見出し画像

疲弊とエネルギー

日本社会の疲弊の原因を考える

 現代の社会のなんとなくよくわからないけれど疲弊している空気の正体について考えている。一般的には少子高齢化とか人口減少とか言われていると思うけれども、突き詰めて考えると、続けていくことにめっちゃエネルギーが必要な状況になっているということではないかと思う。
 これまでは何にも考えなければ続いていくのは当たり前だったもの。それを続けていくためには、目的だとか意味だとか、色々なものを関係者がきちんと共有してエネルギーを高めていかないと続けていくのが難しくなった。「続ける」という結論を出すにしろ「やめる」という結論を出すにしろ、当事者もその周りの人たちも葛藤し、エネルギーを消費する。

身のまわりの疲弊

 身の回りのことで言うと、前のnoteでも書いたけれども。釜石よいさという地域行事を続けていくために、会場を街中から郊外のスタジアムに移して、開催時期や時間を変更してコストを削減した。

 私はこの議論の当事者ではないので詳しいところは分からないが、当事者だった人たちは、釜石よいさを何のために行うのかといった目的意識を様々な視点から議論することやコスト削減方法を検討することにとても大きなエネルギーを使ったと思う。
 一方で、長年続いてきた釜石の第九は震災の年も行われたけれども、2023年でその歴史に幕を下ろした。また、千年も続いているという岩手県内陸部の奥州市の蘇民祭も今年で終わると報道されている。

続けることのエネルギー

 持続するためにエネルギーが必要だという現象は必ずしも悪いことばかりではないと思う。目的意識を明確にすることによって得られる意味もたくさんある。ビジネスや公共事業で言えば、絶え間なく、ここにエネルギーを費やすことは必須だ。
 一方で、人間のいとなみの中には、淡々と続いてきた、いわばルーティン化してきたもの尊さというか、失われて初めて気づく価値みたいなものもあるんじゃないかと思ったりもする。とはいえ、これが担い手が少なくなるということの現実なんだろう。

決定にこだわり過ぎない軽やかさ

 もう1つ視点をプラスすると、これまでは一旦「続けない=終わらせる」という結論が下されたら、それが絶対だったかもしれないけれど、これからの時代は「続けない」と決めた結論に対しても「やっぱり再開します」「続ける方策を教えてくれる人がいたので、もう1回やってみましょう」と言える軽やかさみたいなものも、社会に根付いてくるんじゃないかな、という期待みたいなものもある。

※スキマ時間 20min writing としてしばらくは音声入力した文章を簡単に修正編集して投稿してみたいと思います
















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?