのよ」や「コーンフレークは死ぬ前に食べるもんちゃうのよ」と言いながら笑っている姿を想像してみてほしい。その姿はコーンフレークをバカにしているように見えてしまう。

 内海さんは「コーンフレークはこういうものや!」と怒っている。なぜかというと、コーンフレークかと思いきや「コーンフレークとちゃうやないか!」と言いたくなる特徴が出てきて、コーンフレークとちゃうかと思いきや「コーンフレークやないか!」と言いたくなる特徴が出てくるからだ。

 内海さんは「どっちやねん!」という怒りをあらわにしながら、コーンフレーク理解度の乏しい我々がぎりぎりわかる/わからないのラインで、コーンフレークの特徴を詳細に上げている。感情の矛先はコーンフレークに一切向いていない。ただただ真剣に「それがコーンフレークなのか? コーンフレークちゃうのか?」を見極めようとしている。だからどぎつい偏見でも笑えてしまう。

 それでも、ミルクボーイのコーンフレークのネタで傷ついている人はいると思う。誰も傷つけない笑いなんて存在しないから、それはもう仕方ない。だが不必要に他者を傷つけるわけではない漫才がグランプリに輝いたことは、非常に喜ばしいことだ。

 RHYMESTERの宇多丸さんの映画批評は、酷評が多いことでもよく知られている(最近はどうかわからないけれど)。宇多丸さんの酷評が多くの人から受け入れられ、面白いと言われていたのは、やはり理解度の高さと真剣さが理由だ。

 「この作品をいったい何回リピートしたんだ?」と驚くほどの細かい指摘。「どれだけ時間を掛けたのだろう?」と怖くなるほどの深い考察。インスタントではない「時間」と「深さ」があるからこそ、辛辣でありながら興味深い批評が成せる。

 そして宇多丸さんも内海さん同様、笑うことなく噛みつくように熱心に、だけどどこか冷静に語っている。まさしく真剣そのものだ。

 わたしが中学時代に大人のことが嫌いだった理由は、こちらの話を聞こうともしないで、ただただひたすら教師の思想を押し付けられたからだった。処女小説で書いた内容はまさにその体験やトラウマが元になっている。

 人間はいつも「わかってもらえない」ことに寂しさを感じてしまう生き物であると思う。だからこそ「ちゃんと見てくれている」「ちゃんと知ってくれている」と感じる瞬間に、喜びが生まれるのだろう。

 その人・もののことを100%知る、理解するなんて無理な話だ。だけど知るための努力は無駄ではないと思う。そんなスタンスで生きていきたいなあと思う今日この頃であった。

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