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ノブレス・オブリージュ的精神

空から1億円降ってこないかな。
それをいろんな所に分散して寄付するのに。

空からお金が降ってきたとして、それを交番に届けなければ、遺失物横領罪に問われてしまうのだろうか。その前に、1億円の札束が降ってきて頭や体に当たれば、最悪死ぬのではないか。1億円は1万円札1万枚で、約10kgだそうだ。

あり得ない妄想は置いておいて、もし私が大金持ちになることがあるのならば、お金を独り占めしないようにしたいと思っている。最初に書いたように、いろいろな所に寄付したい。これもあり得ない妄想の一種だとは思うのだが、思考実験として続けてみる。

自分が持っているお金は、自分の好きなように使っていい。当たり前のことである。大抵の人は、自分の努力などの対価として金銭を得ているのだから。望まずともお金持ちの環境にあり、努力せずとも大金を手にしている人もいるのだろうけれども。そうであっても、お金はその時、手にしている人の意志で使われる物である。他人に使い道を強要される物ではない。

ここでタイトルにも使った「ノブレス・オブリージュ」という言葉を登場させる。これは、高い社会的地位には義務が伴うことを意味するフランス語である。詳しくはWikipdiaなどを参照してほしい。

欧米では、貴族層、富裕層、権力者などにノブレス・オブリージュの考え方に基づいた行動が求められているようにうかがえる。具体的な行動として、慈善活動や寄付などがある。日本ではどうだろうか。著名人による慈善活動が「売名行為」などと揶揄されてしまう日本社会に、この精神は浸透してはいないだろう。

そしてこの考え方は、社会的圧力であると見なされることもある。 それでも私は、多く持てる者が自負しなければならない責務はある、と考えたい。なぜか。

なぜだ? 富裕層ではない私自身がこの精神を体現していないので、実感として説明することができない。この考え方が必要だと思い、それをわかってもらうために理由を考えたが、他者を説得できるだけの明確な理由として文章化することができなかった。申し訳ない。精神が浸透していない、などと他人事のように書いてはいけなかった。まずは自分がこの精神を理解しなくてはならない。

なんとか絞り出してみた理由のようなものとしては、社会は自分一人だけで成り立つものではないから、なのではないか。誰もが一人では決して生きていけない。どんな大金持ちであっても、他人が動いてくれなければ、生きていくために必要な食料や物資を得ることができない。他者の存在に感謝し、自分を生かしてくれている他者の存在を守るために、人は自身の力を差し出さなくてはならないのではないか。多く持てる者ほど、その影響力は大きくなるはずだ。だから及ぼす影響の分だけ、義務も大きくなるのではないか。

いや、「自分を生かしてくれている他者の存在を守るために」だとするならば、義務も自分のため、ということになるのではないか。もっと利他の心的なものが根底に流れていなければならないのではないか。

しかし、以下の利他主義についてのWikiを参照すると、「社会科学では、人を利他主義に至らしめる内的要因として、自己満足や自尊心・罪の意識からの解放などが挙げられている」との説明がある。やはり自己満足からでしか、人は他者の利益を願えないのだろうか。

例えば「好きな人が笑ってくれたら嬉しい」とか「お客様からの感謝の言葉で頑張れる」とかも、自分の満足なのだ。しかし、そんな状況になった場合には、笑ってくれた相手も、感謝しているお客様も、快の感情を持っているであろう。始まりは自己満足であったとしても、他者に何らかの良い事象をもたらすことができたならば、そこには自己満足を越えた何かがあるのではないか。ノブレス・オブリージュは、そんな自己満足を越えたところにある何かの、ちょっと強制力があるもの、なのかと、ここでは結論付けておく。

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