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一番初めに幸せにすべき人

幼い頃、母と姉とお風呂に入ると必ず母が「美人さんになーれ」と濡れたタオルで顔を拭いてくれた。
母の声はおまじないをかけるように柔らかで眩しかった。幼いながらに、「美人」という単語が自分にはとても似つかわしくないとむず痒かった。

だから、羞恥心に涙目になりながら「ブタになりたい。」と母の言葉を跳ね除けた。

母と姉が笑った。
あの時の2人のケタケタとした笑い声と表情が忘れられない。はじめて自分の力で人を笑顔にできたような気がした。私の原体験はここにある気がしている。


サービス精神が旺盛


一瞬でも人を幸せにできるのなら、身も心も削ることができる人間だ。人に喜ばれることが快感でしかない。
終始おどけて笑わせて、女子会では毎回プチ手土産準備しちゃうし企画もコリに凝ってしまう。(女の子相手だとそれが顕著で女子大時代は本当にアドレナリンどっぱどぱだった。)

そのサービス精神が「福祉」と出会って早15年。自分のやりたいことはこれだ!と当初は雷に打たれたようだった。
実際、その道で働いて今年で10年目。身も心も時間も削って、世のため人のために日々駆けずり回っている。

とはいえ私も生身の人間だった。いよいよ削るものがない。専門性を活かして福祉と向き合ってきたけど、それで得られる喜びややりがいと犠牲となるもののバランスが崩れてきた。心も体も修復しきれないままに走っている。オンボロ自動車なら、バッテリーが頻繁に上がり、まもなく走行中にタイヤがどこかへ飛んで行きそうな。


限界かもしれない

天職だと思った。今の職場や業務内容は正直思いがけないものだった(児童福祉分野志望だったのに高齢者福祉に配属された)けど「福祉」は私にピッタリだと思っていた。寄り添う姿勢、強みと言われる笑顔、親しみやすさ、色んな人に褒められてきた。だから、「限界だ」と心身が根を上げても認めたくなかった。

仕事中にわけもなく涙ぐんだり、支度をしていざ玄関を出ようとすると息苦しくなって「行きたくない」としゃがみ込んで子どものように泣きじゃくることが時々ある。働く誰しもみんなそういう経験があると思っていたけど、どうやらそうじゃないらしいと知った。うつの人によくある傾向らしいけど、働きに出かけられているから「まだ行ける」と働いている。(「まだ行ける」って発想がもう限界値を迎えた人のソレらしいという説も)
夫に「あなたの仕事は尊いし、誰でもできることじゃない。でも、もっと自分を大切にしてほしい。」と言われたことがある。心配ばかりかけている妻、現在進行形である。


自分をもっと大切にしたい

大好きな夫が大切にしてくれている自分をもっと大切にしたい。そう思ってから、行動に移すまであまり時間は掛からなかった。ずっと気になっていたキャリアスクールSHElikesに入会した。
自分や他人の思いや頭の中を形にすることが昔から好きだった。仕事でチラシや広報を作るとか、ものづくりにはストレスなく没頭できる。WEBデザインを学びたかった。学びたかったというより、当初は仕事以外の何か好きなことに没頭したかったのかもしれない。

入会して3か月が経過した。MacBookの操作方法に手こずっていたのが嘘のように、ツールやショートカットも割と使いこなしながら日々楽しく過ごしている。自分にはまだまだ秘めた可能性があるように思える。誰かのためじゃなく自分を満たすために「やりたい」だけに取り組む日々。ボロボロだった心身が少しずつではあるものの丁寧に修復されていく。全身に血が通って「あー、生きてるー」と心底思えるようにまでなった。

「福祉」にすがらなくても、もしかしたら、やりがいもあって、自分も苦しくない働き方があるのかもしれないと希望を持つことができた。不安はもちろんあるし、未経験で仕事にできるかというプレッシャーもあるけれど。

今までは「私が幸せにしてあげなきゃ!」みたいな責任を勝手に背負い込み烏滸がましいとは思いもせず人に尽くしてきた気がする。でも果たして、私が幸せにしたいと思ってきた人たちって不幸だったのだろうか?私がなんとかせずともすでにみんな幸せだったのではないかと。結局は自己満だったのかも?とも思う。

キラキラと内側から光を放っているシーメイトさんたちを見ていると、「自律」していると、人と健康的な関係性を結ぶことができると痛感する。他に依存せず、自分の機嫌(健康あるいは幸せ)は自分で掴み取る。自分で築き上げた幸せに加えて誰かや何かとの出会いがあって幸せが増幅する。
苦しまずに誰かを満たすには、自分自身が満たされていることが前提条件なんだ。私がすべきはまずそこだったとやっと気づく。

そういう話でいえば、最近思ったことがあって。
Webデザインを学びながら、たとえばバナーを作って、FBもらって、修正してはい1つ終わり。ということを今はしている。それはそれで楽しくて、没頭しているのだけど、どうしても心のどこかで相手の思いを汲もうとしたくなる。「この商品は具体的にどんなものなの?」とか「どんなイメージがいいの?」とか。課題でもある程度のペルソナ設定はあるけど、そのペルソナに質問したくなるのが常で。制作物も自分のためでなく、誰かのために作りたい!喜んでほしい!という思いがむくむくと湧き上がっている。


自分が幸せなら他人に尽くすのも苦しくない。

学んでいく中で、当初は自己満、自分がやりたいこと、好きなこと、没頭できることして現実逃避的な目的で始めたデザイン。色々学んで私自身はもう十分過ぎるほど満たされている。満たされたから、誰かに還元したい。私が得たもので誰かの力になりたい。やっぱり私の根底には「誰かを幸せにしたい」って気持ちがいつもうずうずしている。今だってそうだ。

デザインが、身も心も削らなくて済むのかは今の私にはわからない。でも、デザインでも人を幸せにすることはできる。福祉じゃなくても、それは達成できるのかもしれないと気づいてから、不思議ととても心が軽くなった。

自分自身が健康であることがきっと仕事ぶりにも現れる。
誰かを幸せにする前に、まずは自分自身を幸せにしてあげようねって話。
私には、もっと私が生きやすい手段を選択してく権利がある。ふらふら迷い、苦しみながらも、今それに気づけてよかった。

#マインドチェンジ

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