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(感想)違う時間の上で、違う夢を見る

(以下、筆者Xアカウントより転記した文章に追記)

ロームシアター京都にて『RYUICHI SAKAMOTO + SHIRO TAKATANI TIME』鑑賞。音と映像と動きによって作り上げられてきた時間を経てこその暗闇と静寂の中で、安心して夢を見られたらどんなにかよいだろうか。ただそこで安心できないのは、この舞台が美しくはあっても優しくはないことを表しているのだと思う。

『TIME』であるからには時間の物語なのだが、先述したように、私にはまず「夢」というものが強く感じられた。それはスクリーンに最初に映し出されるテキストが夏目漱石の『夢十夜』の「第一夜」、「こんな夢を見た」の一文だからだろう。作品中には『夢十夜』の他、能楽の『邯鄲』、『荘子』の「胡蝶之夢」よりテキストが引用されている。

長い長い夢を見ていたような気がするのに、ほんの少しの時しか流れていない。反対に、ほんの少し夢を見ていただけなのに、長い時間が過ぎている。そんな時間という概念のあやふやさが『TIME』を覆っている。

舞台を観ている時間に限らず、何かに熱中している時の時の流れは速いことがないだろうか。それは「楽しい時間はすぐに過ぎる」などというふうに言われることがある。しかし、楽しいからといって早く流れる時ばかりでもないように思う。いつまでも続くような時間の中にいて幸福を感じていることもある。もちろん、いつまでも終わらないと思える不幸の時間もある。早く流れる時間も、ゆっくり流れる時間も、それを感じる本人の身体や思考によって、速度を変えているように思うのだ。

時間が体感ならば、同じ何かを観ていても、私と、隣にいる人との感じている速度は違うはずだ。ひとつとして同じ時間が流れていない身体が、ひとつの場所に集って同じものを観ていることの不思議を思う。本来、まとまらないはずのものが、人の作った時計によってまとめられている。それは無理やりであるとも言えるのではないか。あなたにはあなたの時間があり、私には私の時間がある。

薄暗がりの舞台に張られた水の上を、笙を吹きながらゆっくりと進む宮田まゆみ。水面に横たわる、時を止めたかのような石原淋。大雨を浴びながら動く田中泯。ドラマチックではない動きを、息もできないような緊張感の中でじっと見つめる、その時間。私は彼らの動きを追い、音を聴き、ほの暗い舞台上で少しずつ変わっていく風景を観ていた。もしかすると、次に来る何かを待っていたのかもしれない。それは少し、望みが過ぎるような気が、今になってしている。ただ見聞きしてその場にいること。その場にいられることを受け止めること。その瞬間を大切なものだとその瞬間ごとに思うこと。そんなふうに「現在」であり続けることが私にできていただろうか?

誰もが違う時間を生きている。誰もが違う夢を見る。他人と同じ夢を見られるはずはないのに、同じ夢を見られるような気持ちにさせてしまう大きな装置が、舞台だと感じた。他人と全く同じ夢を見ることは恐ろしくもあるが、その幻想はとても美しい。


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