見出し画像

自分が「恵まれている」ことに気付けない

日曜日は文学フリマ東京38に一般参加してきたのだが、今回は文学フリマの話ではない。文学フリマでは本当に引くほど本を買ってしまい、写真や冊数を挙げると「そんなに読めるの?」といったツッコミ必至なため、詳細を話すことがはばかられるのである。買った本を紹介できれば、作者の方の何らかの力になるのかもしれないが、申し訳ない。

今回の東京行きは、日帰りであった。泊まる資金が不足しているためである。とはいえ往復新幹線なので、一つのイベントのために新幹線利用で出かけていくのは、ある意味贅沢ではある。しかし、節約のために夜行バスに乗る体力気力はもうない。

この新幹線利用であるが、行きは良かった。私の乗る金沢始発で、目的地東京が終点であったからだ。席は適度に空いており、私の隣には誰も乗ってこなかったこともあり、大体寝ていることができた。

問題は帰りである。終点が金沢かと思っていたら、そうなのだ、春に延伸した北陸新幹線は敦賀まで行くのだ。金沢が終点ではないため、降りそびれることがないように、ぐっすり寝てしまうことはできない。文学フリマで入手した大量の本を入れた大きな鞄を肩にかけて移動して疲れている身に「寝ないほうがいい」のはつらい。

さらにである。私は何も考えずに窓側の座席を指定していたのだ。そうすると通路側に誰かが乗ってくる可能性があり、しかも、その通路側の人が金沢より先の駅まで乗っていく可能性がある。つまりは、金沢で降りにくいかもしれないのだ。

大宮から隣に人が座った。どうか金沢より前の富山とかで降りてくれ、と願っていたのだが、降りるそぶりがないどころか、隣の人は寝だしてしまったのだ。降りにくさ倍増である。寝ている他人を起こすのは申し訳ない。せめて自力で起きてくれ、と願っていたら、起きた。よかった。と安堵したのも束の間、隣人はあろうことかテーブルを出してそこに突っ伏して寝始めたのである。降りにくさ倍、さらに倍、である。

どうしたものかと窓の外を眺めて、ふと気が付いた。私が今まで、何も気にせずに寝ていられたのは、実は恵まれていた状況だったのではないか。新幹線は始発から乗り終点まで行くから、何も気にしないでいられた。これが、途中から乗る場合や、途中で降りる場合だと、気を遣うこともあるだろう。

自分の状況が基準になり、それを当たり前とする。それは違う。人によって状況は異なるし、当たり前なんて、ごく狭い一部で醸し出された雰囲気に過ぎない。なのに、内輪の決まりみたいな事象を当然と認識してしまい、そうでない状況が訪れてみないと、自分の視野が狭かったことに気付けない。

それを私に教えるために、テーブルを倒してまで眠り込んでいるのか、隣人よ。有り難いことなのか、これは。しかしいくら有り難い事態とはいえ、目的地で降りないわけにはいかない。私は「すみません」と告げて隣人を起こし、金沢で新幹線を降りたのだった。



お気持ち有り難く思います。サポートは自費出版やイベント参加などの費用に充てます。