長崎異聞 33
薄靄が海面を覆っている。
海風は予想外にも冷たい。
払暁が赤紫に染める天海。
黒々と横たわるあの岬の向こうに、日輪が昇る予感がする。
灯台が白濁した闇を分かつように、光軸を回転させている。
緩く船腹を揺らしつつ、汽笛が鼓膜を裂くように響き渡る。
その光景を高雄丸の舳先で、懐手のまま橘醍醐は見ている。
陸に林立している光源はガス灯の群れであろうか、電気カンテラであろうか。この夜明けに煌々と輝くのは官舎であろうか、人家であろうか。その光量たるや長崎の比ではない。
異国であるのだな、と身震いする思いだ。
船は入国審査及び、検疫を受けるために停船を要求されている。
山吹色の光に染められたあの門司という港町が、仏蘭西であることを痛感するのだ。
数人の赤ら顔の異人が縄梯子で上ってきた。いずれも屈強そうで蒼い制服の生地がぴっちりと張り付くようであった。
応対したのは、無論ユーリアである。
素肌が透けそうなほど、無垢な白絹のドレスを纏っていた。
幅の広い肩まで覆うような帽子に造花飾りをつけて、長洋袴の裾を摘まんで深々と礼をした。
白鳥が舞うような優美な姿を認め、役人どもは毒気を抜かれ動揺した。
仏語でユーリアが口上を述べ、それを拝聴した彼らは碌に検分もせずに通過を許した。
朝日が海面の白波までも黄金色に輝かせるなか、漸く高雄丸は入港した。
Fourche nordという門司でも端に位置する場所に、水先案内の小舟が先導した。
方形の人工島があり、細い橋だけが陸と結ばれている。外洋の波を受けない人工島の懐に接岸した。仏人特有の皮肉な意趣返しであり、ここでは日本人が所謂、出島暮らしとなるらしい。
船腹に接舷された乗船櫓に踏み入れた瞬間に、ユーリアは意国語で叫び声を上げていた。通詞でなくともそれが快哉であると判る。
数日後のことだ。
西洋石造りの丸菱社屋は威風堂々としていた。
その建物に併設した宿舎で、一行は骨を休めていた。
足に揺れを感じないのに、最初は違和感を覚えた程だ。
それにしても、と醍醐は含み笑いをした。
脳裏に高雄丸に入国審査で乗船してきた仏役人の様子を思い出していた。あのドレスも蔵六の指図であろうな、と可笑しくなったのだ。
「何をお笑いなのです」と紅茶の準備をして、盆にのせた彼女が声をかけた。
「いや、あの通関役人の挙動をよ。そなたの応対が見事であった」
「まあ、私は船は懲り懲り致しました。早く陸を踏みたくて。それでつい強い言葉を彼らに使いましたわ」
「それは」
「お慶さまからお預かりした特撰紅茶の見本でございます。荷揚げにはまだ数日かかりましょう。仏本国への販路を開くために、ここまで運んできたのです。どうです、ご一服に」
醍醐はすっかりとその茶に慣れていた。
その茶を受け取ろうとした瞬間、両手でその頬を覆うようにして彼女が悲鳴めいた声を上げた。宙にとり残された盆を、カップは倒れてしまったが何とか醍醐は受け止めた。
「・・・船が」と絶句するユーリアの視線を追う。
社屋の硝子窓の奥に停泊している高雄丸が見える。その船に、ロープが幾重にも飛びかかっているのが見える。
窓を開けた。
拡声器で何かを叫んでいる。それを聞き取った彼女が蒼白になった。
拿捕されるそうです、と小さく呟いた。
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