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長崎異聞 31

 結われた金髪が揺れている。
 細かく編み込まれているが、どんな作法なのか醍醐には判らぬ。
 馬の尾にも似て揺れるそれを追いながら、四方に目線を走らせている。
 かの女子の翠のドレスから、花香の如く、蜜のように甘い匂いが風に乗る。皐月の日差しはやや初夏の趣きのある午後であった。
 美婦の背後につくのは、士分としては道理が立たぬが、彼への下命はユーリアの警固である。その位置でなくば守護に不備が出る。
 かの談判の首尾は判る。
 先に辞去した大浦お慶の、満足気な笑みである。
 それは橘醍醐の知るところではない。
 彼はその武こそが恃みとされている。
「醍醐さま。お並びで歩いてくれませんか」
 振り返って彼女は言う。
「私の国ではそうするのです。居心地悪く、恥しうございます」
「拙者の下命は警固でござる。この場でなくば果たせません。ご勘如下され」
「お侍というのは、懸命というものなのですね」
 そのドレスにも似た翠色の瞳が、多少は曇ったようである。

 東山手の石畳を歩いている。
 思えばこの数奇な出会いもこの場から、驚天動地の勢いで始まっている。
 背後から蹄の踏みしめる硬質な音が近づいている。醍醐はユーリアを背に守りながら坂下に視線を送った。
 黒塗りの二頭立ての馬車が上ってくる。
 馬はその石畳が滑るらしく、口吻から舌が覗けており、踏みつけながら走っている。その黒塗りの客車を御している男も正装である。それだけでそれが懸令もしくは華族のものだと知れる。
 もしくは慶喜政庁の高官であろうか。
 あ、とユーリアが声を漏らしている。
 成程、と醍醐を胸に得心を落とした。
 その馬車の内部に絹帽シルクハットを被っている、陸奥宗光の横顔が、びろうどの窓掛けの向こうに見えたのである。
 程なくして石畳を踏みあげて、陸奥邸に帰宅した。
 絹帽は脱いだものの燕尾服を纏ったままの宗光が、玄関にて両人の帰宅を待っていた。いやユーリアのみであろう。宗光は両手を大きく広げ、そのなか花弁が水面に落ちる如くに、ユーリアが収まって抱擁を受けている。
 醍醐は羞恥の余り、目を背けた。
 あれを亮子夫人がどう思うのか。
 だがしかし夫人は頓着するようにも見えぬ。
「留守中、ご苦労」と抱擁のあと、頬に接吻をうけながら宗光が甲高い声でねぎらった。「して貴君にも進展があったようだの。仔細は電報で聞いておる」
 そうして醍醐を執務室に誘った。

 執務室で待たされた。
 衣服を着流しに変えた宗光が、小ざっぱりとした顔で現れた。
「やはり宮中のうえ、正装では肩が凝る」
 独り言のように言いながら机にどっかと座った。寝椅子ソファを好まぬ醍醐のために、その正面には床几が置かれそれを使っている。
「西郷従道総理からな、外務大臣を仰せつかった。ここで身支度をしてまた上京することになる。いずれ長崎奉行所より通達があると思うが。貴君については外務警固として、私が預かることとなった。階級としては警部となろう。報金もちゃんと出る」
 床几から転びそうになった。
 この春先は無為徒食の日々であり、それが出仕のほまれになるとは露知れず。
「してそればかりではない。かの大村卿が貴君に執心でな。次回の謀り事に貸してくれとな。鉄火場が待っておるぞ」
かたじけなし、していずれに」
「貴君も存じ上げておろう。かの門司がな。仏蘭西の租借領であるということよ」
 その言に相槌を打つや否や。
「儂はな、その門司を日本に取り戻す」

 
 
 

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