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長崎異聞 34

 埠頭まで駆け寄った
 然るに、時既に遅し。
 高雄丸は曳航縄を四方に掛けられて離岸していた。
 橘醍醐に暫し遅れてユーリアが駆け込んできた。額に汗を浮かべ、激しく咳込みながら悪態を異国語でついていた。
「・・・あああ。長崎に・・どう・やって私たちは帰るのでしょうか」
 自らそれに気づき、荒い呼吸ながらそう言った。
 醍醐は虜囚の如き有様の高雄丸から、視線を外さずに慰めた。
「安堵なされ。陸続きに街道を歩けばよいのです。幸いにも陸に船酔いは御座らん」
「積み荷は、積み荷はどうなりましょう。販路を開くと、お慶殿にお約束したのです」
「まずは蔵六殿に。して首尾はそれより」
 醍醐には船には未練がない。
 ただ門司を通過できるのか。
 今や出島に幽閉の身である。

 丸菱社内にその人影はなく。
 醍醐はその姿を求めて、その出島を探索して廻った。
 邦人を封じ込めたその人工島は、長崎の出島の四倍ほどの巨大なものではあったが、さりとて時間を要することもなく。
 釣り糸を垂れている蔵六の背に並んだ。
「仔細は承知しておる」
 目も合わさずに云う。声に含みがある。
 蔵六はいつも藍色の平服で、大刀しかびてはいない。その様相は隠居した町医者のようにも見える。
「ただ手間は掛ったな。仏蘭西人め、我らに臆しておったか」
 どういう事だ、という空気が伝播したのであろう。これも彼の謀りの一環であるのを承知で、醍醐は無言のまま彼の講義を待っていた。
 蔵六は掲げている竿で、彼方を指した。
「あれをな、如何いかがする。攻略を命ぜられたら」
 かつて門司と呼ばれた港が、今や東マルセイユと名付けられている。四方に城壁を巡らし、かつ運河を引き入れ、その租界そのものが城郭を為している。凡そ我々とは設計思考が異なる。
 東マルセイユを攻略地と見れば視点が変わる。
 五稜郭の延長にある、巨大な要塞であろう。見ればその防波堤先端に砲台がある。つまりは十字砲火の火箭が交わるのが、この位置である。
「当方の手勢はいか程で」
「二個大隊で、というと」
「奇襲しかござらんな。ただ勝機は御座る」
「ほう、仏蘭西の弱みがあると見るか」
「・・・実はあの地の居留民が弱みですな。まず海上への途を絶てば干上がりましょう。そして本隊で守備兵を叩けば良し。怖気けておるのでしょう、仏蘭西人は。城門は居留民の手で自ら開くと見ます」
「野戦に出て来るかね」
「ここから横槍を突く」
「して何が必要とみる」
「横槍として水平射ちのできる大筒おおづつと、この地を守護する部隊ですな。唯一の連絡橋を落とせば、二個小銃隊で間に合う。それもこれも海を制しておれば、ですが」
「・・貴君、それはどこで学んだ」
「江戸小川町(現神田)の講武所でございます。旗本の次男、三男はそこで学ぶという習わしでございました」
 それを聞いて蔵六は身体を二つ折りにして堪えている。
 笑いが炸裂しそうなのだろう。広い額をぺしゃりと右掌で打ち、竿を支えている左手が泳いでいる。醍醐はその竿を取り上げた。何かが掛かっている、と見たからだ。
「これも縁とは奇しきものよの。その講武所の師範を務めておったのが、この儂よ。つまりは貴君は儂の弟子筋であったか!」
 やはり何かが掛かっておる。
 醍醐は指先に暴れる獲物を感じている。
 如何な大魚であろうとも運命は先細い。
 

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